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閑話 『見ている?』 前編
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「……あ、桂木さんですか。お疲れ様です。すみません遅い時間に」
『―――――――――』
「いえ、あの、そうではなく……。すみません、ちょっとお聞きしたくて」
『―…………―――――』
「…………あ、あの……玄関にですね、入ってきちゃいまして。今、目の前にいます」
スマホの向こうのホワイトノイズに祈るような思いで耳を傾けながら、俺は廊下に立っている。
ここは俺の住むアパートの廊下だ。玄関からリビングまで、細長く伸びるフローリング。そのリビングにつながる扉を背にして、スマホ片手に立ち尽くしている。
足元には、スマホを取り出した鞄が口を開けたまま放り出され、その横にはいつもの店で買ってきた惣菜パックがビニール袋からはみ出している。先ほどまで気分よく、その惣菜の袋を下げていた手は、苦しいほどの動悸を押さえるためにスーツの胸元を握り締めていた。
どっどっ、と胸を叩く心臓を感じながら、俺は玄関に立つそれを見つめ続ける。
アパートの小さな三和土には、こちらに背を向けた男が立っていた。
帰宅した俺が扉に鍵をかけ、靴を脱いだところまでは、玄関に何もいなかったことを覚えている。玄関からたった三歩でたどり着くリビングの扉に手をかけながら、何気なく振り向いたら、男がそこにいた。
心臓が一瞬止まり、惣菜店の袋が無残に廊下に落下した。
それから俺は、震える手でカバンを探り、ようやくスマホを取り出すと、そっと桂木にコールしたのだ。
そして、冒頭のくだりに至るのである。
(やばい、やばいやばいやばい。なんで家に? つか、どこから入って、)
先日の桂木の話ではこうじゃなかった。追いかけられたら家や神社や人の大勢いるところに逃げ込めと、そういう話だったじゃないか。家に逃げ込んでもついてくるじゃないか。どうなってるんだ。
俺は先日桂木に聞いたばかりの、怪異に対する身の守り方講座を思い出す。こんな時にどうすればいいかなんて、あの時は教えてくれなかった。
-
それは、高里家の事件が収束してしばらくのことだった。
俺は配属した直後から事件の調査に投入されていたため、後回しにされていた諸々の事務処理に忙殺されていた。
毎日の出退勤に施設内の説明、異動に関わる数々の書類作成のほか、支援班での業務説明から機密保持に関わる事項への宣誓まで。とにかくやることは大量にあり、それらすべてを浦賀の指示のもと、必死で処理した。
「うっす。異動届提出しときますね。じゃあ次これ、吉野さんの分の貸し出し機器の申請しちゃうんで、こことここ、書いて押印おねがいしまっす」
「え? この前もらったスマホじゃだめなの?」
「あれは前原さんのっす。緊急だったんで貸し出しましたが、本来一人ひとつ支給されるっすよ。原則、又貸し厳禁なんで。はい、どうぞ」
今日何枚目かわからない紙切れを渡されて、うんざりしながらデスクに着く。そんな俺の様子をしり目に、浦賀はてきぱきと提出すべき書類をまとめ、あっという間にファイリングしてしまった。その鮮やかな手さばきに感心する。
「浦賀はすごいな。捜査情報まとめたりするだけじゃなく、こんなしち面倒な事務仕事までこなして」
「あっは。ありがとございます~。俺は内勤なんで、このくらいはできて当然ですよ」
言いながらすさまじい勢いで何らかのデータを打ち込んでいく浦賀を見て、「本当にこの男は警察官なのだろうか」と、感嘆とも呆れともつかないため息を漏らした。
支援班は、怪異が関わらない捜査に関しては、基本的にお声がかからない。人街戦術で人手が必要な時、雑用に駆り出されるくらいである。必然的に支援班メンバーは、一般の捜査二課の刑事に比べてヒマな時間が増える。
そんな時はこうして事務仕事にいそしんだり、過去の事件記録を整理したりして過ごすらしい。つまり、今のこの平々凡々たる風景のほうが支援班にとっての日常なのだ。
浦賀に手渡された書類があらかた片付くころ、時計の針が16時を指す。俺は手に持っていた最後の書類を浦賀に渡しがてら、声をかけた。
「じゃ、俺これから外出して直帰だから。お先に失礼します」
「あ~はい、桂木さんのとこでしたね! お疲れ様っす~」
そう、今日は夕方から桂木のもとを訪問する予定だった。
何のためかというと、俺の身の安全のためである。
「やっぱお経とか唱えるんですか? 般若心経すか?」
「他人事だと思って……」
片手の指をそろえて立て、反対の手で木魚を叩くそぶりを見せる浦賀。苦笑いしながら「じゃあ」と片手を挙げると、支援室の扉をくぐった。廊下を進みながら、本当にお経だったらどうしよう、覚えられるだろうか、と少し心配になった。
これから桂木のもとを訪れるのには訳がある。先日の事件で俺は“呪い”のようなものを受け、そのせいで体質(これを体質と言っていいかわからないが)が変わってしまった。
今まで見ることも感じることもできなかった、怪異という存在に、非常に狙われやすくなってしまった、らしい。これまでの人生で一度も霊的な体験をしたことのない俺だ。もちろん、怪異に襲われた時の対処法などわかるはずもない。そのため、怪異から身を守る為のすべを、桂木から教わることになったのだ。
事件が終息してからしばらく、俺を取り巻く環境は緩やかに、かといって気づかないほど穏やかというわけでもなく、変化を続けていた。
最初はいつもの生活のほんの一瞬、些細な違和感を覚えるぐらいだった。例えば、今まで前を歩いていた人が、次の瞬間にはどこにもいない。声をかけられたのに声の主が見つからない。そんな程度の、いつもなら気のせいか、で済ませるような小さな違和感だった。
そんな違和感も、日を経るごとに少しずつ大きくなっていった。血まみれの人間に呼び止められたり、空を飛ぶ、明らかに人でない“何か”を目撃したり、今ではもう気にしないでいられるレベルをとうに超えていた。
そして目下、俺を困らせているのは、ある一人の幽霊の存在だ。
(……また、いる)
最初に気が付いたのは、三日ほど前だったと思う。朝出勤するときや、帰宅するとき。仕事で外出するときなど、建物の外にいるときに視界の端に居る人影に気が付いた。
その人物は必ず自分に背を向けていて、わずかに俯いて立っている。背格好から男だとわかるその人影は、スーツを着ていることもあり、通行人の一人だろうと最初は気に留めなかった。
だが、その男がいつもどこにいても視界の端に立っていることに気が付き、俺は初めて不気味さを覚えた。
朝、出勤の途中にコンビニの前に立っているかと思いきや、夜中に帰宅するときに電信柱の影に同じ姿勢で立っている。時間も場所も違うのに、同じ格好で同じ姿勢の男が、立っているのである。
このころには、人型の幽霊ならいくらか見慣れてきていたため、俺はこの男を幽霊=怪異だとすぐに判断できた。
判断はできるものの、積極的な対処は俺にはできない。だから、ほかの人型幽霊を見たときと同じように無視し続けていた。
しかし、三日も続くとさすがに不気味だ。
俺はぐっと息をのんで、玄関前のロビーで足を止める。男は、受付窓口の横にひっそりとたたずんでいた。そのすぐ横では、受付の女性と一般人の男性が、書類を見せながら何かを話している。その二人が男に気づいている様子はない。
俺はできるだけ受付窓口の横を見ないように、ロビーを走り抜けた。
自動扉をくぐって外に出たところで、ちらりと振り向くと、男はまだ受付の横に立っている。距離をとれたことにほっとした後、猛烈な違和感を覚えた。
建物の奥にいた俺が見たとき、男は完全に俺に対して背中を向けていた。その状態で立ったまま動いていないなら、男の背中は“建物の奥”に向けられていなければいけない。つまり、この位置から男を見たとき、男の横顔が見えなければおかしい。
なのに、俺が自動ドア越しに見ている男は、俺に完全に背中を向けていた。
(見てる、んだ)
男は背中を向けているはずなのに。“俺を、見ている”のだ。
そう思った瞬間、俺は何もかも考えることを止めて、走り出していた。
-
「それは、おつかれさまです」
「……ども」
桂木の事務所に着いた俺は、げっそりと憔悴しきった顔の由来を説明した。そっけなくねぎらいの言葉を述べた桂木は、コーヒーを俺の前に置くと、自分もソファに腰かけてコーヒーをすする。
今日も桂木は、髪の毛のカーテンで目元を覆っている。鼻先まで垂れた前髪をよけて器用にコーヒーをすする様は実に手慣れている。いったいいつからこの長さの前髪なのだろう。
「……その幽霊は、特になんのきっかけもなく、いつの間にか視界に入るようになっていたんですか?」
出されたコーヒーをすすりながら、桂木の問いに答える。
「ええ。何かきっかけになるような出来事はなかったとは思います」
「じゃあ、たまたま好かれてしまったんですね」
まるで恋愛話のような軽さで桂木はそう言った。この程度、この男にとっては慣れっこだということなのだろうか。
桂木は生まれたときからずっと、幽霊のような、人には見えないものを見てきたのだという。
たかが一人の幽霊ごとき、俺にとっては一大事だが、桂木にとってはどうというものでもないのだろう。
桂木は一人納得したように頷くと、コーヒーの入ったカップを置いて指を組む。組んだ指の間に息を吹き込むように、おもむろに話し始めた。
「怪異に対しての基本的なスタンスは、関わらないことです。見えない、聞こえない、そこにいることを知らない、という体でいるのが一番オーソドックスな対処法になりますね」
いつの間にか、桂木のレクチャーが始まっていたらしい。俺は慌ててカップを置き、傾聴の姿勢をとる。なんたって自分の命が関わる問題だ。聞かねばなるまい。
桂木は続ける。
「見えないふりをしてもまとわりついてくる、または、相手に“見えている、気づいている”と気づかれてしまった場合は、立ち向かわず逃げるのが基本です。普通に、走ったり車使ったり自転車使ったりしてその場から逃げてください」
「逃げるって……どこに?」
「神社、お寺、自宅。それか誰でもいいから人がいるところですね。明るいところでもいいです。コンビニとか」
神社かお寺は確かに、神様が守ってくれそうで頼もしい感じがする。そして自宅とコンビニ。これも、人がいて灯りがあって、安心できそうな空間だ。
しかし、ここで一つ疑問が湧く。
「神社とかお寺なら何となくわかりますが、コンビニに逃げ込んだら、幽霊も入ってきちゃうんじゃないですか? ほら、深夜のコンビニとかって出やすそうじゃないですか」
「出るときはどこでも出ますよ。それこそ神社だろうかお寺だろうが出ます。でも、ほかに人がいたり、明るい場所にいるだけで、人は心強くなるものですから。弱っているときは何につけ影響を受けやすいので、そういった意味では効果があります」
はぁ、と力のない相槌を打つ。それを不安と取ったのか、桂木は俺を慰めるように続けた。
「自宅に逃げるのも、意外と効果がありますよ。世の中の怪談の中には家に出る幽霊も多いですが、“家に入れない霊”も多いんです。家の内と外で明確に境界線がわかれているからか、一種の結界のような作用があるんですよ。普通、人間として社会で過ごしていたら、勝手に他人の家に入ることはできません。その意識が霊になっても作用するのか、外にいる霊が勝手に家の中に入ってくることは少ないんですよ」
「それはありがたいですね! 家の中にまで入ってこられたら、もう心の休まる時間がないですよ……」
ははは、と笑うが、桂木は笑い返してはくれなかった。俺が少し安心したのを見て軽く頷くだけだ。
まるで生徒の理解度を把握して授業を進める先生のように、さっさと話しを先に進めてしまう。
こういう、気遣ってはくれるけれど、態度の端々が何となく冷淡なところが、桂木にはよくある。出会って数日程度の人間にそう気を許してくれるものではないと思うが、どうも間の取り方が独特だ。
「あとは、家族からもらったお守りとか、きちんとお参りをしている神社のお守りとか持っていませんか?」
そう言われても、俺は神社には初詣の時ぐらいしか行かない。家族にもらったお守りも、遠い昔高校受験の時に買ってもらった合格祈願のお守りだけだ。しかも実家に置いてきている。
「ないなら、吉野さんが一番効果のあると思う除霊グッズを用意しておいてください。塩とか酒とかパワーストーンとか」
「な、なんでもいいんですか!?」
それはあまりに適当すぎやしないかと思うが、桂木はそれでよいのだという。
曰く、桂木が今まで生きてきて、効いたものと効かないものの基準がはっきりしないため、結局「効くときは効く、効かないときは効かない」という解釈に落ち着いたのだという。
「塩ぶつけて逃げる幽霊もいれば、塩よりもビンタのほうが効く幽霊もいるということです。そもそも“幽霊”ばかりではありませんしね。私たちが見ているものは」
「……そうなると、とりあえず効果のありそうなものは持っていたほうがいい、ということになります?」
「ええ。効くかどうかは運次第ですが。試す価値はあるでしょうね。こういうのは結局思い込みだと思っています。塩をかければ幽霊は成仏すると思っている人間が幽霊になれば、きっとその幽霊は塩で成仏するでしょうね」
あくまで勝手な解釈ですけど、と桂木は言い添えて、組んでいた指をほどいた。
レクチャー終了の合図を見て取って、俺はぬるくなったコーヒーをすすった。ひとまず、この周辺の神社仏閣とコンビニの場所を把握しよう。そう考えながら。
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