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桂木は、地面に這いずる秋保から視線をそらし、今度は女―――美春に対して体を向ける。
「美春さんですね。あなたを、病室で見かけました」
美春は、桂木が語り掛けても無反応だ。黒点のない瞳は、どこを向いているのか判別がつかない。もしかしたら桂木を見てすらいないかもしれない。
「自分を殺した弟さんを、家で殺し損ねて、それでずっと付きまとっていたんですよね。なぜすぐ取り殺さなかったのかは謎ですが」
美春の返事を待つために、桂木は言葉を途切れさせるが、やはり美春は何の返答もよこさない。仕方ない、とでもいうように、桂木は嘆息する。
「あなたが、高里正雄さんと京子さんを殺した。そして、秋保さんを殺そうと襲った。間違いありませんね」
ピクリともしない美春から視線をそらし、くちなわ様に向き直る。
「あなたは、知っていますよね。あなたのお嫁さんが何をしようとしていたか。知っていたら、教えてくれませんか」
「知っているとも。ま、ちぃと、記憶の怪しいところはあるがね。しかしだ、それを知ってどうしようというのだね?」
彼は答える。そこから始まった問答は、途切れることなく交わされ、まるで最初から答えが決まっていたかのように、よどみなく流れていった。
「知ることが、俺の生業なのです。人が死ぬと、人間の世界では、誰が、なぜ殺したのかを知らなければならないのですよ」
「なるほど、その通りさね。人を殺せば、殺し返される。下手人の親子供は村八分、一生罪を背負わねばならぬ。しかしだ、殺した罪人がすでに死んでいたら、いったいどうするのだね?」
「どうもこうも―――。そうなったら、人が裁ける範疇を超えています。自然の摂理に任せるのみです」
「ならお前は、知ったあとは何もしないと? 知るだけ知って、ただ捨て置くのみと?」
「何もしないわけではありません。俺が知ったことを、知るべき人へ伝え、知るべきでない人には伝えない」
「なるほど、なるほど。伝えるべきを伝え、伝えないべきは……。まるで信託を告げる巫女のごとき役割。相分かった、ならば巫女に信託を渡すのは水神たるこの私だろう。なんでもお聞き、なんでも答えよう」
くちなわ様の鷹揚な一言に、桂木は感謝を示すように頭を垂れた。その形式ばったやり取りを背後から眺めている俺は、まるで神社の参拝のようだな、とぼんやり思っていた。
異常な事態を前にして、現実逃避していたとも言えなくもない。が、実際そのやりとりは、神主が行う御祈祷なんかと同じように、とても神聖なものとして俺の目に映った。
「では最初からお聞きします。美春さんは、ご家族の手で、この沼に沈められました。その時に、あなたと美春さんは出会ったんですね?」
「そうだ。以前はもっと頻繁だったと思うが……まあ、良しとしよう。この娘は沼に投げ入れられて、そして私は、嫁御どのを迎え入れたのだ。いやはや、いつぶりだろうか、前の嫁御どのに先立たれてから……」
彼は無邪気な様子で語るが、どうやらまだ、美春が嫁としてささげられた娘と思っているらしい。桂木は、あえてなのか、その点についてわざわざ訂正しなかった。
「それがいつか……は、正確にはわかりますか?」
「さあ? 5、6年前か、ひと月前か、ああいや、わかった。昨日か?」
まあ、いつでもよかろう? と彼は笑う。美春の代わりに答える、と言っていたが、これではろくな答えが聞けないのではないか。そう心配するも、桂木は淡々と質問を続ける。
「それで、美春さんはなぜ、こんなことをしているのですか。あなたの嫁になる女性は、誰でもこんな風に、自由に好きなところへ行けるのですか」
「いや。それは違うさね。これは嫁御どののお願いなのだよ」
そういって、するりと真っ白な腕が伸びる。そして、絡まりあった髪に覆われた美春の頭をそっと抱くと、いとおしそうに、その頭に頬を摺り寄せる。美春はされるがまま、真っ白い腕に抱かれている。
「嫁御どのにね、私の嫁になってくれとお願いしたとき、最初は断られたのだよ。そんなこと、初めてでね。私はどうしても、どうしてもどうしても―――お嫁にきておくれと頼んだ。そうしたら、言うのだ。娘が」
「『どうしても、とり殺してやりたい人がいるのです。その人を殺せたなら、あなたの嫁になりましょう』と」
長い指が美春の髪をすき、愛玩するように頬を撫でる。白く濁った眼をして、腐りかけた女を、まるで宝物のように愛でている。
「だから、私の力を分けてあげた。私は、嫁御どのが満足して帰ってくるまで、そわそわ待った……ああ、とっても長い時間に感じたものだ。……でも」
ふっと、髪の毛に触れさせていた顔を持ち上げ、こちらをちらと見る。縄にさえぎられてわからないが、たぶん、秋保を見ていた。
「一人だけ、どうしても殺せなかったらしい。周りに沢山、人間がいるとね、あまり力を使えないのだ。だから、もう一度、わたしは力を貸してあげた。その男を呼び寄せて、ここへ連れてきた。ここなら、誰に邪魔されるでもない。嫁御どのは野暮用を済ませ、晴れて私の妻になる」
嬉しそうに声を弾ませて、彼は言った。
くちなわ様は美春の復讐を手伝うため、力を貸している。それがどういった方法なのかはわからないが、そのおかげで美春は、父を殺し母を殺し、秋保を襲うことができたのだ。そして最後には、美春のために、秋保をこの沼まで拉致してきた。
ということはそう、彼も、秋保を殺したいと思っているはずだ。
「さて、聞きたいことはほかにあるかな? ないなら、嫁御どののお手伝いをお願いできるかな? すこしその男と、嫁御どのを、二人きりにするだけでよい」
しゃらん、と長い髪を揺らして、くちなわ様がこちらを見る。
全身に緊張が走り、秋保を支える腕をこわばらせるも、横にいた桂木が、まだ終わっていないとばかりに一歩前に出るのを見て、再び場の視線が桂木に集中した。
「あなたは、美春さんが秋保さんを殺したいと思う理由を知らない。俺はそれを確認しなければいけない」
「―――ふむ、しつこいのう」
先ほどまで友好的だった声音が、やや苛立ったものに変化する。じわじわと嫌な汗が肌を伝った。
だが、今の俺に何ができるだろう。桂木を信じて待つ以外に。
屈んだままの姿勢から、桂木の背中を見つめ続ける。この事件に関わってからというもの、桂木が何を考えているか、分かった試しは一度もない。
だが、曲がりなりにも“神様”相手に、こうも手慣れた振る舞いを見せる桂木を、俺はこの場にいる誰よりも心強く思っている。
「それを語れるのは、美春さんと秋保さんだけだ。秋保さん、あなたもきちんと聞きなさい。目をそらすな」
秋保はぐずぐずと鼻をすすり、真っ赤に腫れた目で桂木を見た。その体は何かに怯えるように震えている。目の前に立ちふさがる桂木に怯えているのか、それとも、白んだ目でこちらを睨みつける美春に怯えているのか。
それともほかに、理由が?
「美春さん、あなたは、母親である京子さんを廊下で刺し殺し、そのあと、父親の正雄さんを殺しましたね。執拗なほど包丁で何度も突き刺して。書斎のソファが血染めになるほど」
美春はまだ動かない。桂木は粛々と、作業を進めるように美春に言葉を投げかける。
「報告書には、正雄さんの全身に刺し箇所があり、重なり合って正確な数を断定できないほどでした。特にその刺し傷は下半身を執拗に突き刺していました。一部原型をとどめないほど。あなたは……」
少しだけ、桂木が言いよどんだ気がした。気のせいだったかもしれない。それも仕方のないことだった。
「あなたは、父親に性的な虐待を受けていましたね」
初めて、美春が反応を返した。ゆっくりと顔を上向かせ、桂木のほうへ顔を差し向ける。
その目を見つめたまま、桂木は秋保に向かって声をかけた。
「秋保さん、あなたはそれを知っていたということでしょう」
ハッと息をのんだ秋保の表情を見て、それが事実であると確信した。
桂木は二人を見比べるよう、半身を引く。美春に秋保の姿が見えるように、身を引いたようにも見えた。
美春と秋保の目線がかち合う。怯えた視線と、恨みのこもった視線が交わる。
「秋保さん、俺はあの家で、断片的な情報を見ました。父親の暴力と、あなたが美春さんを突き落とす場面を、です。でも、わかりません。あなたが美春さんを突き落とした理由が。あなたはなぜ、階段から美春さんを突き落としたんですか」
秋保は、迷子になった子供のように、途方に暮れた顔で桂木を見る。そして美春を見、再び泣き出しそうに顔をゆがめた。
だが秋保は、今度は泣かなかった。ぐっと唇をかみしめ、そっとほどくと、初めて聞くようなしっかりした声音で話し始めた。
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