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俺が懐かしい気分に浸っている間、桂木は沼のへりに歩み寄り、持っていたバックパックから何かを取り出す。何をしているのかと手元を覗き込めば、なぜかその手には木でできたお盆と白い布を持っていた。
「吉野さん、ちょっと」
「……へ?」
「すみませんが、このくらいの石をいくつか持ってきてください」
桂木が手に持っているのは、こぶしよりも少し大きめの石だ。桂木にせかされるまま、俺は近くの茂みから石を持ってくる。桂木はその石を集めると、かまどのごとく円形に並べ、その上にお盆と布を置いた。石の上で平行を保つお盆の更にその上に、スーパーの袋から出した果物、木でできた升を置き、升の中に、これもバックパックから取り出したお米を流し入れる。最後に取り出したのは日本酒の四合瓶で、これは盆の乗った石組みの横に置いた。
あっという間に、神社のお祭りか実家の神棚で見るようなお供え物の山が出来上がった。
荒れ果てた沼のほとりで、いい年をした男がふたり、いそいそと祭壇を手作りしている。相当シュールなその光景について考えないようにしつつ、桂木に尋ねた。
「沼の神様へのお供え物、ですか?」
「そんなようなものです。これからいろいろお聞きしなきゃならないので、最低限の礼儀ですよ。なんの見返りもなしに、何かを与えてくれるような奴はいません。特に怪異には」
そういって桂木がゆっくり後退る。俺も桂木の横へ移動し、その供物の山の出来を見つめた。
「これで来てくれるんですか? ええとその……くちなわ様は」
問いながら、落ち着きなくきょろきょろと周囲を見渡す。これから神様が現れますと聞かされて落ち着いていられるわけがない。対照的に桂木は、場慣れしているのか静かに沼を見つめて待っている。
そして、そわそわと周囲をうかがっていた俺がちょうど真後ろを振り向いた時である。
「ああ、うれしや」
一言、ぽつりと声が聞こえた。
え? と正面を向いても、たたずむ桂木の姿と、波紋の一つも立てない沼がそこに存在するだけだ。
「何か言いまし、」
桂木が無言で俺の口をふさいだ。
驚き戸惑い、桂木を見て、ようやく思い当たった。桂木は、俺には見えていない何かを見ている。
もう一度、小さな声がする。先ほどよりももっとはっきりと俺の耳に届く。
「なんと良い日だ。お客人が参られた。やれ良い日だ」
確かに聞こえた声は、祭壇の向こうから……沼の広がるそこから、聞こえるような気がした。
当然、祭壇と沼の間に人間が潜んでいるはずはない。動物の声に聴き間違えるような声でもない。
その事実に、一拍遅れて心臓が跳ね上がった。
「……桂木さん」
静かに、とジェスチャーで示される。桂木が一歩、前に進み出た。
「おや、おやこれは……以前おまえには会ったことがあったね?」
「はい、昔に」
「ああ、かしこまる必要はないよ。それよりも、この酒はおまえが用意してくれたものだね? いや、ありがたい。久々の贈り物だ」
桂木が姿の見えない何かと言葉を交わしている。その目線は、祭壇の横の空間、ちょうど沼と土の境目当たりを見ていた。
一瞬目を凝らす。今、確かにぴちゃん、と水がはねた。息をのんでそのあたりを見つめるが、水面に波紋を残すばかりで、それきり何も見えない。
「今日は、あなたにお尋ねしたいことがあったので参ったのです」
「ほう……何かな? わたしに答えられるものなら、答えよう。なんといっても久々のお客人、ひさびさのいい酒だ」
心なしか、先ほどよりも風が出てきたように思う。ざわざわと木立が揺れている。揺らめく木々の作る影が、居もしない何かを形作る。そのたび、息をのむ。
「ああ……おまえに会ったのはいつのころだっけ? さて……つい昨日のような、はるか昔のような……」
「お聞きしたいのは、ここに最近、人が訪ねてこなかったか、ということです」
「ん? うん、うんうん、そうさねぇ……はてさて、最近とはいつのことだったか。さっきも昨日も昨年も、このごろはとんと区別がつかぬ。おまえが以前、ここへきて、わたしとおしゃべりしたことも、あれはいつのころだったか……」
何者かは笑ったが、その音にはしゅうしゅうと空気の漏れるような奇妙な音が混じっていた。
桂木はさりげなく、ポケットに手を入れていた。その中には、箱から出した煙草と、ライターが入っている。
あまりじっくりと見てはいけない。姿の見えない何者かに悟られそうで、俺は目をそらした。
「50歳ほどの男女の夫婦と、25歳の娘、そして19歳の息子です。誰か一人でもいい、最近ここへ来ませんでしたか」
「ううむ、来ていないよ。おそらく来ていない。だってずっと、わたしはみんなに忘れ去られていたもの。ずっとだれも来ていない。だから夫婦も、娘も息子も、わたしゃ知らないと思うねえ。それこそ一番最近は、あんたとあの子が来たときじゃないかね。それすら、何時だか定かじゃないが」
ふわふわと、捉えどころのない回答が続く。ようは、誰がいつ来たか、その時間間隔がわからないらしい。だが、
ふと耳にひっかかったことがある。
あんたとあの子、という言葉。さっきからこの声は、桂木と以前会ったことがあるといっているが、今の話ぶりでは、桂木は一人ではなく、誰かと二人連れでここに来たらしい。
「力になれなかったようだね? すまないね、せっかく良いものをもらったのに」
「いいえ、ご存知ないのであれば、それでいいのです」
「そうだ、おまえを祝言に招待しよう。なに、わたしがこんなに浮かれているのはね、近々わたしが嫁御をもらうからなのさ。かわいい嫁御が、嫁いでくるからなのさ」
嬉しさを隠せないといった様子で、声はしゅうしゅう笑った。
「嫁? それは……」
どこかで、ぞろり、と何かが蠢いた。俺がそれに気づけたのは、空気の振動というか、気配、のようなものを感じたからだと思う。
「なんならいますぐ、ご案内しよう。なあに、祝言までの間はゆっくりくつろいでおいで。沼の底でゆっくり、ゆっくり……」
ざわざわと風が強くなり、木々がやかましく騒ぎ立てる。違う。風は吹いていなかった。湿り気でしずくが浮きそうな頬には、空気の流れは感じない。
ただただ、木が揺れているだけなのだと気づいた。
「いえ、今日はあいにく、これから戻らなければなりませんので。また次の機会に、お邪魔させてください」
言って桂木が後退る。その背に巻き込まれるように、俺も一緒に後退した。だが、声はまだしつこく追いかけてくる。
「まあまあ、そういわず。ほんの少し、わたしのかわいいかわいい嫁御殿に、一言、おめでとうをいってくださいな。ねえ……」
「そうもいかないので……、また来ますから、これで失礼します」
桂木が俺の腕をつかみ、身をひるがえして走り出す。声は、ああそんな、と残念な溜息を洩らしたように聞こえた。
腕を引かれて走り出した俺は、その瞬間、木のさざめきに交じってこんな声をきいた。
「――――――おやぁ、もうひとり、いなすった」
「―――!」
地表近くからではない。耳たぶに唇が触れるのではないかというほどの距離からそれは聞こえて、ざっ、と肌が泡立った。とっさに振り返ろうとする。それを諫めるように、引っこ抜かれそうなほど強く桂木に腕を引かれた。
「早く、吉野さん!」
名残惜しそうに何か言う声を振り切り、まろぶように二人で山道をかける。
来るときはすぐ着いたはずなのに、やけに駐車場が遠く感じた。
ようやく山道を抜けて車道に出、さらに走って車のもとへたどり着く。
やけに震える指でキーを手繰ると、二人そろって車に飛び乗り、息つく暇もなくエンジンをふかし、猛然と山道を下り始めた。
―
「はぁ……たすかった……」
山を下り、最寄りのコンビニへたどり着いたところで、ようやく人心地できた。コンビニの駐車場に車を止め、俺はようやくハンドルから手を離す。
桂木はすでに平時の状態を取り戻し、出しておいたたばこを律儀にしまっている。
どっと疲れが押し寄せてきて、ヘッドレストに深くもたれかかる。
去り際に耳元でささやかれた声が、鼓膜にこびりついて離れない。
「何か飲み物を買ってきますが、吉野さんは何かいりますか」
「あっ、ま、待ってください。俺も行きます」
正直、しばらく一人になりたくなくて、見栄も意地もかなぐり捨てて、桂木とコンビニへ向かった。
適当にペットボトル入りのお茶を買い、車内に戻って一息つく。走ったり緊張したり恐怖したり、いろんな理由で乾いた喉に、お茶はとてもおいしかった。
「……結局、あの沼に高里家の人間が来たか、わかりませんでしたね」
「……」
桂木は黙って、何かを考え込むように顔を伏せている。無意識だろうか、角ばった細い指が唇をこねるように触っていた。
「あー……くちなわ様が自分で言っていた通り、もしかしたら誰がいつ来たのか覚えていないのかもしれませんね。だとしたら、高里家の誰かが来ていても覚えていないかも」
どっちにしても、核心的な情報は得られなかった。一つ気になるといえば、蛇の結婚とは、いったいどんな風に祝うのだろうか……。
「嫁といいましたね、」
「ええ、そうですね」
桂木も、くちなわ様の言っていた嫁について気になっているらしい。
「どんな結婚式なんですかね、蛇が白無垢と袴姿で行列でもするんでしょうか」
「そこじゃないです気になっているところは」
冗談交じりで言った俺の言葉は容赦なく叩き落された。桂木は真剣な表情で空を見ている。
「水神に嫁入りするということは、昔で言うならば人身御供です。くちなわ様がめとった嫁御、というのは、たぶん人間ですよ」
「……え?」
桂木が唇から手を離し、ゆっくりと語りだす。
「荒ぶる神が人間の女性をめとるエピソードは、各地でよくみられますが、多くは人身御供としての意味を持ちます。若い女性を神や、時には妖怪などに差し出し、その代わりに周囲の人間は平穏を得るのです」
特に、龍や蛇といった、水神にまつわる話には、女性の嫁入り話や人柱になる話は多いです。と桂木は言う。
「くちなわ様の話していた嫁が人間だとすると、最近沼に人間が訪れたはずです。これが高里家の人間かはわかりませんが、もしこの事件の関係者の中に、くちなわ様に嫁いだ女がいるとしたら、思い当たるのは行方不明の姉、もしくは弟が襲われた謎の女です」
「……ああ、なるほど」
事件の後、何らかの原因で姉がくちなわ様の嫁になったか、もしくはその嫁なる人が恨みを持ち、高里家を襲ったか。
「そう考えるとつじつまが合う。まあ、秋保さんのほうに憑いていた怪異はコミュニケーションができるようなものではありませんでしたし、くちなわ様の話もあてになりませんが」
つまり、根拠のない、あくまで想像ということか。だが、まったく疑わしい説でもないのだろう。桂木だって、可能性が低いと思っているならそう言うはずだ。
しかし、そうだと仮定して、どのようにこの先調査を進めていくべきだろうか。
「……わかっていないのは、高里一家が襲われた原因と、秋保さんを襲った女の正体と、姉の美春さんの行方ですよね」
頭の中を整理しながら、独り言のようにつぶやく。
「もし謎の女がくちなわ様の嫁だとして……わからないことは変わりませんね。高里一家と沼の関係と、姉の行き先が不明です。で、姉がくちなわ様の嫁だとしたら、高里一家と沼の関係と、謎の女の正体は不明ですが、姉の消えた先は、おそらく沼の中……」
―――……なあに、祝言までの間はゆっくりくつろいでおいで。沼の底でゆっくり、ゆっくり……
くちなわ様の、歌うように節をつけた声音が、いまだにねっとりと耳朶にまとわりついている。沼の底。あの緑に濁った沼の、光の届かない沼底に、美春が……もしくは、髪の長い、真っ白な腕をした女が横たわっている。そんな想像が頭をよぎって、俺は強く目をつむり、幻想を振り払った。
ふと、先ほどから何も言わない桂木が気になって、助手席のほうへ目線をやると、桂木はまっすぐに俺を見ていた。
目元は見えないが、顔ごとこちらを向いているのだからすぐわかる。いつから見ていたのだろう。いつも目線をそらされるばかりなので、少しひるむ。
「……なにか変なこと言いました?」
「、いえ。別に」
桂木は腕を組んでふいっと視線を窓の外へそらした。
「この後、どうしますか」
「……現場を見に行きます。そのあと、秋保さんのところへもう一度証言を聞きに行きます」
「現場というと、高里家ですか」
確か、現場への立ち入り許可はすでに取り付け済みだったはずだ。
「わかりました。行きましょう」
スマホで距離を調べると。小一時間ほどで到着するようだ。高里家から秋保の入院している病院まではさほど距離は離れていない。病院の面会締め切りまでには間に合うだろう。
そう算段をつけると、先ほどの非日常から逃げだすかのように、ひたすら街へと、自分たちの日常のある場所へと、車を走らせた。
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