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昨日と同じように、車で桂木の事務所へ向かう。
事務所前に差し掛かると、桂木が道の端に立っているのが見える。緊張にきゅっと唇を噛みながら、車を停車させ、桂木を車に乗せた。
今日の桂木はスーツではなく、落ち着いた色合いの麻のジャケットとパンツ姿である。髪はぼさぼさのままであるため、残業続きで疲れたノマドワーカーみたいな雰囲気だ。そんな桂木は、本日は手にバックパックを持っていた。フォーマルな仕事着には不似合いの、スポーツタイプのものである。
とりあえずそのバックパックには触れず、俺はひとまず桂木に声をかけた。
「お疲れ様です。今日、沼の調査に行くと前原さんから聞いてますが、このまま直接向かっていいですか?」
「……ええ、どうぞ」
とりあえず会話の接ぎ穂は見つかった。ほっとしながら、俺は用意していた言葉を投げる。
「昨日は、俺……ええっと、あんな態度で、すみませんでした。桂木さんのこと、物珍しいとか、胡散臭いとか思っていたわけでは……」
「そういう弁解は結構です。今日すべきことを確認しましょう」
ぴしゃりとそう言われて、俺は黙るしかなかった。そして、言い訳をしようとした自分を少し反省した。しかし、はっきりと「はい、あの時俺はあなたを胡散臭く思って引きました」と言ったとして、これ以上事態が好転するだろうか。桂木をさらに怒らせるだけに決まっている。
だから俺は、無理やり話題を仕事に持っていくことにした。
「昨日、神社に行って、どうでしたか? 沼について情報を探す、と言ってましたよね」
「……、」
「あの、これからその巳縄沼に行くにあたって、俺もちゃんと情報を知っておきたいといいますか、」
「……神社には、水神を祀っていたころの資料が残っていました」
問答するのすら鬱陶しいとでも言うように、桂木は手をひらひらと振って俺の話をさえぎり、説明を始めた。
「沼の水神は大きな白蛇の姿をしており、その縄のように太い姿から、沼の名前を巳縄沼、そして水神はくちなわ様、またはくちなわさんという名称で呼ばれていました。畑の水源として大切にされていたと同時に、水の事故で人が良く死んだため、荒ぶる神としても恐れられていたそうです。だから、毎年の例祭には、田畑でとれた作物を供えて丁重に祀る必要があったそうです。昔話レベルの話ではありますが、人柱を立てていたという逸話も残っていました」
「人柱って、生贄ってことですか?」
「大昔なら、案外よくあることですよ」
確かに、人身御供だの生贄だのは昔話ではよくある設定だ。
「現在は、くちなわ様を祀った神社があることも、そんな神様が祀られていたことも、ほとんどの人が覚えていないだろうという話でした。今その神社を継がれている当主も、その話を聞きに来る人はほとんどいないと言っていました」
「へぇ……。何か、対策になりそうな情報はありましたか?」
桂木は、巳縄沼は危険だから、身を守るためのすべを身に着けるためにも、神社に行って情報を得ると言っていた。何となく、昔テレビで見たアニメを思い出す。お坊さんがお札をペタリと張ると、悪い妖怪は苦しみだし、最後には封印されてしまう。いや、今回は神社なのだから、霊能者ではなく神主さんだろうか?
少しだけワクワクしていた俺に対し、桂木はそっけなく答えた。
「例祭の時に備えていたようなお供え物は持ってきましたよ。あと、蛇はたばこが嫌いだそうで」
ん、と差し出されたのは、煙草とライターだった。大層なことをのたまったくせにそれだけかよ、と内心落胆した。
拍子抜けした俺を知ってか知らずか、桂木はたいして気負いもせず、リラックスした様子でヘッドレストにもたれている。
「そもそも、くちなわ様は人に積極的に害を与えるようなものでもなかったようです。村人が怒らせるようなことをしない限り、恐ろしい被害はなかったと。だから、礼節を忘れず、話を聞く分には、そう心配する必要はありません」
神様から話を聞く。そんな事情聴取みたいな軽いノリで、話しかけてもよいのだろうか、神様という存在は。
「なんというか、そんなに気軽に話かけて、答えてくれるものなんですか?」
「ええ。実際に話をしたという人もおりますし、」
「すごいな、知り合いですか?」
「そんなものです」
それっきり桂木は、何を聞いてもああ、とかええ、とか生返事しか返ってこなくなったので、俺は質問を止めた。
代わりに、今朝の捜査会議の内容を桂木に丁寧に説明することにした。
「……というわけで、謎の女犯人説、秋保犯人説、美春犯人説が大まかな説ですかね。捜査本部全体としては、姉の犯行と見る傾向が強いです。家族仲があまりよくなかった、という証言があったからだと思いますが」
一通り説明を終えて桂木を見ると、うつむいて思考に集中している様子だった。口元に持ってきた指先では、手持ち無沙汰気味に自分の唇を触っている。
前方を注意しつつ、ちらちらと桂木を伺い、桂木が指先を離した瞬間を見計らって、質問を投げかけた。
「例えば、怪異が人を殺したとして、実際の事件ではどのように処理されるんですか?」
今回の件は、誰が正雄と京子を殺したのか不明だ。だが、謎の女性に襲われたという秋保の話を鵜呑みにすれば、その女性が両親を殺したというのが濃厚である。
まさか事件の真相として、女の幽霊が刺殺しましたとは公開できまい。
「誰がどのような判定を下すかはわかりませんが、大抵は捜査打ち切り、証拠不十分のため不起訴、犯人行方不明……ですかね。その事件に合わせて、辻褄あわせがなされます。この場合、容疑者逃亡で行方不明か、父親と母親の無理心中、もし姉が神隠しにでもあっていれば、姉の犯行ということにして容疑者逃亡……あたりで処理されそうですね」
なるほど、それらしい理由をつけて事件を終わらせるということか。
「俺たちの真価は、事件のすべてを把握することにあります。何を隠して、何を明らかにするか、その判断ができるようにすることが必要なんです。だから、たとえ世間に明かせない真実であろうと、それを全力で集める」
自分たちの真価。そうは言われても、世に出ない情報の調査を行い、そうやって突き止めた真実が捻じ曲げられて世間に伝えられることに、俺は多少の虚しさを感じた。やっていることがすべて無駄とは言わないが、少なくともこの世界の中で、俺たちの働きを知っている人間はごく少数しかいない。しかも、実際の犯人ではない“誰か”の犯行にされてしまう可能性もある。
俺が知っている事件の中でも、そんな事件があったのかもしれない。俺はやりきれない思いでため息をついた。
時間にして小一時間、乗り気でない桂木を相手にぽつぽつと会話をしている間、に車は市街を抜け山に差し掛かる。
しばらく山中を走ると車道の横に砂利の敷かれた開けた場所があった。舗装らしいものはない空間だが、どうやら山仕事をする人が車を置く駐車場になっているらしい。その駐車場からしばらく車道を進むと、人が通れる程度の細さの山道が横に伸びている。その先が、くだんの沼だそうだ。
駐車場に車を止め、桂木とともに車を降りる。そこから車道を上り、薄暗くぽっかりと口を開けた山道に足を踏み入れた。
道は日の光に照らされて明るいが、道の左右は木がうっそうと生い茂っており、圧迫感すら感じる。たいして傾斜のない山道ではあるが、ふかふかと柔らかい腐葉土が靴を飲み込みそうで、歩きにくかった。
このまま山道が続くようでは靴の汚れが深刻なものになるな、と思っていた矢先に、目の前の視界が開け、沼に到着した。山道に入ってからさほど時間も経っていない。
想像よりも大きな沼だった。たかだか学校の教室程度だと思っていたが、これならば校庭ぐらいはありそうだ。舗装された車道からこんなに近い場所に、こんな大きさの沼があったとは。
道の終わりから沼のへりに向かって、名も知らぬ背の低い雑草が地面を覆っている。沼の水は深緑色に濁り、びっしりと藻が群生しているのが見える。俺たちのいる山道に面する沼のへりは開けているが、奥に行くにつれて沼のへりに樹木が覆いかぶさり、水面に影を落としている。
脚を踏みしめると、じっとりとした水と土のにおいが濃厚に立ちのぼり、全身を湿気と共に包んだ。その香りは、遠い昔、実家の近くの山で、日が暮れるまで遊びまわった日々を思い出させた。
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