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 きいん、という耳鳴りが鳴り続けている。いんいんと耳に響く音に不快感を覚え顔をしかめると、ふわっと鼻腔にコーヒーの甘やかな香りが広がった。 そして唐突に覚醒する。  目を見開くと、薄暗い天井でのんびりとファンが回っていた。外ではない、ということは沼ではない。  体を起こそうとすると、ひどい眩暈に襲われて、寝転んでいるのに天地がわからなくなった。耐えかねて再度頭を地につけると、弾力のある感触が返ってくる。ゆっくり目を巡らせると、ソファの背もたれらしきものと、籐編みの衝立が見えた。 (桂木さんの……事務所、)  のんびり空気をかくファンを見ながら、ぼんやりと思った。  ぎこちなく首を傾けると、探していた人物がようやく視界に入る。桂木が、向かいのソファに座っていた。  首を深くうなだれ、そのままの姿勢で動かない。垂れた前髪が、呼吸でかすかにそよいでいた。眠っているのだろう。  声をかけようと身じろぎすると、その音に気が付いたのか、桂木が目を覚ました。 「よ……しのさん、気分は?」  がばっと立ち上がった桂木が、ソファの間にあるローテーブルを迂回して俺のもとに歩み寄る。答えようと口を開いて、ぐらぐらする視界にまた低く呻いた。 「あー大丈夫です。ちょっと眩暈がするだけで……」 「無理しないで、横になったままで……。吐き気や、頭痛は?」 「平気です。それより、秋保さんは? 無事ですか?」  俺の体よりも、とにかくそれが気になった。意地で無理やり体を起こし、体の心配は無用、と桂木を見上げる。桂木はなおも気遣うような気配を見せたが、結局あきらめたように嘆息した。 「秋保さんは無事です。前原さんと浦賀さんに任せて、病院へ送ってもらいました」 「あ……そうですか。よかった……」  安堵した瞬間、体から芯が抜けてしまうような感覚に襲われた。はぁっと息を吐きながら、ソファの背もたれに頭を預け、脱力する。とにかく、人がこれ以上死ぬようなことがなくてよかった。 「吉野さん、吐き気や頭痛は? 体のどこか、痛いところはありませんか」  俺は、今度は抵抗せず、桂木に聞かれるままに、自分の体を一つずつ確認していく。吐き気も頭痛もないし、痛い箇所もない。ゆっくりと体の末端を動かして、怪我の有無を確かめるうちに、眩暈は少しずつ引いていった。  「……いったい、あの後何があったんですか?」  俺が覚えているのは、くちなわ様に襲われた時の記憶までだ。大量の蛇に襲い掛かられて身動きが取れないところを、腕を引っ張られて引きずり出されたところまでは覚えている。  十中八九、桂木が助けてくれたのだろう。最後に聞こえた桂木の声を覚えている。  桂木は、いつの間に用意したのか、ペットボトルの水を俺に手渡すと、いかにも手短に説明してくれる。 「吉野さんを蛇の群れから引きずり出したあと、隙をついて沼を逃げ出しました。その後、応援にきた前原さんと浦賀さんに合流し、おふたりに秋保さんを引き渡して、病院へ連れて行ってもらいました。秋保さんの身体に別条はないですが、念のため検査をしてもらっています。前原さん達は、今ごろ支援室に戻って諸々の対応をしてくれていると思います。吉野さんは気を失っていたので、ひとまず俺の事務所に運んで、こうやって様子を見ていた次第です」 「……はぁ、それは、ご面倒をおかけしました……」 受け取った水を飲みながら、何がなんだかよくわからないが、助かってよかった……とぼんやり思った。 飲み口から口を離し、人心地ついていると、傍らに立ったままの桂木が突然、俺に頭を下げた。ぎょっとして、俺はその差し向けられた頭頂部を見つめる。 「俺のせいです。俺をかばったせいで、吉野さんをこんな目に合わせてしまいました」 「なっ……、そんな、違いますよ。桂木さんのせいじゃないです、俺が好きでした行動なんで」 まさか桂木に頭を下げられるとは思ってもいなかったため、俺は慌てて否定する。しかし桂木は、それでも譲らないというように、頭を上げない。 「いえ、そもそも、自分の状況判断が誤っていたんです。吉野さんに、中途半端な情報だけ与えて、連れまわしていたのが悪かった。吉野さんには車で待っていてもらって、俺だけがあそこに行くべきだった」 本当に、申し訳ない。桂木はそう言って、なおも深く頭を下げる。 俺は、誰かに頭を下げられるという落ち着かない状況に途方に暮れながらも、「それは違います」と声をあげた。 「桂木さんに情報をくれって言っていたのは、俺のほうです。それにあの時、桂木さんに「車で待ってろ」なんて言われても、俺は絶対ついていきました。だいたい、桂木さんはあくまで一般人なんですよ? 警察官の俺が安全なところにいて、一般人だけ危ない場所に行かせるわけ行かないじゃないですか」  いくら桂木が一人で行くと言っても、多分、自分は絶対に許さなかっただろう。 桂木に認めさせたいという気持ちはもちろんあったが、それ以前に、俺は警察官だ。一般人の桂木を守る義務が俺にはある。 それにしても、桂木に怪我がなくてよかった。もし桂木のほうが襲われてしまっていたら、あの状況で桂木を救い出し、秋保を連れて逃げることは、俺にはできなかったと思う。たとえ、唯一の武器である煙草を持っていたとしても、だ。 「俺だって煙草は持っていましたけど、使おうなんて思いつきもしなかった。俺が、あの状況で桂木さんと秋保さんを助けるなんて、到底無理です。桂木さんがダメになっていたら、むしろ詰んでました。だから、桂木さんは悪くないですよ」  桂木の肩に手を添え、頭を上げるように促す。桂木はそれに逆らわず、静かに顔を上げた。上目遣いにこちらを見る桂木と目が合う。体を起こしても、申し訳なさそうな目は変わらない。  俺はそんな桂木を半ば励ますように、明るい声で言う。 「それに、結局誰も怪我しなかったし、無事に帰還できたじゃないですか。だから結果オーライです。桂木さんも、そんなに気にする必要はないですよ」 ははは、と笑って見せても、桂木の表情は晴れないままだ。それどころか、かなり深刻な顔をしている。 「……違うんです、吉野さん」 桂木が呻くようにつぶやき、俺のそばへ歩み寄る。そして、ソファに座ったままの俺の肩を掴み、まるで懇願するような目で俺を見据えた。 「俺はあなたに取り返しのつかないことをしてしまった。あなたはもう、以前のあなたではない」 突拍子もないこと言い出した桂木に、反射的に「は?」と言いそうになる。実際は、肩を掴む桂木の手の強さに気圧されて声も出なかったが。 桂木が言葉を探している、そして、見つからなくてはうなだれる。目の前十数センチの距離で思い悩む表情を見せる桂木は、まるで俺の知らない人間のようだった。 「……結論から言いますと、吉野さんは、呪いのようなものをかけられています。そのせいであなたは、現在、大変怪異に襲われやすい状態になっています」 「は?」  今度は鋭いほどの勢いで「は?」が口から出た。  不穏な単語が目白押しだ、どういうことだ、と、口を開こうとしたが、それを見越して桂木が口を開く。 「急に言われても、よくわからないかもしれませんが、ひとまずすべて聞いてください。順を追って説明しますから」  そう言われては、仕方ない。俺は不安の残る面持ちで、おとなしく口を閉じた。それを見て、桂木が俺の肩から手を離す。そして、長くなる話に備えて、俺の座っている隣に腰かけた。

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