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 あたりはすっかり日が落ちていた。山の中に1本伸びる道路だけが、灯りに弱々しく照らし出されている。  はじめに来たときと同じく車を止め、車内に積んであった懐中電灯を持つ。一歩、車の外に出た瞬間、不覚にも足がすくんでしまった。  “暗い”の一言では言い表せない。灯りのない山の中は、これほどに多彩な闇があるのだろうか。木々の輪郭が闇の中にかすかに浮かび、羽虫が視界を横切るたびに、闇が形を少しずつ変えるようで、怖いのに目が離せなくなる。  じっと見つめていると、目の奥に残る残像なのか、木々の形作る闇がさざめくように揺れているように見える。まるで胃腸の蠕動運動のように、ここよりなお深い、森の奥へ誘い込む。 「吉野さん、」  森の奥から目を離せないでいると、桂木が道路の途中で立ち止まって俺を呼んでいた。ハッとして木々の奥から目をそらし、桂木のもとへ追いつく。暗闇で判別しづらいが、桂木が立ち止まっていた場所は、沼へと続く横道の入り口だった。  桂木が、手元に煙草とライターがあるのを確かめ、それらをポケットにしまう。道中、桂木は念のためとコンビニによって、再度煙草を買い足していた。その時についでに浦賀と前原にも連絡を済ませてある。  俺からの連絡のほかに、桂木が直接浦賀に何かを指示していたようだが、ちょうど俺が腹ごしらえにおにぎりを買っていた時だったので、内容は聞き漏らした。例によって俺を聞かせたくない何かについてだろうが、今は沼へ向かうことに専念したほうがいいと、何も聞かなかった。  俺も念のため、コンビニで自分用に煙草を買った。尻ポケットに入れてあるが、いかんせん、心もとない。  桂木が道に足を踏み入れるのに続き、俺も道の中に分け入っていく。途端にねっとりと、濃厚な闇と草の匂いに包まれた。懐中電灯は明るいが、腕の届く範囲よりもなお狭い、ほんのわずかな距離までしか照らしてはくれない。足元に気を付けて歩かないと、すぐに転んでしまいそうだ。  ふいに、右側の茂みで、バサバサというあわただしい音がした。  口から心臓が飛び出そうなほど驚いて、痙攣するみたいに右の木立に懐中電灯を向ける。悲鳴は出なかったが、それは、出るより先に呼吸が止まってしまったせいだ。  懐中電灯が照らす範囲には、何もいない。多分、鳥か何かだと思う。この深い木々の中では確かめようがない。そこに何がいようと、誰がいたとしても。  俺はそこで無理やり考えるのを止め、数歩先を歩く桂木の背中についていくことだけを考えた。  しばらくして、道がゆるく開けた。とたんに、水の匂いが濃く立ちのぼり、湿気が肌を包んでいく。沼についたのだ。  昼間に来た時とはまったく違う景色のようだった。月明かりを受けた沼の表面は黒々と、時折わずかに光を反射している。  そのわずかな揺らぎがなければ水だとはわからなかっただろう。ぽっかりと開いた穴を思わせるほど、昏く、底知れない水面だった。  それに、この沼はこんなに広かっただろうか? 錯覚だと思うが、夜に見る巳縄沼は、周囲の木々も、岸部も取り込んで、一回り大きくなっている気がした。  懐中電灯を巡らせて周囲を観察していると、ふと光の輪の中に、明るい水色が浮かびあがった。明らかに人工物とわかるようなその色は、病院着の色だった。秋保が、沼のふちに倒れていた。 「秋保さん!」  秋保は、地面にうつぶせに倒れており、きつく目をつぶっていた。駆け寄って体を仰向けにすると、ぐっしょりと全身が濡れている。そっと顔の前に手をかざすと、穏やかな呼吸が確認できた。どうやら生きてはいるらしい。 「桂木さん、秋保さんが」  振り返って桂木を呼ぶ。そのとたん、背後で秋保がばねのように起き上がり、俺の腕をきつく掴んだ。 「……! 秋保さ、」 「僕は……僕は、姉さんを……姉さん……あの女が……」  秋保は要領を得ない言葉を呟きながら、ぎりり、と俺の腕を締め付け、縋り付いてくる。目がブルブルと震えて視点が定まらず、ひどく混乱しているのだとわかった。 「あ、秋保さん、とりあえず落ち着いて。しっかりしましょう」  秋保の手を無理やりはがし、肩を揺さぶる。すると、秋保はゆっくりと黙って静かになった。まだ視点はふらふらとさまよっているが、ひとまず落ち着きを取り戻した。  秋保が見つかったことにほっとしたのも束の間、背後から桂木の鋭い声が飛んだ。 「吉野さん、沼から離れて、こっちに」  少し焦ったような声に反応して立ち上がろうとするが、唐突にあたりに響いた声に、びくっと体が固まった。 「おや、きてくれたんだねえ昼間のおふたり。さ、さ、わたしの嫁御どのを見てっておくれ」  しゅうしゅうという音の混じる、歌うような声は、昼間に聞いた水神の声だった。その声が、背後の沼のから聞こえてくる。 「―――おや、そうだった。その前にすることがあったんだったねえ。もうしわけないね、おふたりとも。少々待っていてくれな。―――嫁御どの」  まるで口の中で飴玉を転がすような甘い声音で、嫁御どの、水神の声は呼ぶ。いとおしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってくるようだった。  でも、そんなあたたかい声なのになぜだが、鳥肌が止まらない。  ぱちゃん、と沼から水の跳ねる音が聞こえた。ハッとして目を凝らす。  魚がはねた? 木の枝が落ちた? ―――何が起きていたとしても、わからない。明かりのささない暗い沼は、音はすれど、表情一つ変えないでそこにある。 「ちゃんとほら、お前のお願い通り、連れてきたよ。ささ、これで、願いが叶えば、お前と祝言を挙げられるね? ああ、そうだね……」  愛しい誰かにおもねる甘い声。相手の返事は一切、聞こえない。それでも彼は一人、うん、うんと嬉しそうに相槌を打っている。  もう一度、沼辺で水の跳ねる音。そして立て続けにもう一度、二度……三度。ちゃぷん、ちゃぷん、ちゃぷん、と。 その音が徐々に岸辺に近づいていることに気づき、全身が総毛だった。  秋保さん、と声をかけようとした。立てますか、逃げますよ。と。でも、言葉は喉に絡みついて出てこなかった。なぜなら、体の右横から、秋保でも俺のものでもない、ごろごろと水音の混じる、誰かの深い呼吸音が聞こえたから。 「吉野さん!」  聞いたこともないような桂木の激しい声に、瞬間、体の自由を取り戻す。秋保を半ば抱きかかえるように立たせ、無理やり引きずって後退する。  沼からいくらか距離をとったところで、背中に秋保をかばうように立った。呼吸音の主を探してあたりをやみくもに懐中電灯で照らす。いない、何も。どこにも、見えない。  桂木が俺のそばに駆け寄ってきた。背後の秋保を俺から引き取るように、秋保の肩に手を回す。 せっかく後ろにかくまったのに、それでは秋保が前に出てしまう。そう抗議しようとしたら、桂木の言葉に乱暴にさえぎられた。 「いいから、吉野さんは車に戻ってください。すぐに沼から離れて」 「は? いやだって、桂木さんは? それに、秋保さんも」  今、この状況で、一般人である秋保と桂木を置いて自分だけ逃げるなんて、最も考えられない選択肢だ。 「なんかやばいですって、なんかいましたって、桂木さん! 秋保さんも連れて一緒に逃げましょう!」  まくしたてるように、喚くように訴えたが、桂木は強い言葉でそれを拒否する。 「いいえ。秋保さんと俺はここに残ります。吉野さんはさっさと行って、」 「はぁ!? そんなのおかしいでしょ。危険です、早く逃げるんです!」 「駄目です。秋保さんはここにいなきゃいけない。それよりも、このままじゃ吉野さんが―――」 「うぅ」  俺でも、桂木でも秋保でもない、誰のものかわからないくぐもった声が、足元から発せられた。ゆっくりと下を見る。 (なんだあれ、白くて長い、ロープ……いや、……蛇?)  くねるように動いた蛇のような白いものを、ゆっくりと目で追っていく。太くなり、一度くびれて、また徐々に太くなっていく蛇の胴体。ついには、なだらかな丸い丘状へと形を変え、さらに…………違う、これは蛇ではない。  その白い蛇は、女の腕だった。ゆっくりと手首から肩までたどった目線が、その横でこちらを見上げる女の頭部を見つけた。俺が見ているのに気づいて、かくん、と首をかしげる。 (え、人。いつからそこに、っていうかどこから? 誰?)  女はもう一度、反対側に、かくん、と首をかしげた。そして、すだれのように顔を覆う前髪の向こうで、にちゃ……と口が大きく開いていく。ぽっかり空いた口の奥から、下水道のような、ごぼごぼごぼごぼ、という濁った音が漏れ出した。

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