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「…ひっ」  きゅっと締まった喉の奥から、悲鳴が少しだけ漏れた。どさっ、と秋保が腰を抜かした音がした。 「あの女、あああ、あああああ! あの女……!」 「くそ、もう見えたか。吉野さんこっちに、」  じたばたと喚いて暴れる秋保にしがみつかれ、そんな秋保ごと桂木に引きずられるように後退った。  女はこちらから視線を外さないまま、ゆっくりと立ち上がる。首が前後左右にゆらゆら揺れて、その動きに合わせて藻のように髪が踊る。  ぐっしょりと濡れそぼり、肌に張り付いたワンピースは、泥にまみれてもとの色すらわからない。瞳は青灰色に濁りきり、唇からは、ときおりごぼごぼと水音が漏れていた。 (なんだ、これ。なんだこれ、人?)  人に限りなく近しいが、絶対に人ではないモノ。それは本来、死体と形容すべきものである。  だが死体は、こんな風には動かない。人ではない。これは、人ではない。 「さあおまえ、こちらの二人はお客様だよ。私たちの祝言を祝いに来てくれたのだ。ああ、おふたり、これが私のかわいい嫁御どのさ」  そんな異形の風体をしたモノが、もう一人いた。すぅ、と沼から歩み寄る影。それは、全身が真っ白な男の姿をしていた。  病的なほど白い肌、透けるような長い白髪、纏うようにゆるりと着崩した白い着物。その足元は、靄か霞のように白んで、空気に溶けて消えている。  哀れなほど薄汚れた女とは対照的な、浮世離れしたその風体に、俺は目を奪われた。 「ん? おや、目が合った。そちらのお方、わたしが見えるようになったんだねえ」  ゆっくりとこちらを振り返った顔は、人と同じもののように思えた。だが、普通では考えられないものが顔を覆っている。白い紐、いや、縄ぐらいの太さのものが、右のこめかみから左のこめかみへまるで注連縄を張るがごとく顔を横切っており、端から上を覆い隠している。  その縄の下で、ぬるりとうごめく唇すら、人ではありえないほどに白い。 (……もう、ほんと、なんだこれ。ありえない)  頭の中の思考は延々ループするばかりで、はっきりしているものといえばただ、未知の現象に対する言いようのない恐怖。  嗚咽をあげて泣いている秋保の声が、かろうじてあふれ出しそうな悲鳴を喉奥に押しとどめてくれていた。いくら目の前の何かに本能的に怖気を感じていても、ここから逃げ出すために、自分まで腑抜けになってしまうわけにはいかない。  俺はごくりと唾を飲み込み、意を決して声を発した。 「桂木さん……俺、桂木さんが見てたのと同じ、ものを、見てるってことでいいんですよね……?」 「そうですね、きっとくちなわ様に何度も会ったせいでしょう。……このまま、見えないほうがよかったのに」  桂木は吐き捨てるように言った。 「見えてしまえば、影響を受ける。害を受ける人間が増える。……だから早く逃げろと言ったのに」  そんなのわかるか、とこちらも吐き捨てたくなった。それならそうと早く教えておけ、秘密主義者め。  確かに、もう俺は目の前の怪異に影響を受けてしまっている。今のこの力の抜けた足で、果たして森を抜けて車まで走ることができるだろうか?  顔面に縄の張られた男……おそらく、彼がくちなわ様だ。その男が、しなやかに弧を描く唇を開く。 「では、祝言の前に野暮用を済ませてしまおうか。おふたりとも、一寸ばかり横へのいてはくれまいか。嫁御どのが、そこにおる男に用があるのだ」  男とは、秋保のことだろう。ここにいる人間は俺と桂木と秋保しかいない。 「……いやだ……いやだ……僕は、僕は……」  自分に集まった視線を感じ、秋保の嗚咽がより一層高く、せわしなくなる。俺はくちなわ様と女から、秋保を隠すように立った。  出会ってからいつもこの神様は要領を得ないしゃべり方をしているが、察するに彼が、女に頼まれて、病室から秋保を連れてきたということだろう。女が何をする気かは明白だ。―――あの日殺し損ねた秋保を、殺す気だ。  怪物二人に、どう立ち回れば、ここから逃げられる? 足腰の立たない秋保を負ぶって。相手は、人を密室からさらったり、好きな場所に自在に出現できるようなありえない力を持っているというのに。  呼びかけに答えようとしない俺たちを見て、くちなわ様が訝しげに首をかしげている。早くしないと、今は穏やかな彼も、激昂し、襲い掛かってくるかもしれない。  どうしよう、どうしよう、どうしたら―――。 「―――ちょっと、いいですか」  すぐ横から、低くなめらかな声が聞こえた。この場にいる誰よりも、どっしりと安定して、凛とした声だった。 「確かめたいことがある、……そちらの、くちなわ様の花嫁と、ここにいる高里秋保に」  くちなわ様はちょっとの間、想定外の桂木の申し出にびっくりしていたようだった。だがやがて、すぼめていた唇をにっこりほころばせて、続けて、というように頷いた。 「お客人の頼みなら、しかたないねえ。嫁御どのになんのご用かな? 祝言が遅れない程度に、手短にたのむよ」 「すぐ済みます」  そう言って桂木は、俺の背後に隠れる秋保の腕を掴んだ。そして、ぐいと体の半分ほど、俺の背後から引っ張り出す。秋保の姿が、怪異の目の前に晒される。  秋保は前のめりによろめく。その秋保に覆いかぶさるがごとく、桂木は秋保に顔を近寄せる。  まるで、大きな黒い影が、秋保を飲み込もうと腕を広げているかのように見えた。  悲鳴を上げる寸前の秋保を、桂木はその目線で射貫く。そして言った。 「あなたは “姉さん” を殺しましたね?」 「――――――あ」  上げかけた悲鳴は、かすかな嗚咽になって霧散した。秋保はただ桂木を静かに見つめて、そして突然、 「……――――はい」  一言、返事をした。 「僕、姉さんを―――」  ころしました。  桂木が腕を離すと、秋保はかくん、と地面にひざをつき、そのまま地面に突っ伏した。とっさに秋保の肩を支えて起こす。その表情は、先ほどまでのむやみに怯える男の表情ではなかった。支えを失って倒れたマネキンのような、がらんどうの表情をしていた。 「……か、つらぎさん、いったい―――」 「秋保さん、あなたは、ご自宅でお姉さんを、階段から突き落としたんですね」  桂木は秋保を立ったまま見下ろしている。桂木の口調はどこまでも穏やかで、人殺しを攻め立てている口調とはとても思えない。 「階段から落ちたお姉さんを、あなたはどうしたか、教えてください。あなたのご両親と一緒に、美春さんの体を、どうしましたか」  うつむく秋保と同じ高さから、俺は桂木の顔を見上げている。あんなに弱々しいと思った月なのに、桂木の背後で輝くあの月は、妙にまぶしくて目に痛い。逆光が桂木の体を黒く塗りつぶす。 「あなたの口からきかせてくださいませんか」  支えている秋保の肩が震えた。ゆっくり、秋保の顔が上を向く。がらんどうのマネキンがほんの少し、人間味を取り戻した。 「姉さんを……階段から、落とした後。母が帰ってきて、父に連絡して、そして―――。父と母と、車で姉さんを運んで…………」  とぎれとぎれに語っていた秋保が、そこでぐっと息をのむ。 「…………めました。沼に、しずめ、ました」  地面に突いた手を秋保が握りしめた。唇をかみ、目を見開いた痛々しい表情は、いったいどんな感情から生み出されたものなのだろうか。 「この沼に、沈めて。僕は、姉さんを。僕は、……殺そうと思ったんじゃない。そうじゃないんだ。僕は姉さんの味方だったんだから。僕は姉さんがかわいそうで、助けてあげたくて、それで……!」  顔をあげた秋保が、くちなわ様の横にいる女に目を向けた。こわばった顔が端からぐしゃぐしゃと崩れていく。泣き出す寸前の幼児のように。 「…………死ぬなんて思わなかったんだ……」  女は変わらず、何も言わず、ただひたすらそこに立っていた。 今ならもうわかる。この女性は、―――美春だ。 「秋保さん、あなたが俺たちに話してくれたこと、覚えていますか?」  桂木の声音は変わらない。優しい、と言っていいはずの声の調子なのに、張り詰めたような緊張感を覚えてしまう。 「自宅に帰って、見知らぬ女に襲われたといいましたね。本当は、あなたのお姉さんだったのでしょう?」 「…………」 「お姉さんを殺したと認めたくないから、嘘をついたんじゃないですか? 美春さんが、あなたに……自分を殺した犯人であるあなたに復讐するためにやって来たのだと、認めたくなかったんでしょう?」  秋保が追い詰められていく。桂木の声が穏やかになめらかに、するすると縄のように、秋保をがんじがらめにしていく。 「病院で聞こえていましたよ。自分じゃない、自分がやったんじゃない、と何度も言うあなたの声が」  ずっとずっと唱え続けていたんでしょう、桂木の言葉に秋保は耐え切れず耳をふさいで首を振った。 「わざとじゃない! わざとじゃない! わざとじゃない! 僕、僕は」 「あなたは一度認めた。自分でも、もうわかっているでしょう」 「ああ―――……」  秋保はとうとう、泣き出した。奇妙に歪んだ甲高い声を発し、わき目も振らず、地面に額をつけて。

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