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「――――――ああ、ああ」  ふと、奇妙なうめき声が聞こえた。その声の意味を考える前に、本能が俺の肌を粟立たせる。  声のするところには、白い何かがよろよろと揺らめいていた。右へ左へ、ゆらゆらと首を巡らせながら、おぼつかない足取りでこちらへ踏み出す。 「嫁御どの? 嫁御どの。わたしの愛しい嫁御どのはどこに―――、」  ああ、と俺は思った。何かが、破裂する、と。  恐怖が振り切れていたのかもしれない。ただ、「ああもう彼は限界なのだな」と頭の片隅で、奇妙なほど冷静に思った。 「……―――ああ、行ってしまった。私の、わたしの……あ、ああ、ああああ……」  桂木がゆっくり、後退る。俺もじりじりと下がるが、ふと踵にひっかかるものに気づいて、秋保の存在を思い出す。慌てて、地面に寝そべった秋保を抱え上げようと、背中に腕を回した。 (あれ、うまく動かない)  秋保の腕を何度も取り落として気づく。体が、震えている。 「さみしい。さみしいさみしいさみしいさみしい。ひとりは、いやだ。もう……耐えられぬ。嫁御どの、嫁御どの、戻ってきておくれ。ああ――――」  怖がっている場合じゃない。舌打ちをこらえて、何とか秋保を支えて立つ。その音に気付いたのか、ゆらゆらさまよっていた彼の顔がこちらをとらえた。 「―――――誰でもよい」  虚ろな声が呟いた。 「さみしい」  ぶわ、と全身の毛穴が開き、大量の冷汗がにじんだ。その瞬間、くちなわ様の真っ白な姿が視界から消えていた。  煙草を左手に、ライターを右手に持っている桂木が斜め前にいる。さらにその横に、大きな白い何かがいた。  考える前に、駆け出していた。 「一緒にいておくれ」  それは無数の蛇だった。いや、縄かもしれない。  より合わさった縄目が滑らかに均され、ささくれ立つような鱗に変わり、らんらんと赤い目が輝く蛇の頭へと変わる。  そんな蛇が何匹と、何十匹と群れになり、波のように膨れ上がり、覆いかぶさって―――桂木を突き飛ばした俺を、飲み込んだ。 (あ、冷たい)  どこか遠くでそんなことを思った次の瞬間、俺は五感から流れ込んでくる奔流に飲み込まれた。  肌という肌に冷たい鱗が這いまわり、首だの腕だのを見境なしに締め付ける。  口も鼻もあっという間に蛇の群れに覆われて、おまけに首を絞めつけられて、早くも呼吸ができなくなる。  一瞬閉じるのが遅れた瞼は、鱗にこすられ捩られて、痛みに涙がぼろぼろとこぼれた。  おまけに耳からは、直接脳みそに注ぎ込むように、絶え間なく声が流し込まれる。 「一生ずっとそばに居ておくれ」「一人はもう耐え切れないのだ、わたしを置いていかないでおくれ」「よくも」「忘れないでくれ」「さみしい」「なぜ奪った」「もっと近くに寄り添ってくれ」「苦しい」「わたしを見てくれ」「お前がほしい」「お前たちのせいで、わたしはまた一人きり」「お前がそばに居てくれればそれでいいよ」「くやしい」「二度とはなさない」「一緒にいよう」 「おいで」  鼓膜をがさごそと探られるように声を注ぎ込まれ、腰から背中まで耐えがたい怖気が走った。  さみしさと怒りと狂気にまみれた声が脳内を犯していく。  声の次に頭を支配したのは、胸を太い杭で貫かれるかのような、深く狂おしい孤独感だった。  ずっと暗い沼の底で、彼は待っていた。長い間ずっと  彼は人間に必要とされて、この沼に生まれた。人に望まれるまま畏れられて、奉られてきた。  彼はずっとそこにいた。多くの人から忘れ去られても。もう必要ないと見捨てられても。暗い沼の底で、再び請われる日を。  『水をお恵みください』『くちなわ様、今年も豊穣を』『くちなわ様』 「―――もう一度、わたしを呼んでおくれ」  痛みとは違う涙がこぼれてきた。苦しさとは違う叫び声が、胸の中からあふれてきた。  彼が感じてきた孤独が俺の体いっぱいに流れ込んで、ぎゅうっと喉をひねりつぶした。  苦しい、さみしい、悲しい、苦しい。  恐ろしく長い間、人々から忘れ去られてきた神様が感じてきた痛み。  耐え切れず、叫び声でかき消そうと口を開ければ、締め付けられた喉からは一滴も声が出ず、代わりに押し入ってきたのは蛇の頭だった。 「―――!」  思わずえずいた喉音も漏らせない。酸欠で阿呆になる頭から、自分の思考がどんどん消えていく。狂った声に喰われて消えていく。悲しみに塗りつぶされていく。手足から感覚が消えていく。  体をねじ切るような苦しさが臨界を超えたとき、ふっと、体が楽になった。真っ白く、柔らかな腕に抱きとめられる。甘やかな腕に抱かれた俺に、頭上からどろりと優しい声が降ってきた。 「おいで」  つん、とするような草木の香り。呼吸ができなくて今も苦しいはずなのに、その香りに包まれているととても安らかな気持ちになる。  呼吸も、思考も、もう何もかもどうでもよくなる。そして何より、孤独じゃない。そのことが、涙が出るほど嬉しい。  泥の中に沈み込むように、彼の腕が深く、俺の背中に回り込んでいく。抱擁が深くなるにつれ、あらがえない安堵と眠気に瞼が閉じていく。 (あ……もう、)  溶けていく。そう思った時だった。  くん、と鼻が異質な匂いを嗅ぎつけた。喉を燻し、鼻腔を焼く、渋い香り。 (煙草―――)  どろどろに溶けかけた意識が、かすかに形を取り戻した。  その瞬間を待っていたかのように、俺の腕をひどく熱い何かが掴む。その熱は、俺を冷たい鱗の群れの中から、じっとりとした湿気を含む夜気の中に一気に連れ戻した。  あっ、と思ったその瞬間、最後の記憶のかけらが見えた。  暗い水底に、ゆっくり降りてくる娘。長い髪を豊かに広げ、うっすらと目を開けて自分のもとへ降りてくる。  沼の底でうずくまっていた水神は、その姿を見てにっこりと顔をほころばせた。 『ああ……随分、待った気がするよ。ようやく来てくれたのだねぇ……』  自分のもとに降りてくる女の体を優しく抱きとめる。柔らかいからだ、愛らしい顔。ずっと待っていた。時の流れを忘れるほど長く。自分の体の輪郭を忘れるほどずっと。  でも、それももうおしまいにできる。もう寂しくない。 『……わたしの、わたしの愛しい、嫁御どの……』  その記憶に同調していた意識が、急激に引き離される。安らかな顔をしたくちなわ様と、美春の姿が遠くなる。  心も体も散り散りに引き裂かれながら、熱い手のひらに引き戻されていく。 (……ごめん、なさい)  引き絞られるように切なく痛む胸を抱えて、俺は薄れゆく意識の中で思った。 「吉野さん!」  最後に聞こえたのは、ひどく焦った桂木の声だった。 -

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