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 姉さん? 怪訝に思い、もっとよく聞き取ろうとそっとかがむ。ささやきの中に、ぐう、と呻くような声が混じった。苦しそうな、えずくような声。 「う、」 「え?」  桂木が唐突に、口に手をあてて前かがみになった。指の間から荒い息が漏れている。ぐらりと傾いた体に慌てて支えた。覗き込んだ表情はひどく苦しそうで、骨ばった手も頬も、紙のように白い。 「大丈夫ですか、桂木さん!?」  ぐぅう、と低く呻いた桂木は、短く「外に」と言葉を絞り出した。よろけながら歩く桂木を支えながら、ゆっくり階段を降りる。  階段の最後の一段を降りたとき、桂木がよろめいて、とっさに俺の腕をつかんだ。かぎ爪状になった手が俺の腕をすさまじい力でとらえる。くそ、という呻きが聞こえた。 「……そこ、段差あるんで、気を付けてくださいね」  思わず、といった呟きは聞こえないふりをして、桂木を支え続けることに専念した。  やっとの思いで玄関の外にでると、桂木が俺の腕を振り払って歩き出す。見張りの警官が呆気ににとられているのをしり目に、桂木が通りを曲がる。  そして、通行人の死角に入ったところで、盛大に嘔吐した。 「ぅ、……げほっ、ぉおえ゛っ」 「桂木さん、ちょっ、大丈夫ですか!?」  おろおろしながら、とりあえず背をさすったり、嘔吐物で汚れないよう衣服を押さえる。苦しそうに喉仏が上下し、そのたびに桂木が体を折って胃の中身を吐き出した。  しばらく背中をさすり続けていると、あらかた吐き終えたのか、桂木は深く息を吐いて、口元をぬぐった。まだ顔は白いが、呼吸が整ってきている。俺はまだ動揺が収まらないまま、桂木の背に手をあてていた。 「落ち着きました? 車に戻れます? 俺、水とか……」 「……ああ、すみません、大丈夫です。もう」  そう言うと桂木はため息をつき、次の瞬間にはしゃんと背筋を伸ばして立ち上がっていた。まるで、先ほどまでの苦しみようが嘘だったかのようにけろりとした顔をしている。  その変わり身に目をみはりながらも、気遣うように声をかける。 「いやだって、さっきあんなに吐いてたじゃないですか。ちょっと車で休んだほうが……」 「いつものことなので、平気です」 (いつもって、あんなに苦しそうにすることがか?)  桂木に異変が起きたのは、俺の意識がちょっと遠くなったあの瞬間と、たぶん同じだろう。俺はちょっとしためまいぐらいで収まったが、桂木は違った。あの様子苦しみようは尋常ではなかった。  いつもあんなふうに、怪異に行き会っては苦しい思いをしているのだろうか。 「わかりました。でも、ちょっと待っていてください。せめて、自販機で水を買ってきます」  いくら慣れているとはいえ、そのままでは口の中が気持ち悪いはずだ。俺は、桂木に有無を言わせず、通りの先にある自動販売機へ小走りで向かった。 (あの時、桂木さんは何を見ていたんだろう)  血まみれのソファベッドがある部屋に、俺も桂木もいた。そこで桂木は何かを見て、そして階段から下を見ていた時も、おそらく何かをじっと見ていた。  ―――姉さん  桂木はそう呟いていた。なぜあの時そんなことを口走ったのかは、桂木の見えているものが見えない俺にはわからない。  聞いて、桂木は答えてくれるだろうか? 聞かなければ理解もできまい。でも、桂木のあの苦しみようを思い出すと、聞くことにためらいを感じる。軽々しく聞いて良いものではないのかもしれない。  取り出し口にペットボトルが落ちてきて、ぐずぐずした思考はいったん断ち切った。水を持って先ほどの場所に小走りで戻る。 「どうぞ、お待たせしました」 「……ありがとうございます」  一応、礼を言って受け取ってくれる。顔には不本意そうな表情が浮かんでいたが、水を一口呷ると、続け様にごくごくと飲み干していった。小さなことだが、少しは役にたったようでほっとする。  桂木が一息ついたら、やはり先ほどのことを聞かなければならない。桂木は何を見ていたのか、そこからわかったことはあるか。姉さん、と呟いていたその意味は。 (姉さん、ということは、やっぱり美春さんのことなのか?)  あの家で「姉さん」といえば、彼女しかいない。桂木は、美春の何を見たのだろう。 (というか、「姉さん」って、なんだ? 桂木さんが美春さんを見たなら、姉さんとは呼ばない……よな?)  些細なことだが、引っ掛かりを覚えた。桂木の姉があそこで見えたという可能性も、脈絡はないが一応ありえる。  または、幽霊が人に取り憑いて喋りだすアレみたいに、桂木が何者かに取り憑かれてしまい、その取り憑いた霊が喋った可能性もある……かもしれない。  どのみち、こういったことに、てんで疎い俺には真相のほどは想像もつかない。  ペットボトルのキャップを閉めている桂木に、意を決して先ほどのことを尋ねようとしたとき、邪魔が入るようにスマホが着信を告げた。相手は浦賀だった。  桂木に「浦賀さんからです」と断りを入れ、通話をオンにする。 『あ、もしもし? お疲れ様です浦賀です』 「はい、お疲れ様です。なにか連絡でも?」 『や~、さっき病院から連絡が入りまして。高里秋保、病院からいなくなったそうです』 「いなっ……はぁ!?」  警察が監視してたんじゃなかったのか。とつっこみたかったが、浦賀の説明を聞いているうちにその気は失せた。 電話の向こうで困っているような、どこか面白がっているような浦賀の報告を最後まで聞き、通話を切る。 「浦賀さん、なんと? 病院とか聞こえましたが」  気づけば、桂木が少し身をかがめて俺に耳を寄せていた。予想外の近距離に桂木がいて少しびくっとしたが、そんなことよりも。 「病院から、秋保さんが消えたそうです、」 「消えた?」  桂木も同じことを思っているはずだ。秋保は重要参考人であると同時に、容疑者でもある。病院のスタッフだけでなく、警察からも人員を割いて警護と監視をしていたのだから、秋保が病院から逃げ出すことは相当難しい。 「それが、監視員は秋保の病室の外でずっと見張っていたのですが、秋保が消えるまでの間、秋保はおろか誰も病室に出入りしていないというんです。秋保の病室は個室で、出入り口は一つしかない。病室は高層階で、窓の外には何もありません。捕まって降りられるような凹凸も足場もない。そして……」  ぐっ、と唾液を飲み込む。 「……秋保さんのいたベッドは水浸しで、床に水たまりができるほどでした。個室内の水場を使用した形跡はなく、ベッドには藻や水草が絡みついていて、池か沼みたいなよどんだ水の匂いがしていたと……」  すぐに、巳縄沼のことを連想した。桂木もそうだろうし、その連想は十中八九正しい。 「捜査本部では、ひとまず病院周辺から、捜索を開始しているそうです」  どうしますか、と訴えかける前に、桂木は何も言わずに歩き出した。すぐに早足で追いかける。 「……巳縄沼に向かいます。運転、お願いします」  こちらを見ないまま、桂木が言う。当然のように告げられたそれだが、俺はもうその腹積もりでいた。 「了解しました」  そして、桂木から初めて聞いた、「お願いします」の一言に、胸がじんわりと熱くなった。ほんの些細なことだし、運転担当として当たり前のことなのだが。  前原に期待されているからとか、せっかく配属された刑事部で活躍を残さねばとか、いろいろと思うところはあるが、今は純粋に桂木に頼られたいと思う。 俺が未熟だから拒絶されるならまだいいが、俺を見ることすらしない今の状況は、正直我慢ならない。少なくとも、俺としっかり正面から向き合ったうえで断るぐらいはして欲しい。正当な評価の末であれば、異動でもなんでもしてやろう。 そのためには、まずは目の前の事件に全力で取り組み、桂木の信頼を得ることだ。  俺はハンドルを握ると、アクセルを踏み、夕暮れがやがて夜に変わりつつある空の下を、巳縄沼に向かって車を駆った。 -

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