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「一つ聞いていいですか?」
俺はふと気になっていたことを桂木に尋ねる。
「あの部屋に、女性の怪異がいたということですよね。顔は見れましたか?」
秋保の証言からは、襲ってきた女の外見がどんなものなのかほとんど情報がなかった。しかし、あの場に当の女がいたのであれば、桂木はその顔を見ることができたのではないか。
そう期待して尋ねたものの桂木の顔は晴れない。
「そこなんですよ。俺も見ようとしたんですが……。現れたのは大量の髪の毛と腕だけで、顔は見ることができませんでした。ただ……」
そこで桂木は言葉を切り、沈黙する。そのあとにつづく言葉を待っていたが、桂木はそんな俺に見向きもせずただ空中を見つめて考え込むだけだった。
「今日、これからその沼に行くことはできますか?」
俺は座っていたベンチから立ち上がる。今日はもう秋保に証言を聞くことはできない。ほかに調査できるところはいくつかあるが、先ほどの桂木の話を聞いてがぜんその沼に興味がわいてきた。いつか捜査にはいかなくてはならないのだし、さっそく行ってみてもいいだろう。
そう思って桂木に声をかけたのだが。
「……可能ですが、夜には戻ってこないといけませんよ。あのあたりを夜にふらつくのは危ないです。それに俺はやることがあるので、行くならお一人で行ってください」
予想していなかった断りの言葉に、俺は踏み出した足を空中で止めた。今までの流れ的に、重要な手掛かりがあるであろう巳縄沼に行くことを断られるとは思っていなかったのだ。
それに、やることとはいったい何だろうか。詳細が伏せられた桂木の言い様に、わずかな不安が首をもたげる。
「やることって、なんですか?」
「調査準備です」
やはりだ。桂木はまた俺に門扉を閉ざしてしまったらしい。今まで素直に話してくれていたこともあり、油断していた。
「それって俺には言えないことでしょうか」
と尋ねてみれば、鋭い言葉でぴしゃりと返された。
「いいえ。でも、あなたが知らなくても問題ないことです」
「……念のため、聞かせてくれると助かります。……お願いします」
なぜ、組んでいる相手の動向を知りたいだけなのに、こんなに頼み込まなければならないのだろう。さすがに、柔和な顔を繕おうにも頬がひきつる。
表情が読み取れない桂木だが、その口調は『不承不承』を力強く物語っていた。いやいや口を開いているのが伝わってくる話し方だった。
「……巳縄沼には、とあるものが祀られています。沼を守る水神です」
「水神?」
にわかに話が昔話めいてきた。桂木は語る。
「沼は周辺住人にとって、大切な水源であり、時折子供がおぼれて死んでしまう危険な場所でもありました。そういった、自分たちに恵みをもたらしたり、あるいは命を脅かしたりする存在を、昔の人は大切に祀りました。自分たちに害をなさないよう、利益をもたらしてくれるよう、神様を鎮めるためです」
なるほど。神様といっても、みんな人の願いをかなえてくれる良いものばかりではないようだ。祀る、とは神様のご機嫌取りのようなものなのかもしれない。
「ですが、灌漑設備や上下水道の整備によって、あの沼はいまや誰からも忘れ去られてしまっています。参拝する人も減り、もともと水神を祀っていた神社もなくなってしまいました。沼を守る神も、もはや神様と呼べるほどの存在ではなくなっています。沼の水と一緒です。誰にも手入れされず、放置されて、どろどろに腐っている。その沼と関わりを持ち、高里一家はああなりました。我々が調査に向かう前に、なにがしかの防護策を講じなければなりません」
危険な場所に行く前に、身を守るための準備が必要ということか。それはわかるが、
「水神を祀っていた神社はなくなってしまいましたが、神主の家系はそのまま残っています。祭神を変え、別の神社を切り盛りしている。そこに相談に伺い、巳縄沼の情報を集めます」
すべて説明し終えた桂木が一息つき、こちらを見る。とたん、俺はひどく後ろめたいような、気まずい気持ちに襲われた。
桂木が語る言葉の中に宗教色を感じたからか、それともただの昔話をさも本当にあったことのように真剣に語っていたからか。本当のところはわからない。反射的に俺は、桂木の何かを拒絶していた。まるで玄関先まで訪問してくる新興宗教の勧誘のように。
その瞬間の気まずさを、俺はいまだに何と言い表したらいいかわからない。
(あ、やばい。……引いたのばれた)
こんな時に限ってなぜ、桂木の目が前髪の覆いをすり抜けて見えてしまうのだろう。その目が急速に冷めていくのに気づいた。
慌てて、違うんです、と弁解しようとしたが、もう遅かった。桂木が急速に離れていくの感じる。もともと近づいてなかったけど。
「大丈夫です。こういう話が胡散臭いのはわかっています。話しても信じてもらえないことも多い。だから、吉野さんはあなたのできることをやってくださればいいんです」
木のベンチをきしませて桂木が立ち上がる。俺への拒絶を表すかのように、逆方向へ身をひるがえし、足を止めた。
「今日みたいに聞き込みに付き添ったり、情報を伝達したり、刑事部の方と連絡を取ってくださったり。それだけでいいんです。頭のおかしい男の、おかしな捜査に付き合う必要はありませんよ」
言葉の通り自分を卑下して言っているのではない。関わるな、お前はただのお目付け役だ、と言外に行っている。
確かにその通りかかもしれない。桂木は桂木で、信憑性はともかく、これまでの怪異調査の実績がある。でも、それに対して自分ができることといえば、桂木と関係者、あるいは警察組織との間に立って、橋渡しをしてやることぐらいだ。確かに、お目付け役として桂木のやることを報告していればそれでいいのかもしれない。
だって自分が、例えば神社に行ったからといって何ができる? ふんふんと、わかりもしないくせに話を聞いて、幽霊の退治方法でも聞くのか? 幽霊を見えもしない俺が、ましてや退治なんてできるわけがない。
それなら別行動をとって、俺は俺のできることをすればいいと思うのは、一見理にかなっているように見える。だが本当にそれでいいのだろうか。
逡巡の間に、桂木は完全に俺に背を向け、歩き出す。
「沼に行かれるとしても、一人はおすすめしませんね。それから、夜に行くのもやめたほうがいいです。下手をしたら死んでしまいますから。それでは」
どんな言葉がふさわしいのかもわからず、そしてどんな言葉も拒絶するだろう桂木の背中に臆してしまい、結局、俺は黙って桂木を見送ってしまった。
これが正解だったのか、もやもやしながら俺は本部へと戻った。
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結局その日は、周辺人物に巳縄沼に関する話題について再度聞き込みをかけることしかできなかった。
後の捜査のことを考えて、すでに聞き込みが回っている近所の住人を中心に、沼について尋ねて回る。
結果は惨敗で、高里一家と沼の関係どころか沼の存在すら知らない人が大半だった。
桂木との関係がうまくいっていないことは前原に相談できなかった。初日から弱音を吐けないし、少しだけ、前原に失望されることが怖かった。
結局、空振りに終わった聞き込みを終え、支援室で報告を終えたのち、むなしい気分で俺は帰宅の途についた。
職場から歩いて数十分、自宅のアパートが夜の暗がりに見えてくる頃には、夜の8時をとうに回っていた。
独身の警察官は独身寮に入ることが多いが、俺は知人から紹介されたこのアパートにずっと住み着いていた。
家賃も知り合いのコネでかなり安くしてもらっているし、何より一階に居抜きで入っている店舗が、とても便利なのである。コンビニ、コインランドリー、そして個人経営の惣菜店。一人暮らしの男には願ったりかなったりのラインナップだ。
その日も俺は、閉店間際の惣菜店に駆け込み、割引シールの貼られた弁当を購入した。コンビニもたまに利用するが、味もよく、割引が効くこの惣菜店のほうを俺は贔屓にしている。
いつもの店員が愛想よく対応してくれた。このアパートの住人はもれなくここの常連なので、レジ担当の若い男性店員とはみな顔見知りだった。
「遅くまでご苦労様です。これ、余りものなのでおまけです」
「おっ、いつもありがとうございます。かぼちゃだ」
閉店10分前は、こんな風にさばけなさそうな売れ残りをおまけしてくれる。俺はレジ袋の中にそっと追加された柔らかなオレンジ色に、ほっこりとした気分になった。
いそいそと部屋に戻り、いつものようにぼーっとテレビを眺めながら食事をとる。ひな壇に並んだ芸人を目に映しながらも、頭の中ではずっと今日の捜査のことについて考え続けていた。
秋保のぎらぎら光る目、動揺して叫ぶ様子。病室の隅に立つ、死神のように真っ黒な桂木の姿。
そしてベンチに座り、俺を見上げる桂木の瞳。その目に映った、侮蔑ともさみしさともとれる色。
説明されて、頭では分かっていた。怪異と呼ばれる存在がこの世に存在していること。それを見聞きする人がいて、襲われる人がいること。
今日の秋保のような態度をとる人間と接したことはある。主に派出所時代、通報で駆け付けた夜の駅前繁華街で。その時、俺は彼らをどう思っていただろうか?
彼らの言葉のすべてを、ただの妄言だととらえていた。あるいは、思い込み、勘違い、薬による幻覚。心を病んでしまったのだと、憐れんでもいたかもしれない。
秋保はどうだろうか。本当に怪異に襲われて、あんなことを喋っていたのだろうか。そして、……桂木はどうなのだろうか。
あの時、俺は無意識に、繁華街で妄言を吐いていた男たちに向けた目と同じ目で桂木を見ていた。
神が云々とかいきなり言われても、そうすぐに信じることは難しい。俺だって受け入れる気はいるし、受け入れているつもりでいた。だけど、俺は真剣に話している桂木を、あの時不気味だと感じてしまった。
リベラルであると思い込んで、その実自分は、常識から抜け出せない頭の固い人間なのかもしれない。
秋保のことも桂木のことも、妄言を吐く狂人だと、拒絶してしまっているのだろうか。
そして、果たしてそれは間違っているのか、正しいのか。
はた、と気づくと、思考とは無関係に動いていた顎が、楽しみにしていたかぼちゃの煮物も、鮭弁当も、すべて平らげてしまっていた。
なんだがすべてに落胆してしまい、俺はさっさと弁当を片付けると、シャワーを浴び、逃げるように寝床についた。
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