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「あなたをそんな状態にしたのは、あなたを襲ったくちなわ様です。彼はあの時、自分から離れていった美春さんの代わりに、俺を……結果的には俺の代わりに、あなたを、自分のそばに置こうとしました」  ―――誰でもよい。  そう言って、水神は俺たちに手を伸ばした。あの時の情景が見る見るうちに脳裏によみがえる。 「あなたをとらえて、むりやり、自分たちのいる“側”へと、引きずり込もうとした。そしてあなたは、あの瞬間“あちら側”へと行きかけてしまったのです」 あちら側、というのが、怪異たちのいる世界であることは想像できた。あの時、蛇の大群に飲み込まれた瞬間のことは、今も脳裏に焼き付いている。 耐えがたいほど長い間、一人きりでいた、くちなわ様。彼の寂しさが俺の中に流れ込み、胸が締め付けられて、苦しくて仕方がなかった。 あの瞬間が、俺が人ではない者たちの世界に行きかけた瞬間だったのか。 「あなたは、無数の蛇に埋もれて、どこにいるかも見えない状態でした。とにかく、俺は煙草に火をつけて、蛇の群れに火を押し当てた。蛇たちが散った瞬間を見計らって、あなたを引きずり出した」 桂木がそこで俯けていた顔をあげ、俺の顔を覗き込む。前髪の隙間から、真っ黒な瞳がこちらを覗いていた。 「あなたを助けることができたと思いましたが、そうではなかった。あなたは、魂とか存在とか、そういったものを半分、“あちら側”に置いてきてしまった。今のあなたは、半分怪異の世界に体を突っ込んだような状態で、生きています」 半分あちら側、とはどういうことだろう。俺の半分が怪物になってしまった、とか? 半分死にかけの存在とか?  とっさに、手を顔の前にかざして透かして見る。だが、手のひらは透けもしないし、いつもの俺の手にしか見えない。 「俺、幽霊になったってことですか? 半分だけ」 「違います。あなたは生きている人間です。でも、限りなく怪異たちと存在が近い。……うまく言い表せないが、怪異たちの“すぐ隣にいる”といったほうが近い……ですかね」  桂木は口元に手をやりながら、自分でも考えながら、言葉を探すようにゆっくり話はじめる。 「怪異は、人間に対して必ずしも害をなす存在とは限らない。人間にまったく干渉しないモノもいます。でも、中には人間に害をなさなければ存在を保てないモノもいる。人そのものや、人の悪意、悲しみを喰わなければ生きていけないようなものが。……そういった怪異が、人に害をなします」  じっと、桂木の語る声に耳を傾ける。まるで学校の授業を思わせるような、落ち着いた声だった。 「誰だってそうですが、スーパーに行ったとき、同じ商品でも棚の一番上にあるものを背伸びして取るのではなく、目の前の高さにあるものをとるでしょう? それと同じように、怪異も、手の届く範囲にいる人間から襲います。 この時の“近しさ”というのは、“怪異の世界に対する近さ”をいいます。俺のように、昔から怪異を見ることのできる人間は、怪異の世界に近い。だから、怪異からちょっかいをかけられることも多いし、逆にこちらからアプローチすることもできる。吉野さんは、最初は怪異の世界から遠い人間だった。あなたから怪異を見ることもできない。その代わり、怪異からあなたにちょっかいをかけることもできない」    要するに、怪異を見ることのできる人間は、怪異から襲われやすい、ということなのだろう。だから、幽霊なんて見たこともなかった俺は、襲われにくい体質だった。これまでは。 「でも、今の吉野さんは違います。怪異の世界に近いどころか、半分体を突っ込んでしまっている。怪異にとって、吉野さんの存在は、すぐ目の前にぶら下げられている熟れた果物のような存在です」 無意識に息をのんだ。 怪異が少し手を伸ばせば届く場所に俺は、常に身を晒しているという。 正直、まだ実感は湧かない。だが、それを語る桂木の目が真剣そのもので、桂木にそんな顔をさせてしまっていることが、事態の深刻さが如何ほどかを告げている。 俺はいま、怪異が身に迫る恐怖よりも、桂木の真剣さのほうが怖い。 「もうあなたは、怪異の姿を見ることができます。声も聞こえるし、対話もできるでしょう。そして頻繁に、怪異から悪影響を受けることになる」  桂木の手がもう一度俺の肩に触れる。桂木の顔が後悔に歪み、懺悔するように深く項垂れてしまう。 「だから、……本当に、申し訳ない。取り返しのつかないことをしてしまった」  その姿を見て、俺の喉はぎゅっと縮み上がってしまった。何も言葉が出てこない。肩に触れた手から、桂木が本当に後悔していることが伝わってきた。  桂木の手が肩を掴んだその場所が温かい。あの時、俺をこちら側に呼び戻してくれた手の平だ。  そう思った瞬間、考えるよりも先に言葉が出てきた。  「俺はそれでも、あの時、桂木さんをかばったことを後悔してません。」  目の前の男にこんな顔をしてほしくない。そんな衝動がひたすら胸にこみあげ、押し出されるように言葉があふれた。 「俺はずっと、心のどっかで桂木さんのことを偏見の目で見ていたように思います。……俺は今まで幽霊を見たことも、不思議な経験をしたこともない。だから、“そんなものを見た”と言う人は全員幻覚でも見たんだと思ってました」  通報で呼び出された夜の街で暴れる人たち。自分の見たものを必死に訴える人たち。俺はそんな人達をまとめてひとくくりに、妄想逞しい人間なのだと解釈していた。精神を病んでいて、かわいそうだとすら思っていた。  そして、俺は桂木をも、彼らと同じだとひとくくりにしてしまっていた。  でも違った。桂木の見ていたものは本物だった。そして、いつかの彼らの幻覚も妄想も、本当は存在するものだったのかもしれない。  俺はひざの上で両手のこぶしを握る。    自分にはこういうところがある、という自覚があった。自分が知らないことに対してひどく鈍感な、想像力の欠如した人間。それが俺の自己評価だった。  高校生の時。俺が将来のことなど何も考えず、ただ毎日を楽しく自堕落に過ごしていた時代。家計が貧しい友人をそれと知らず、毎日のようにゲームセンターやカラオケに誘っていたことがある。  後日、夜のファーストフード店で働く友人を偶然見かけ、さらにほかの友人から彼の経済環境を聞くにあたり、俺は愕然とした。なんでも話せる気の置けない友人だと思っていた。だが、実際はそれほどまで、彼は俺を信頼してくれていたわけではなかったのだ。  友人が真実を話してくれなかったこともショックだったが、それよりも俺は、自分の友人たちに対する無関心さに失望した。  金がないんだよと苦笑いしつつ、いつも遊びに付き合ってくれていた彼は、俺のことをどう思っていただろう。そう思うと、後悔と恥ずかしさで息が詰まった。そして、彼から軽蔑の目で見られているような気がして、彼とは疎遠になってしまった。  そんな苦い体験があってなお、俺のぶしつけさ、無神経さはいつまでも直らない。    高校時代のあの時、俺は彼の事情を知らずに厚かましく接してきたことを謝ればよかったのだと思う。そうすれば気まずい関係にならず、本当に彼の友人になれたかもしれない。  桂木はどうだろうか。  謝ってそして、許してもらえるのだろうか。まだ俺には、桂木を引き留めることはできるだろうか。   「沼で、初めて幽霊を……怪異を見たときに、心底怖かったです。その時初めて、桂木さんはずっとこんな怖いものを見てきたんだと知りました。そしてその時、俺はずっと桂木さんのことを信じていなかったと気が付いたんです。俺はそんな自分が本当に、恥ずかしかったし、後悔しました」  後悔の苦い味に耐えながら、一つ一つ思いを言葉にする。  自分はずっと、桂木が協力的でないことを不満に思ってきた。しかし、情報を与えれば白い眼で見られることがわかっていて、そんな相手にどうして協力できようか。  桂木がずっと俺を信用してくれなかったことも、無理らしからぬことだった。 「だから、俺からも謝らせてください。本当にすみませんでした」  俺は膝をそろえて桂木のほうに向きなおると、勢いよく頭を下げた。  ぎゅっと目をつぶって考える。こんな風に、人に向かって必死に謝ることなんて、たぶん人生で初めてだった。  頭を下げるだけなら、学生時代のアルバイトや新米警察官のときに嫌というほどやってきた。でも、きちんと許されたいと思ってこんなに深く頭を下げるのは桂木が初めてだ。   「……あの、吉野さん。頭をあげてください。お願いですから」  困惑しきった声が頭上から降ってきて、ためらいがちに俺の肩を桂木の手が押し上げた。  先ほどまでの悲しげな表情が、今は当惑したそれに変わっている。それにほんの少し安堵した。    まだ知り合って三日間しか経っていない。なのに、どうしてこんなにも、この人に許してほしいと思っているのだろう。  それは、桂木が俺を助けてくれたからだろうか。むしろ俺が知らずに桂木を傷つけてしまったからかもしれない。  自分でもよくわからない強い衝動に突き動かされる。俺は彼に恩を返さなくてはいけない。そして自分がしたことを埋め合わせなくてはいけない。  だから、俺は見え隠れする桂木の目をまっすぐ見つめて言った。 「俺、桂木さんが見ているものを理解したいです」 「……え」  桂木が目を瞠る。いつも半眼だった目が大きく開かれ鈍く光る 「俺は、怪異を見ることができるようになった訳ですよね? 桂木さんと同じものが見えるようになった。そういうことですよね」 「それはまあ……そうですね」  桂木は言い淀んだが、結局肯定した。それを聞いて俺は、ならば、と続ける。 「俺はちゃんと、桂木さんがどんなものを見ているか知りたいです。何ていうか……俺が無知なせいで、桂木さんに不快な思いをさせてしまった償い、のようなものというか。……いや、それが償いになるかはわからないんですけど」  しどろもどろになりながら、俺は精いっぱい言葉をつなぐ。 「それに、支援班の捜査をするにあたって、“怪異が見える”ってすごく役に立つことじゃないですか。桂木さんの捜査の負担を減らすこともできますし、俺にとっては願ったりかなったりです」  驚くことも不満なこともあったが、それでも俺はまだ支援班で仕事がしたい。前原と浦賀と桂木と、一緒に仕事がしていきたいと思っている。少なくとも、すぐさま異動届を出そうなんて思わない。  もう少し、この不思議なメンバーと一緒に、自分がどんな仕事をするか見てみたい。 「っていうかだいたい、あの時襲われたのが桂木さんでなくても、俺は庇ってましたよ。そうじゃなきゃ、なんのために俺があの場にいたかわからないじゃないですか。桂木さんみたいに怪異に対処できるわけでもない俺ですよ? どのみち、ああなるしかなかったんです」  そう。そこは間違いなく確かだ。あの時襲われたのが秋保でも俺は飛び出していったし、それは秋保のせいではない。襲ってきた水神のせいだ。  俺は桂木に対し、言い聞かせるようにゆっくりと宣言する。 「だから、本当に桂木さんが悪いと思うことは何もないです。俺が勝手にやりたいことをやっただけで、しかもその結果、今後の捜査に役に立つスキルを手に入れた。ただそれだけです」  桂木が俺に対して罪悪感を抱くことはない、むしろそれは俺が抱くべきものだ。  だから、その埋め合わせをするためにも、俺が桂木と捜査を続けることを認めてほしい。桂木の見ているものを、俺が理解するチャンスが欲しい。  そう思って伝えた言葉だったが、桂木は沈黙したままだった。  何とか桂木に伝えなければと熱くなっていた頭が、徐々に冷静さを取り戻す。それと反比例するように、だんだんと気恥ずかしさが増していく。耐え切れず、俺はゆっくり視線を逸らした。  流れに任せてかなり生意気なことも言ってしまった気がするが、放った言葉をもう元には戻せない。  じりじりと待つ俺に、唐突に「わかりました」という声がかけられた。  逸らした目線を戻すと、そこには、先ほどまで悲壮な表情をしていた男はもういない。どこかふてぶてしいほど平静を取り戻した桂木がいた。

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