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しばらく車を走らせて、たどり着いたのは大きな総合病院だった。ここに例の被害者が入院している。
すでに訪問の意図は病院に伝わっているため、スムーズに病室に案内された。
個室の引き戸の前にたどり着くと、看護師が振り返る。
「高里さんに、刑事さんが来たとご説明してきます。お話をされるときはできるだけ患者さんを動揺させないように、お願いしますね」
はい、と返事はしたものの、それは難しい話だろう。どう頑張ったって、家族が殺された話を冷静にすることなんてできない。
話を終えた看護師と入れ替わりに入室する。窓際に設置されているベッドの上には、まだ幼い雰囲気が残る顔立ちの青年が座っていた。患者着の隙間から見える包帯が痛々しいが、辛そうな様子はない。
「こんにちは。高里秋保 さんですね、」
「……はい」
かすれた声が返ってくる。虚脱した表情の線の細い青年が、ベッドの上で半身を起こしていた。病院着の袖からは、白い包帯が見え隠れする。
一見して取り乱している様子はない。だが青年に起きた悲劇を思うと、ぼうっと眠そうな様子すら憂いの表情に見えてくる。少し心が痛んだが表情には出さず、できるだけ柔らかい声音で話しかけた。
「私は吉野といいます。こちらは桂木です。事件について、改めてお話を伺わせてもらいにきました」
「……事件」
「そうです。すでに一度、お話をされてると思いますが、事実確認のためにもう一度、聞かせていただけませんか」
そう問いかけると、秋保はゆっくり口を開いた。
「どこから、ですか」
案外素直に応じてくれたことに内心ほっとした。秋保に、一昨日の様子から話してくれるようにお願いをする。
秋保は頷くと、窓の外を見つめながらぽつりぽつりと話し始めた。
「一昨日は、朝から夜まで大学にいました。夕飯も大学の学食で済ませて、そのあとに家に帰ったんです」
その点は、すでに裏付けが取れている。大学で夕食をとる秋保を大学の友人が見ていた。
「家に帰ると、灯りはついていて……でも、静かでした。テレビとか、そういう音もなくて……。いつもなら、父も母も姉も、家にいる時間なんですけど。その時は別に気にならなくて、玄関からそのまま二階に上がろうとしたんです」
秋保がうなだれるように視線を下げる。長めにカットされた髪の毛が顔に影を作り、陰鬱な表情になる。
「そしたら、リビングの入り口のから、女の人が見えたんです。こっちに背を向けて普通にソファに座っているので、お客さんかな、って思ったんです。でも、その割にはなんか静かっていうか、動かないんですその人。そこでわかったんですよ。あ、この人おかしいって。急に、逃げなきゃいけない気がしたんです。おかしいですよね、人が家の中にいるだけなのに」
ははっ、と。急に秋保が痙攣のように笑った。同時に秋保の目線が俺をとらえる。異様にぎらぎらした瞳にぎょっとした。
様子がおかしい。目をらんらんと輝かせた秋保は、ぼそぼそと早口でしゃべり続ける。
「階段を上りかけてたんで、2階の部屋に逃げようとしたんです。でも正面を向いたら、なんでなのか、階段の上に女の人がいました。さっきまでソファにいたんですよ? それが階段の上に移動してるんです。
女の人が、口を開いて何か言おうとするんですが、声は聞こえなくて、代わりにゴボゴボっていう変な音が聞こえてきて、そこでいったん目の前が真っ暗になった気がしました。
気が付いたら、階段にいたはずなのにリビングのソファに座ってて。女の人が僕の腕を黙ってフォークで突き刺してるんです。ブスっと刺して、引き抜いて、また刺して、みたいに。僕は多分、うわあって叫んで、廊下を走って、突き当りにある仏間に逃げこみました。
逃げる間、追いかけてくる足音が聞こえていたんですが、扉を閉めたら、足音がぴたっと扉の前で止まって、かわりにまた何かゴボゴボと言っているのが聞こえました。ゴボゴボした音に交じって聞き取りずらかったんですが、多分 “お前か”って言ってました。ずっと、お前か、お前か、って繰り返していました。
仏間に窓があるので、そこから逃げようと思ったんです。でも窓に近づいた瞬間、じゃりじゃりじゃり、って、外の砂利を踏みしめる音がして、ばん、って窓が叩かれました。カーテンで見えなかったんですけど、同じゴボゴボした声が聞こえるんです。
もうわけがわからなくて、扉にも窓にも近づけなくて、部屋の真ん中で座布団かぶって目をつぶってたんです。そして……気づいたら警察の人に……大丈夫ですかって…………」
徐々に声音から異常な熱意が抜け落ちていき、唐突に秋保の唇は動かなくなった。
声が途切れて初めて、その声と語られる内容に聞き入っていたことに気づく。掌に粘りつくような汗をかいていた。
(何だったんだ、今の)
語られた内容も異常だったが、何より秋保の様子が尋常ではなかった。精神に異常をきたしているか、薬物の使用を疑われるレベルの挙動不審さだ。
だが、しかし。支援班がすべきことは、薬物調査でも精神鑑定でもない。それらとはまた別の、第三の可能性を探ることだ。
怖気づきそうな心を奮い立たせ、ちらと桂木を見やった。桂木もこちらを見ている。このまま進めろ、の意図だと判断した。
「―――話していただき、ありがとうございました。これから、いくつか質問をさせていただきたいと思いますが、よろしいですか」
秋保は無言で頷いた。俺は桂木に席を譲るように、一歩引く。ずっと後ろで影のように控えていた桂木が、滑るように秋保へ近づいた。
「あなたの見た女性について、質問させてください。その女性に見覚えはありましたか?」
桂木の表情はこちらから見えない。
口調は丁寧で優しいものの、逃げることの許されない、息苦しさのようなものを感じた。
「……わからないです」
秋保が首を振る。
「わからない、とは、見たことがあるかないかわからない、ということでしょうか。それとも、まったく知らない人?」
「わからない。知らない。知らない人です」
いやいやするように激しく首を振る。まるで思い出したくない、と必死で目をそらすように。
桂木は、そんな様子の秋保を深追いしなかった。役所の職員か営業マンのような丁寧な口調で、秋保に質問を重ねていく。
「一昨日、あなたが家に帰ったとき、お父様とお母様の姿は見ましたか」
「いいえ、見て、ません。でも、死んだって、聞きました」
「……ええ。残念ですが」
両親が亡くなったことは、昨日のうちに警察から知らされているらしい。だが秋保の気の抜けた返事からは、どう見繕っても、肉親の死に対する悲しみは感じられなかった。
それが、家族を殺されたショックからくるものなのか、今の段階では何とも言えない。
「では、お姉様の姿は見ましたか? その日はどちらにいらっしゃったか、ご存知ですか」
「姉はその日体調が悪くて、ずっと家にいたはずです。でも、家に帰った時は姿を見ていません」
近隣住民への聞き込みでは、高里夫人もその日、姉が在宅していると近所の住人に話していたらしい。
「そうですか。では次に―――ご家族の誰かが、他人から恨みを買っていた、ということはありませんでしたか」
「……え?」
桂木の言葉に仕込まれた刃に気づいたのか、秋保の目つきが険しくなる。
「……そんなもの、無いです。あるわけない」
敵意を見せ始める秋保に対し、桂木はみじんも揺るがず淡々と質問を続ける。
「では、あなたから見て、ご家族の仲は良いほうでしたか」
「……普通ですよ」
絞り出すようなかすれた声だった。
「些細ないざこざとか、そういった小さなことも―――」
バンッ、と秋保がマットレスに掌を叩きつける。
「―――ない! そんなものッ! あるわけないだろッ!!」
先ほどまでのぼそぼそした声とは別人のような、ヒステリックな声だった。威嚇する猿のように、歯をむき出して喚く。
「これは、すみません。失礼しました。質問の内容がずれていましたね。あなたの見た女性について、の質問に戻ります」
唐突すぎる激昂に腰を浮かしかけたが、桂木がまるで何事もなかったかのように話を進めるものだから、俺は座っていた椅子にもう一度尻を落ち着ける。
徐々に、秋保の息が整っていき、最後に肩がすとんと落ちたのを見計らって、桂木が質問を再開した。
「その女性が言っていたことについて、何かお心あたりはありますか」
女性は“お前か”という言葉を呟いていたらしい。
何が、“お前か”なのだろう。何らかの出来事があり、それをやったのは“お前か”? という確認の言葉だろうか。
聞き間違いという可能性もないわけではないし、なんにせよ前後の文脈が読めない今の状態では、その意図は不明だ。
「……ないです」
秋保はいらいらと首を振った。
「ゴボゴボ、という音がしたとおっしゃいましたが、それは水の音ですか?」
「知らない。わからない」
食い気味に否定する秋保の声がまたひきつりつつある。明らかに様子がおかしい。
もしもの事態に備えて再度椅子から腰を浮かしたとき、桂木がふっと顔を上げた。
「最近、沼に行ったことは?」
唐突な質問に、え? と戸惑う俺の前で、秋保が口を半開きにして絶句していた。
その姿勢のまま硬直する秋保に、尋常でない様子を感じて駆け寄る。肩に手をかけようとした瞬間、奇妙な甲高い「あっ」という声が秋保の喉から零れ落ち、びくりと手を引いた。
「秋保さん?」
覗き込んだ顔は病的にひきつり、額にじわじわと汗が浮いてきていた。もとから血色の悪かった顔から、さらに血の気が引いていく。
「秋保さん、ご気分が―――」
「いるんですね? いるんでしょうここに」
いるんだな? いるんだな? と誰ともなく問いかける。秋保は覗き込んでいた俺をはねのけるように、ぐるぐるせわしなく部屋の中を見渡した。
秋保さん、落ち着いて。そう声をかける俺の耳にも、確かに水音が聞こえた。
――――――ゴボゴボ―――
ああっ、とか、ひぃっ、とか、わけのわからない奇声を上げて、秋保が桂木につかみかかった。
とっさにナースコールを押した後、秋保を後ろから羽交い絞めにして押さえる。
「最初からいたんだろう! いたんだ! 僕を見て、」
「秋保さん! 落ち着いて、ね、落ち着きましょう!」
「―――どうされましたか!?」
看護師が駆け寄ってきて、すぐさまナースコールで応援を呼ぶ。
どたどたと大人数が室内になだれ込み、暴れる秋保を押さえつける。
こんな騒乱の中にいても、部屋の壁に落ちた影の一部であるかのように、桂木は微動だにしなかった。
そして俺たちは、病室を叩き出された。
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