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時刻は夕方。赤く輝く日に照らされて二階の窓が真っ赤に染まっている。
高里一家の住む家。ここで四日前、二人が殺され、一人が消え、一人が何者かに襲われた。
そんな陰惨な家人の事情など知らないとでもいうように、塀の上からせり出す花は、盛りを迎えて咲き誇っている。こぼれるほど自己主張するその花は、一点の穢れもない白い薔薇だった。
その薔薇の下に、一人の警察官の制帽が見える。このあたりの派出所から応援に来ている警察官だ。俺は彼に「ご苦労さまです、」と声をかける。身分を明かせば、すんなりと俺と桂木を門扉の内側に入れてくれた。
玄関前の敷石を踏み、塀の内側を埋める花々をよけながら玄関にたどり着く。ごくありふれた玄関扉を開くと、上がり框の奥に、コンパクトで清潔な居住空間が広がっていた。
もうあらかた現場の捜査は終わり、鑑識の残した標識やKEEP OUTのテープも撤去されている。だから、見た目は普通の家と大差ない。はずなのに、とても虚ろな空間に感じるのは、ここに人が住んでいないことを知っているからだろうか。
桂木と連れ立って玄関扉をくぐる。上がり框を上がってすぐに、階段と廊下が平行して奥に伸びていた。
左手には階段があり、途中で90度折れ曲がって二階へ続いている。
右手には、玄関から数歩の距離に、廊下に面した扉がある。ここは開きっぱなしになっていて、中の様子からリビングであるとわかった。
桂木が無言で、そのリビングへ入っていく。カーテンが閉め切られて薄暗い部屋の中に、柔らかい黄緑色のソファがコの字型に置かれていた。
リビングに入って左奥には、ダイニングとキッチンが備え付けられている。3つの部屋は、仕切りのない一つの大きな空間になっていた。
急に背後から、しゃっ、という音が聞こえて、目の前の床に朱色のラインが走った。
桂木が細くカーテンを開け、夕焼けの色を部屋の中に落とし込んでいた。そのシルエットは逆光で真っ黒に塗りつぶされている。
ぞくっと体に鳥肌が立った。
(まただ)
人の形をしているのに、人でない何か。
得体のしれない何かが、桂木の姿を借りて、そこにいるのではないかと、そう思うときがある。桂木に初めて会った時もそうだった。先ほど沼で、姿が見えない何かと話しているときもそうだった。
そして、今も。ここにいるのは本当に桂木だろうか。
桂木はふいに、カーテンから離れてリビングの外へ出る。俺もすかさずその後を追いかけた。
リビングを出て、玄関とは逆方向に廊下を進む。廊下の左手には、階段下収納と思しき扉と、トイレが並んでいた。右手には、リビングへの扉の隣に、ダイニングに続く扉がある。
そして廊下の突き当りに、仏間があった。桂木は迷わず扉に手をかける。
引き戸になっていた扉の向こうには、六畳ほどの畳のスペースがあり、壁をくりぬいた空間にピッタリはまるように、仏壇が収まっている。
「秋保さんはここに逃げ込んだと言っていましたね」
そして、謎の女は仏間の中にまで追いかけてこなかった。
「仏間だから、追いかけてこられなかったんでしょうか。ご先祖が守ってくれたとか」
昔聞いた怪談に、そんな話があったのをおぼろげに思い出す。こちらが一方的に話している間、桂木は仏間の中をぐるっと見て回り、特に気になったものがなかったのか、すぐに廊下へ出た。
そのまま、桂木は廊下を玄関先まで戻り、くるりと身をひるがえして、今度は階段を上り始める。
俺も後に続き、階段に足をかけた。ちらりと右を向くと、扉が開いたままのリビングの様子が見えた。秋保は、ここで女を見て、そして次の瞬間、女は階段の上に移動していた。
上を見上げると、桂木が階段を曲がろうとして、そのまま動きを止めた。
「桂木さん?」
桂木は、階段が90度曲がったところで階上を見上げている。追いついて横からのぞき込むと、二階の廊下が見えた。
桂木は何を見ているのだろう。そう思って顔を覗き込もうとしたとき、何かが廊下に落ちたような、バタンという音が響いた。
びくっと肩をすくめて階上を仰ぎ見る。見える範囲には、何かが落ちてきた様子はない。だが、音はとても近くから聞こえた。まるで目の前の廊下で何かが倒れたかのような、そんな音だった。
桂木の視線の先を探しても何もない。しかし、微動だにしない桂木の横顔はこわばり、前髪の隙間から見える目は一点を凝視していた。
―――何かいる。音は先ほどの一回だけで、今は何も聞こえない。それでも、まだいるのか。そこに。
桂木がゆっくり、階段を上り始めた。俺も、桂木の目線を追いながら、階段を上る。じっと見ているのは、右手にある扉、その前に広がる床のあたりだ。そこだけうっすらと、床の色が沈んでいる。シミのようなその広がりは、廊下の床から伸びて、そのまま目の前の扉の下に吸い込まれている。
その部屋は、京子の衣類や生活雑貨が収納されている部屋で……そして、京子がこと切れていた場所だった。
京子は、二階の廊下で何者かに包丁で刺され、そのあとにこの部屋の中へ這っていき、そこで力尽きた。廊下から真っ赤に残る血痕が、その道筋を物語っていた。何を思って最後にその部屋に移動したのかはわからない。追ってくる犯人から少しでも逃れようとしたのか。
桂木は、床から視線をゆっくり持ち上げ、廊下の左右を見渡す。確か、階段を上り切ると、廊下の右手に京子の衣裳部屋、秋保の部屋、美春の部屋がある。左手には夫婦の寝室と書斎の2部屋だ。
桂木は廊下を左に折れ、廊下の奥にある扉に手をかけた。確か、この部屋が書斎だ。そして、正雄の遺体が見つかった場所でもある。
内側に開いた扉の向こうは、カーテン越しの夕日に照らされて、ぼんやりと薄暗かった。書斎の内部は、機能的で洗練されたデザインの家具類で統一されており、棚には専門書のほか、幾何学的な装飾品がバランスよく配置されている。いかにも、スマートに仕事をこなし、その合間に個人のささやかな楽しみを謳歌するための男の部屋と言えた。
その中において、唯一異彩を放っているのが、部屋の中央に置かれたソファベッドだった。無残にも表面のカバーが取り去られ、中のクッションがむき出しになっている。それでも深く染み込んで取れない血痕が、夕焼けよりなお濃く、その表面を赤黒く染めていた。洗練された室内に唐突に表れた暴力の痕跡。その場所で、正雄は何者かに体中をめった刺しにされて発見された。
桂木も、俺も、部屋に一歩入った時から、そのソファから目を離せなかった。桂木は何か見ているのかもしれない。でも、何も見えていないはずの俺も、動けない。まるで、部屋全体に水が満ちているみたいに、体が重く、動けなかった。
唐突に、どこからか音楽が流れてきた。夕方に流れる町内放送だった。音割れしたメロディーにかぶせるように、帰宅を促すメッセージが、奇妙なほどゆっくりと読み上げられる。五時になりました、みなさん、お家へ帰りましょう。
徐々に、その音が耳にこだまして、少しずつ音階がなくなっていき、甲高い耳鳴りに変わった。もうメロディーも、何も聞こえない。目の前の桂木の背中が揺らいでいく。
「―――!」
はっと我に返って、慌てて足を踏ん張り、頭を振った。今の一瞬のめまいは何だったのだろう。貧血だろうか。
気が付けばもう、放送は聞こえない。日はすでに沈みかかり、さっきまでどろどろと赤かった室内は、ただの暗がりになりつつある。
そして気づいた。目の前の桂木がいない。慌てて目線を巡らせると、部屋の扉を出ていこうとする背中が見える。まっすぐに階段に向かっていく背中を追いかけていくと、桂木は階段の途中、先ほど立ち止まっていた場所で、再び立ち尽くしていた。今度は、その場から階下を見つめて。
ぱくぱくと桂木の唇が動いている。そっとそばに近寄った。すると、その声がかすかにだが、俺の耳にも届いた。空気を擦るような、ささやき声。
―――姉さん
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