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閑話 『見ている?』 後編

 ―  何が結界だ、思いっきり破られているじゃないか。そんな風に喚けるものならいいのに。実際の俺は悲鳴一つ上げられず、かろうじてスマホに囁きかけることしかできない。 『―――……さん、吉野さん、聞いてますか?』 「―――え?」  がさがさとスピーカーの向こうで擦れるような音が絶えず響いている。どうも通話をしながら移動しているらしい。衣擦れの音や、至近距離で息を吹きかけた時の、ぼう、という音が時折聞こえる。そして、桂木の声がその合間合間に俺に問いかける。  遠のきかけた意識を手繰り寄せ、スマホの向こうに耳を澄ませた。 『とにかく、今からそちらに向かいます。吉野さんは、可能なら外に逃げてください。―――住所言えます?』  俺は何とか最後まで住所を告げた。気を抜くと、意識が目の前の幽霊に集中してしまう。最後にフロアと部屋番号を言ったところで、そういえば三階って窓から逃げられないかな、とぼぅっと考えた。無理だろうな、外には木もないし雨どいもない。  そもそも、俺が背を向けた瞬間、この男は何をしようとするだろうか。そう思うと、目が離せない。この男から目を離してはいけない。  またしても、スピーカーから聞こえる桂木の声を聞き逃す。  なんて言っているのだろう、俺はスピーカーに耳を澄ます。いや違う。スピーカーではない。この音はスピーカーからしているのではない。 『このまま通話は繋げておいてください。……吉野さん? ちょっと、ぼーっとしないで、しっかりしてくださ』 「あのう」 『え?』  桂木の言っている言葉が耳から耳へすり抜けていく。それよりも俺は、今どうしても気になることがあった。 「今、目の前にいる男の人が、何か言ったような気が……」  通話中のスマホからではない。明らかに目の前の人物の方向から、何かがぼそぼそと聞こえた。男の背中は相変わらずピクリとも揺れないが、人がしゃべる音が聞こえるのは確かだ。何度も何度も、同じフレーズを繰り返している。  最初は低い、歯擦音ばかりが耳につく音だった。それが徐々に言葉をなしていく。 「―――……ら、…………う」  スマホからは何か音が聞こえているが、どうにも頭に入ってこない。そのくせ、男の声を聞き取るために、じっと集中して耳を澄ませてしまう。 「――…から、…て……しょう」 「――…から、…てないでしょう」  繰り返し、繰り返し発話されるフレーズ。  そのすべてが、ようやく聴きとれた。そう思った瞬間、まるで電気を消したかのように目の前が真っ暗になった。同時に、きーんという耳鳴りが両耳を襲う。今すぐ両耳を覆ってうずくまりたくなるようなひどい耳鳴りだったが、なぜか体が指一本動かない。それどころか意識が遠くなっていく。  き――――……………ん………  きぃ―――――………………ん  体感にしてほんの30秒程度だったと思う。その間、俺の視界は真っ暗で、耳は何の音も拾わなかった。  手足はまるでそこに無いかのように反応せず、熱いとも寒いとも、痛いとも気持ちいいとも感じなかった。  そんな一瞬のブラックアウトから目が覚めたとき、初めに知覚したのは手のひらを焼くようなあたたかな体温だった。 「……ん。……よ゛、しの、さん! ……しっかりしろ!」 「……!」  激しい声にびくりと身を震わせると、ようやく自分が目を開き、呼吸をし、手足に力を入れている感覚を取り戻すことができた。そしてギョッとする。  手足に感じる熱は、俺が馬乗りになってその首と頭を押さえつけている、桂木の体温だった。俺の右手はかぎ爪状に桂木の首に絡みつき、左手は桂木の長い前髪もろとも額を鷲掴みにして床に押し付けている。そして両の手で固定した桂木の頭部をまじまじと見つめているのが、俺だった。  突如この異常な状況に放り出された俺は、目の前でこちらを睨みつけ、苦痛に顔を歪ませている桂木の目をぽかんと見つめるしかなかった。  そして呆けた拍子に、尋常ではないほどの力を込めていた腕からふっと力を抜く。途端に桂木が力任せに俺の腕を引きはがした。  俺は状況が飲み込めないまま、はねのけられた腕もそのままに、自身の首をさすってゲホゲホと咳き込む桂木を呆然と見下ろした。  桂木が腹筋と腕で上体をおこす。俺は慌てて体をどけようとして、足がもつれて後ろに尻もちをついた。痛みに顔をしかめて気が付いた。俺はぼろぼろと泣いていた。 「あ? え? なに、なんで……」  泣いても泣いても涙が止まらない。なぜか意思と関係なく涙が零れ落ちてくる。止めようにも止められず、頬を顎を伝い落ちる涙を持て余して、途方に暮れた顔で桂木を見上げた。 「ゲホッ、んん゛っ……ああ、もう大丈夫みたいですね。ほら立てます?」  桂木は何度か咳き込むと、手を差し出した。俺がその手を掴むと、ふらつく体を支えながら立たせてくれた。  俺はいまだに混乱が収まらず、涙をこぼし続ける目を瞬かせた。いったい、あの一瞬の間に何があったというのだろう。いつの間に桂木は来たのか、そしてなぜ桂木の首を絞めていたのだろうか。どうして俺は泣いているのだろうか。  戸惑いを隠せないまま、桂木に問いかけた。 「な、なにが、……かつ、桂木さん一体いつこ、この部屋に?」 「覚えてないでしょうね。あなた、俺がこの部屋を訪ねてきたとき、扉を開けてくれたと思ったら、すごく嬉しそうに言ったんですよ」 『あ、桂木さん。どうぞどうぞ』 『……大丈夫なんですか? 途中で電話が切れたので心配していたんですよ』 『俺見たんです!』 『え?』 『顔、ありませんでした!』 『顔……? 何を言って、』 『顔、ありませんでした!』 「……って。ものすごい満面の笑顔で」 「………」  まったく覚えのない自身の行動に、口を開けたまま固まってしまった。自分には、桂木を出迎えた記憶も、そんなことを言った記憶もない。だいたい、言っていることが意味不明だ。いったいどうしてそんな奇天烈な発言を? 訳が分からない。  覚えている最後の記憶は、玄関先にたたずむ男の背中、そしてその男のぼそぼそと呟く不明瞭な声。何度も繰り返されるその声が徐々にはっきり聞こえるようになり、そして……。  俺は気が付いた。あの男が繰り返し言っていた言葉。それは、 「―――だから、見てないでしょう?」  そう言われて、俺はスマホを切ってふらふらと男のもとへ歩み寄ったのだ。動かそうという意識はないのに、手足が勝手に男の近くへ俺の体を運ぶ。頭は空っぽで、先ほどまで自身を支配していた恐怖も疑問もそこにはなかった。  ただ、思うことはただ一つ。  “男の顔を見なければ”。  俺は三和土に素足を降ろし、男の前へ回り込むように上半身を傾けた。  そこにはあるべきものが無く、代わりに俺が今まで見ていたものと同じものがあった。すなわち“後頭部”しかなかった。 「だから、見てないでしょう?」 「ないんだから」  後頭部だけの頭がわずかに傾き、明らかに“俺のほうを向いて”男はそう言った。  そこからは、本当の暗転である。  俺は突然、桂木を突き飛ばして玄関に走り寄った。当然あの男はいない。それから狂ったように部屋中の扉を開け、男の不在を執拗に確認して回った。桂木はそんな俺に何も言わず、俺の後ろを見張りのようについて回るだけだった。  すべての扉という扉、隙間という隙間を確認し終えて、ようやく動きを止めた。そのまま、糸が切れたようにその場に座り込む。 「大丈夫です。今この場に怪異はいません」  頭上から桂木の声が降ってきて、肩にあたたかな桂木の手の温度を感じた。その熱さに、こわばっていた体が解けていくような感覚を覚える。ようやく、安堵を感じることができた。 「……すみません。落ち着きました」  いつの間にか、涙が止まっていることに気づく。頬だけでなく、あごの下や首までも、涙が乾いて突っ張る感覚がする。どれだけ涙を流していたのか、シャツの襟までしっとりと湿っていた。  俺は腫れぼったい目元をこすり、まだ少し力の入らない足を踏ん張って立ち上がった。  そうして桂木のほうを見ると、首に浮かび上がる圧迫痕にぎくりとする。朦朧とした意識の中、桂木の頭と首を渾身の力で押さえつけてた己のことを思い出す。自分がしでかしたことをようやく理解して、さーっと血の気が引いた。 「……! すみません、俺、首を……」  とっさに桂木の襟元に手を添え、うっ血の程度や出血がないかを目で見て確かめようと顔を寄せる。視界の隅で、びくっと桂木の肩が跳ね上がったが、体を後退させたりはしなかった。引っかいてしまっていたらどうしようかと思ったが、幸いなことに蚯蚓腫れはない。額や、床に押し付けていた後頭部も触れて確かめてみたが、頭部にも傷は無いようだった。 「後頭部、痛みとかありますか? あと、首の筋を違えてたりしてませんか?」 「……ええ大丈夫です。それより、吉野さんはどこか体に変なところは?」 「俺は全然、どこも痛くないんで……」  言いながら顔を上げると、至近距離に桂木の目鼻があった。いつだったか、鼻筋通ってるなあと思ったきれいな顔が目の前にある。  先ほど桂木に怒鳴られてハッと気が付いた時も、至近距離で顔を覗き込んでいた。あの時は、しかめて歪んだ目に貫くように睨まれたが、今はその目は凪いでいる。穏やかな目に見つめ返されて、急に距離の近さを自覚した。 (やっべ。距離感バグった)  慌てて顔を背け距離をとった。怪我をしていたらどうしよう、と発作的に行動したからか、常識はずれの行動をとってしまったらしい。気まずさと恥ずかしさで顔がほんのり熱くなった。 「……先ほどまでは吉野さんに何か憑いていたようですが、今はもう、この部屋からも吉野さんからも何も感じません。まあ、もう問題ないでしょう」  挙動不審な俺に対して桂木はあえて何も触れなかった。今日の奇行をすべて怪異のせいだと思って許してくれているのかもしれない。そうだと助かる。  諸々やらかして弱り切った俺は、額に手をあてて呻いた。 「……わざわざ来てもらったのにほんと、すみません……」  いきなり呼びつけた桂木に笑顔で襲い掛かって、号泣して、首を絞めて。いったい何から詫びればいいのかもわからない。だがそれでも、詫びる以外に今できることがない。  俺はしおしおと項垂れて、桂木に深く頭を下げた。いっそこのまま頭から地面に埋まりたい。  だが桂木は、気にするなとでも言うように、俺の肩を軽く叩くのみだった。顔を上げた俺に、「仕方がない」とでも言いたげに首を振る。  ああ、許してくれるのか。そう思ってほっとしたその直後、桂木はそっけなく、くるりと踵を返した。 「もし心配だったら、玄関に塩をまくか、夜が明けたら神社にでも行ってみてください。それじゃ、俺は……」 「ちょっと待て! ……ください!」  気が付いたら桂木の服の裾を掴んでいた。桂木が足を止め、こちらを振り返る。  桂木は、もうこの部屋に怪異はいないといった。俺にも取り憑いていない、大丈夫だと請け負ってくれた。しかし、「怪異に追われたら自宅に逃げ込め」と言ったのも桂木だ。その言葉を裏切るように、男の霊は、怪異は俺の部屋に入ってきた。つまり、桂木の言うことは信用ならない。この部屋が本当に安全だとは絶対に言い切れない。そう、だから。 「…………夜ご飯でも、ご一緒にどうですか」 「…………」  正直に言おう、俺は怖い。今この状態で一人きりにされたらどうなるかわからない。いや、絶対に一人になんてなるものか。一人になったらなんて絶対考えたくない。桂木が帰るというなら無理やりにでもついていく覚悟だ。  その覚悟が伝わったのか、はたまたよほど俺が情けない面をしていたのか。桂木は一瞬の逡巡のあと、観念したように目を閉じてため息をついた。 「……ご迷惑でなければ、」  もちろんです! と言わんばかりに俺は勢いよく頷いた。  -  それから間もなく、リビングに置かれたローテーブルにささやかな宴会の準備がなされた。  玄関に放置されたままだった惣菜のパックと、炊いてあったお米、そしてビールとおつまみを並べただけだが、男の一人暮らしならばこれでも及第点だろう。  アパート一階に店を構えるいつもの惣菜店では、メインのイタリアンハンバーグに合わせて、くたくたに煮込まれたカポナータと、アンチョビとキャベツの和え物を買ってきた。ハンバーグは次の日に食べようと思っていた分も皿にとりわけ、俺と桂木の各々の前に置く。桂木はトマトベースのソースで煮込まれたハンバーグを見て、感心したように呟く。 「おいしそうですね……。どこのお店ですか? チェーン店じゃなさそうですが」 「ええ、個人でやっている総菜屋さんです。このアパートの1階に入ってるんですよ」  そういいながらビールを桂木に渡す。乾杯はさすがにする気がおきなくて、めいめいプルタブを引き中身を呷った。  桂木がビールもそこそこにハンバーグに箸をつける。柔らかくジューシーなハンバーグを頬張ると、表情は変わらないが、明らかに雰囲気がほわっと明るくなった。  俺もハンバーグを割り、盛りつけたご飯と一緒に口に運ぶ。トマトソースが酸っぱすぎず、こってりしていてご飯にとても合う。  桂木は傍らに落ちている惣菜店のビニール袋を拾い上げた。 「『ラヴェット』……。洋食屋さんですか?」 「いや、和洋中なんでもありです。今日はイタリアン系が多く残っていたのでこのチョイスです。そんな店名ですが、かぼちゃの煮物とかひじきもめっちゃおいしいです」  閉店間際にいつも買うので、日によっては残っていないものも多いのだと話す。桂木は件の惣菜店がすでに閉店時間を過ぎていることを聞き、少し残念がっていた。 「このまま泊まっていってくれれば、明日の朝、結構早い時間から開いてますよ、」 「いや、普通にこれ食べたら帰ります」 「……そ、そう言わず……」  結局この日は、俺が酔っ払い、恐怖を感じず眠れるようになったことを確認したうえで、桂木は帰っていった。  アドバイスは正直信用ならないし、俺に対する当たりもまだ強いと感じる部分はあるが、困っていたら助けに来てくれるし、こうやって面倒を見てくれる。  あの日、俺を「守る」といった言葉を忠実に守ってくれているのだろう。そうやって約束を守ろうとしてくれる、律儀なところのある人だ。まだよくわからない部分も多いけれど、その律義さだけで、信頼に足る人間だと思える。  朦朧とした意識の中、桂木が新聞受けに鍵を落とす、かちゃん、という音を聞いた。今度ここの惣菜を差し入れに持っていったら喜んでくれるだろうか。探偵事務所のテーブルで惣菜を広げ、イタリアンハンバーグを食べる桂木を思い浮かべながら、俺はすこんと深い眠りに落ちた。 閑話 『見ている?』  終了

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