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「僕が、物心ついた時から、姉さんはずっと暴力を振るわれていました。母はそれに対して無関心で、父と母は、小さかった僕に対して、虐待のことを隠そうともしなかった。僕は、姉よりも学校の成績が良くて、だから僕は、勉強さえしていればいい、と自由に扱われていました。でも、姉さんは、僕が勉強ばっかりしている間、ずっと父さんに……」
秋保は、ぐっと息を吸い込んで、力強い声を保とうとする。それでも、継いだ言葉は声が震えていた。
「ずっと、僕は姉がかわいそうだと思ってた。でも、父さんには怖くて逆らえなかった。母さんにすら、父さんに告げ口されそうで、逆らえなかった。でも僕だけはずっと姉さんの味方だった。姉さんが父さんにいやらしいことをされた日は、僕が部屋でこっそり慰めてあげた。一緒に泣いて、励ましてあげた。父さんや母さんの前では何もできなかったけど、そうじゃないところでは姉さんをたくさん気遣ってきたんだ」
なのに。
そう、一言ポツリと呟く。安らいだように姉との思い出を語る秋保の声に、悲壮な色が混じり始める。
「僕が大学受験のころ、姉さんが大学院に進みたいと言いはじめた。僕は、姉さんがそんなことを望んでいたなんて初めて知った。父さんと母さんは反対していたけど、姉さんがどうにか説得して、大学院に通い始めた」
「―――その頃から、姉さんは家に帰ってこなくなった。」
その瞬間の、秋保の顔を、俺はしばらく忘れられないだろう。
秋保は、淡々と語り続ける。
「最初は、研究室での発表とか、フィールドワークとか言ってたけど、ある日、姉さんがずっと帰ってこなかったから心配になって、大学に行ってみたら、姉さんが男と一緒に帰っていくのを見た。二人は知らないアパートに入っていって、ずっと出てこなかった」
徐々に、耐え切れない様々な思いが噴出するように、秋保の口調が乱れていく。
「いろんな人と、いろんな家に行って、姉さんは帰ってこなかった。父さんも母さんも、いつの間にか姉さんが男の人と毎日止まってるって知ってた。いつも二人はイライラしてた。僕は―――」
苦悶の表情を浮かべて、秋保は美春を見つめた。
「――――――なんで。姉さん、なんで。僕はずっと心配していたのに。父さんと母さんが姉さんを大事に思っていなくても、僕だけは、ずっと姉さんの味方だったのに。なんでよりによってほかの、ほかの男のところなんか―――」
「なんで、僕を置いていったの……」
「言ったでしょ、秋保」
いつの間にかすぐそばに、女が立っていた。まったくの別人かと思ったが、違う。それは間違いなく美春だった。
ワンピースは濡れていない。薄く透けるような淡いグリーンの襞が、ほっそりした体を柔らかく包み込んでいる。先ほどまで藻や木の葉が絡みついていた髪は、滑らかに肩に垂らされていた。
ただその首は、途中から折れ曲がった針金を、無理やり元の方向に戻したように奇妙にねじれ、どす黒く内出血している。そのうえ、顔の右半分が血にまみれていた。
情けないことに、唐突にその場に現れた美春に、小さな悲鳴を上げたのは俺だけだった。
「あんたたちは私を見捨てた。だから私もあんたたちを見捨てる。あの日、私はそう言ったの」
初めて聞く美春の声は、水の中で叫んでいるような、茫洋とした声だった。平坦で抑揚のないしゃべり調子からは、激した感情は感じられない。
だからこそ、ひたひたと首筋をなでるような、背筋の寒くなるような憎悪が透けて見える。
「秋保が私に同情してくれていることは知ってる。無関心な母さんよりも、ずっと私の心配をしてくれていることも知ってる。でも、それで秋保は具体的に私に何をしてくれた?」
ぐらっ、と美春の首が唐突に大きく揺れ、右側に大きく傾く。秋保がヒッと息をのんだ。
美春は髪をひっつかみ、ごきっと首を鳴らして元の位置に頭を戻す。その間も、目だけは秋保を睨めつけたまま。
「父さんにやめろと言ってくれた? 警察に通報した? 誰でもいいから助けを求めた? 何もしてないじゃない」
「いつも、秋保は私を慰めてくれたね。父さんのものをくわえこまされてなぶられて、痛くて苦しくて寝込んでた時、秋保がずっと手を握ってくれていたの覚えてるよ。でもね、あなたはそれだけじゃない。」
「私は父さんにぶたれて、つっこまれて、熱出して寝込んでるのに、あなたは父さんの言う通り勉強をこなしてれば、なんでも自由にさせてもらえた。わたしみたいに写真撮られて脅されていたわけでもない、友達だって自由に作れたくせに、誰にも助けを求めてくれなかった。私と違って、あなたはたくさん、助けを求める機会があったのに! そんなの、所かまわずほら吹いて悦に入ってる母さんと何が違うのよ」
先ほどまでの、口もきけず、虚ろにそこにいた美春とは、まるで違う。憎しみに満ちた言葉をまくしたて、美春は息を荒らげる。
「だから、わたしを見捨てた人を、わたしも見捨てることにしたの。ようやく、ようやく父さんから逃げることができそうだったのに。なのにあなたは、置いていかないでっていうの? あの家の中に私を閉じ込めようとするの?」
苦しむように美春は胸を掻きむしり、髪を振り乱して身もだえる。
「ようやく手に入れたの! 父さんの代わりに男に体売って、父さんの痕跡を消してもらいながら、その代わりに家に泊めてもらって、お風呂を使わせてもらって。つてを辿って、泊まり込みで雇ってくれるところを探して……。もう私の体なんて、雑巾以下。逃げるためにやってやってやりまくって―――ようやく逃げられると思ったのに。父さんじゃなきゃ誰でもいい、誰でもいいからめちゃくちゃにしてほしくて、私は」
「うるさい! やめろ!やめろ、やめろ―――」
秋保が唐突に金切り声をあげた。しかしすぐに、その声は弱々しい懇願に変わる。
「やめろ、やめて。ごめんなさい。姉さん、父さん、ごめんなさい―――。僕、姉さんがこんなにつらいなんて知らなかったんだ。こんなに、毎日―――」
秋保がぽろぽろと涙をこぼし、縋り付くように姉の足元ににじり寄る。
姉は、驚愕に目を見開いて、地べたに這いずる秋保を見ていた。
「姉さん、お願い―――僕を一人にしないで、どこにも行かないで。本当に助けたかったんだ、本当なんだ。あの時も、僕、姉さんにどこにも行かないでほしくて、そばに居てほしくて、でもこのままじゃまた、ほかの男のところに行ってしまうって思って―――ちょっと怪我すればいいとか、そんな風に思って」
ごめんなさい、ごめんなさい、と秋保がうわ言のようにつぶやく。
美春は驚愕の表情のまま、うあ、とあえいだ。ぱくぱくと開閉する口とちぐはぐに、わななく喉から絶えず苦し気な音がこぼれる。
うあ、あ、あああ―――。
それをきっかけに、美春の喉からは悲痛な叫び声が絶え間なく零れ落ちた。
目を覆い、上体を折り曲げて悲鳴を上げる。それは、自分を襲った悲劇への怒りと、悲しみと、そしてやるせなさとがすべて入り混じった、聞くものの心を引き裂く悲鳴だった。
悲鳴が徐々に途切れ、あたりに静寂が戻ってきた。秋保は相変わらず姉の足元に縋り付き、美春は血まみれの顔を両手で覆っている。
姉さん、と秋保がかすれた声で呼びかけた。
「姉さん、ごめんなさい。ごめんなさい。お願い嫌わないで、僕を許して、ください。お願いします……」
祈るように秋保は美春を見上げた。美春はそんな秋保に、吐き捨てるようにこう言った。
「………ゆるさない」
「ねえ、さん」
絶望に顔を歪める秋保に、美春がゆっくり両手を差し降ろし、屈みこんでいく。
「私は……許さない。絶対、許さない」
やがて、豊かな髪が美春の表情を覆い隠す。どんな表情でその言葉を紡いでいるのか、真下で見上げる秋保にしか、それはわからない。
美春の声は、泣きもせず、怒りもせず、ただただ静かでほんの少し悲しそうにも聞こえた。
その声が意味するところを、俺は知らない。多分、秋保と美春のほかに、誰もわからない。
「秋保、あなたを許さない。呪ってやる、一生苦しめばいい。一生、後悔して、のたうち回って生きればいい」
美春は一瞬、秋保の頭に手を置いた。頭にのせられた手は、その呪いを教え込むように、もしくは、弟の頭をなでるように、そっと触れて、すぐに離れた。
「あなたが一瞬でも罪を忘れたら、その時わたしは秋保、あなたを殺す。すぐにあなたを殺してやる。忘れないで、わたし、あなたを見張っている。あなたがわたしのいない人生で喜ばないように、幸せにならないように」
告げて、美春は秋保の横をすり抜けるように歩き出した。ふわりと舞ったワンピースの軌跡を追うように目線をあげると、そこにもう美春の姿は見えなかった。
「ああ……」
秋保は姉の姿を追うことはせず、ずっと上を向いていた。姿を目で追わずとも、姉の存在を近くに感じていたからかもしれない。
秋保はぼんやりと宙を見ながら、じんわりと恍惚の表情を浮かべた。そしてそっと右肩に手を置く。
「もうずっと離れないでね、姉さん」
これまで見たどの表情よりも安らいだ顔で、病的に姉への愛を呟いて、秋保は目を閉じた。
がくん、と秋保の体から力が抜ける。
「……気絶したようですね」
「…………」
俺は何も言葉が見つからず、ただ黙って、地面に突っ伏すように倒れた秋保の体を、仰向けに横たえた。
誰が、何が言えるだろう。いったい、この二人に。
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