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「桂木さん、あの時だいぶ辛そうでしたけど、その、そんなに……ひどい光景だったんですか?」 「酷いといえば、相当酷いですが、そうではなく。怪異に影響されるとたまに酔ったみたいに気持ち悪くなるんです。昔からもう慣れっこなんで、そんなに大したことはないです」  確かに桂木は、いつものことなので、と言っていたし、吐いた後はけろっとしていた。桂木は慣れているといったが、それでもつらいことには変わりないだろうに。 「そのあと秋保さんがいなくなってしまったと聞いて、状況から沼を連想したのはおそらく吉野さんと一緒ですね。道中コンビニに寄りましたが、吉野さんが買い物をしている最中に浦賀さんに連絡しました。高里家で見たことすべて。一家を襲ったのが美春であること、美春の虐待、美春を殺したのが秋保であること、美春の遺体を家族ぐるみで遺棄したこと、たぶん遺棄した場所が巳縄沼であること……」 「ほ、ほぼ真相全部じゃないですか」 「ついでに、それなりに危険な場所へ行くことになるので、諸々の処理が終わり次第、応援に来てくれるようにも頼みました。万が一、沼の周囲から逃げ出せなくなったり、最悪、死んでしまった時のために」  そんな事態まで見越して行動していたとは頭が下がる。確かに俺も沼へ行くと報告はしていたが、それが即、死につながるとはつゆほども思っていなかった。 「沼の周辺で起きたことは、吉野さんが見聞きしたことがほとんどだと思いますが、何かお聞きしたいことはありますか?」  本当に、数日前までの取り付く島もなかった桂木とは別人のようだ。至れり尽くせりといった対応と言っていい。  その桂木の態度にまだ慣れることができず、俺は遠慮が抜けきれないおずおずとした口調で、桂木に尋ねた。 「……くちなわ様は、美春さんは、結局どうなったんですか?」  俺はあの時、くちなわ様に飲み込まれて、引きずり出されたところで記憶が終わっている。彼はいったい、その後どうなったのだろうか。  それに、秋保に「一生呪う」と言い放った美春も。あの時は消えてしまったように見えたが、ずっと秋保に憑いているのだろうか。  桂木は両手の指を組み合わせて顔の前に持ってくる。その指の組み合わせを見つめながら言った。 「……くちなわ様は、おそらく消えてしまったと思います」 「え……」  意外な答えに俺は動揺した。桂木は続けて語る。 「彼はもともと、人々の信仰が薄れてほとんど忘れかけられていたために、とても力が弱っていたんです。もう意識や形を保つのが精いっぱいだった。そんなとき、美春さんが沼に投げ込まれた。彼は彼女のことを、待ちに待ち続けた自分の伴侶だと思ったんです」  美春のことだ。くちなわ様の記憶の中で見た、水底に降りてくる美春の姿を思い出す。 「どうしても、自分のそばに居てほしかったんでしょう。美春さんに、自分の力の多くを分け与え、その後、秋保さんを病室から連れ去るときにも力を使った。その時点でもう、彼は消えかけているも同然の力しか残っていなかった。だからあの時、美春さんが離れていくことを止められなかった」  確かに、思い返してみれば変である。神さまとは、とても強い力を持ってるのが普通なのではないか。それこそ、力関係で言えば本来は、美春を支配するのはくちなわ様であったはずだ。  それなのに、美春は秋保に取り憑いた。それはすなわち、くちなわ様の妻になることを拒否したということだ。  くちなわ様には、もうそれを引き留める力も残っていなかったということか。 「そして、最後の力を振り絞って、吉野さんを引きずり込もうとした。本当に、最後の力だったんだと思う。だから、俺が吉野さんを助け出した後、くちなわ様は消えた。そして、消える寸前、この世に恨みを残すように、あなたを呪っていった」  それを聞いて、俺は……俺は何も言えなかった。  くちなわ様は、あの沼の神様は、何も悪いことはしていなかった。人々から必要とされなくなって、ただ消えゆく瞬間を待つだけだった神様。偶然沼へ捨てられた美春を自分の嫁と呼び、彼女の願いを叶えるために自分のなけなしの力を削り取って、そして裏切られた。  美春の境遇を思えば、その行動を責めることは俺にはできない。だが、弱り切った神様にとってその裏切りは、どんなに腹立たしく、悲しかったことだろう。  そして間接的にとはいえ、その最愛のお嫁さんを奪ったのは俺たちだ。なるほど、呪いを受けるには、俺という人間はふさわしかったのかもしれない。 「美春さんは、秋保さんに取り憑いています。何を思ってそうしたのか、どうして殺さずに秋保さんを生かしたのかは、想像するしかありませんが……」  秋保を殺すために沼に秋保を拉致までした美春。秋保の謝罪を受け入れたのか、それとも殺さずに罪を償って生きるほうがより厳しい罰になると判断したのか。  俺は、ずっと自分の中で気になっていることを桂木に問いかけた。 「……秋保さんは、父親から―――美春さんの代わりに、虐待を受けていたんですか」  あの時の悲痛な秋保の謝罪を思い出す。  ―――姉さん、父さん、ごめんなさい―――。僕、姉さんがこんなにつらいなんて知らなかったんだ。こんなに、毎日―――  桂木は、組んだ指の向こうからじっと俺を見つめたのち、額を指にそっと近づけた。 「―――さぁ、なんとも。わかりません」  あいまいにぼかした気のない返事だった。その声音に似合わず祈るかのような姿勢だと思った。  地面に突っ伏した秋保の横で、見上げた美春の姿を思い出す。血にまみれていたが、美しい顔をしたきゃしゃな女性だった。父の支配する家から逃げ出そうとして、必死にもがいていた彼女。そして悪夢のような家に一人取り残された彼。  この先、彼らが幸せになれるとはどうしても思えなかった。生きていればいつか、という無責任な言葉を吐く気もない。何を祈ればよいかわからないまま俺は、ただ秋保と美春の行く末を思うしかなかった。 「……そういえば、お茶も入れてませんでしたね」  気詰まりな空気を払拭するように桂木が呟いて立ち上がる。お構いなく、と声をかけたが、桂木は給湯スペースに引っ込んだ。ほどなくして目の前にカップを持った桂木が現れる。カップとは別に、わきの下に器用にファイルを挟んでいた。  カップを置くと、そのファイルを取り出して、俺の前に置く。 「今回の報告書です」 「あ、ありがとうございます」  テーブルに置かれたファイルを手に取る。挟まれている紙は数枚。様々なことが起こったように感じていたが、紙にまとめればたったこれだけである。  この中に、とある家族の地獄と、三人の人間の死と、一人の神の消失が、詰め込まれている。 「……吉野さん、明日は支援室で待機ですか?」 「え、明日ですか? まあ、そうですね」  桂木の問いに答える。今は事件の捜査要請は入っていない。明日は過去の資料を見つつ、支援班の仕事について前原と浦賀にレクチャーを受ける予定だった。 「なら、巳縄沼へ行きませんか。捜査の事後処理として、前原さんには連絡をしておきますから」  唐突に、桂木が言わんとしていることがわかった気がした。 「……お酒、用意していく必要がありますかね」 「もう用意はしてあります」  俺たちが直接の要因ではない。だがくちなわ様は、あの神様は、ただ寂しかっただけなのだ。それがとても悲しかった。  俺たちにできることは何もない。せめて、あの沼に神様がいたことを覚えていることしかできない。 「わかりました。じゃあ、明日車出します」 「お願いします」  桂木はそう言うと、窓から差し込む光がきらきらと空中で反射する中で、柔らかく笑った。  FILE 01:沼に棲む水神  事件終了

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