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小さなすれ違い⑥/酷い有り様

 家を飛び出しあてもなく、成り行きで食べたくもない食事をとらされる。目の前では微妙な顔をした慎太郎が、口数少なく俺を伺いながら酒を飲んでいた。「ちゃんと食べて」とうるさく言われ味気なく感じる料理を無理やり口に運んでいる俺を見て、慎太郎は小さくため息を吐いた。  この店の料理は美味しいと評判で、俺も何度か来たことがあった。それなのに、気分が落ち込んでいるとこんなにもつまらなく、食も進まないなんて…… 胸がいっぱいで食事も喉を通らない、というのを俺は初めて体感した。 「俺の中で、滝島さんは完璧で頼りになるヒーローみたいな人なんですよ」 「……はぁ」  突然話し出した慎太郎に、俺は気の抜けた返事しかできない。ヒーローってのは大袈裟な気もしないでもないが、いつも相談に乗ってやっているのは俺だけだし、何かとすぐに俺を頼ってくるからわからなくもない。でもそう言いながらも慎太郎のその表情は呆れたような馬鹿にしたような、何ともいえないものだった。 「そんな人がね、今にも泣きそうな顔をして……そんな顔見ちゃったら一人にできないでしょ。何かあったんですか? 最近元気ないのと関係ありますか?」 「…………」  俺よりずっと年下の慎太郎にそんな風に言われてしまう俺は、本当に情けないと思う。  泣きそうな顔なんてしていない。ちょっと気が滅入っていただけ。そう言い返したいけどそれすら言葉にならなかった。  今頃智は家に帰っただろうか。あの女と何を話し、どう過ごすのだろうか。考えれば考えるほど嫉妬心と寂しさに襲われる。俺は一人でふらふらと、こんなところで何をやっているのだろう…… 「聞いてます? ほんと、大丈夫ですか? 俺の存在忘れてません?」  俺の目の前で真剣な顔をして手をひらひらさせて存在をアピールしている慎太郎を見て、少し気が抜けホッとした。仰るとおり、考え込んでて慎太郎の存在を忘れていた。うん、ちょっとだけ── 「意外だなぁ。今日の滝島さん、いつにもまして酷いや」 「そんなことない。てか酷いってどういう意味だよ。あ、これもう食えないから、慎太郎食べてくれ」 「え? 全然食ってないじゃんか。もう、俺だって腹一杯っすよ」  それでも「もったいない」と言いながらフォークを口に運んでいる慎太郎をぼんやりと眺める。こんなに俺を気にかけてくれているんだ。少しくらい話してみてもいいのかな。そうしたら少しは気持ちが楽になるのかな。そんな思いが聞こえたかのように、ガバッと顔をあげた慎太郎が俺のことをじっと見つめた。 「俺なんかじゃ助けになりませんか?」 「いや、そんなことはないよ。ありがとうな。ちょっとプライベートなことで滅入ってたんだ……」  こんな最近知り合ったばかりの人間に、ましてや職場の新人に、俺は何を話しているんだろう。弱音なんて智にすらこぼした記憶もないというのに。  慎太郎の言うとおり、今日の俺は本当に酷い有り様だった── 「これからどうするんです? 家、帰れます?」  バルから出た俺は、慎太郎が帰るのを見送ってからまた場所を変えどこかで時間を潰すつもりでいた。「帰るよ」と言った俺を、信じられないと言った顔で慎太郎は睨めつける。 「嘘ばっか! 帰る気ないでしょう? 俺なら絶対帰らないっすね」  結局慎太郎には少しだけ今の状況を喋ってしまった。  真実は伏せたものの、慎太郎の中での俺は同棲していた恋人に裏切られ、その浮気相手と家で鉢合わせたことになっている。でもこれはあくまでも「憶測」だ。あの女が智の浮気相手だとも、智が俺を裏切ったということも、俺がそう感じているだけではっきりと事実を突きつけられたわけじゃない。  智に愛想を尽かされるようなことを俺はしてきてしまった。俺がダメなんだと自覚はある。でもそれを慎太郎に愚痴るような情けない姿は晒せなかった。あくまでも先程の「事実」を話しただけ。帰宅したら恋人の代わりに知らない人間がリラックスした部屋着を着て寛いでいて、恋人の名前を親しげに呼んでいたこと。訳がわからずいたたまれなくなり、家を出てきたこと……その事実だけを慎太郎に打ち明けた。慎太郎はその情報だけで俺と同じ思考に行き着き、俺以上に怒り、そして元気付けてくれたのだった。 「滝島さん、俺の家来ます? ここから一駅だし、塾からも遠くないからいいんじゃない?」  こんな酷く傷付いた俺を一人にしたくないと言って、慎太郎は笑顔を見せた──

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