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FILE 02:鳥の夢告

   ―――長くこの野辺に住まう老女に聞きたりしこと、  いわく、この野辺のものはみな、死んだのち羽山へ登り姿を鳥にかえると云う。  その山の頂より野辺をひろく見渡し、  年に二度、生まれの家へとやってきては、鳥の姿でその家の軒にて一晩を過ごす。  そうしていつしか山の神へなりて、鳥の姿も消え、家にも来なくなるのだと云う。  それを野辺ではかみさんになったと云い表すなり。  しかし家人恋しさに鳥を追うことはならぬと云う。  追えば二度と山から戻らぬ人となり、鳥にも神にも生れぬと云う。  前ヶ崎大学民俗学研究会[編]  [昭和]45年度;第15巻3章『野辺に住まう人』より -  ―――……で、間もなく梅雨入りが発表される模様で……―。  聞くともなしにつけていたFMラジオからは、昼過ぎの天気予報が流れていた。夏も顔負けのじりじり照り付けるような日差しと、時折思い出したようにやってくる寒気が入り混じり、いつの間にか雨と湿気の季節になだれ込む。  俺、吉野忠幸が捜査二課特殊捜査支援班に異動になってから、早くもひと月が経とうとしていた。  異動早々に関わることになった事件が解決してからこっち、支援班にはまだ新たな調査依頼は舞い込んでいない。  では毎日安穏とした日々を過ごしているのかというと、そうではない。ひと月前の事件で後遺症……のようなものを負った俺は、これまでとあり方を変えた世界に順応するのに精いっぱいだった。  件の後遺症の主たる症状は二つ。一つは、幽霊や物の怪の類―――総じて支援班では、怪異と呼んでいる―――が見えること。もう一つは、その怪異からなにかと影響されやすくなったり、目をつけられたりされやすくなること。二つ目に関しては、もっと簡単に言えば、怪異に襲われやすくなったということになる。  前者の症状はこの一か月でだいぶ慣れた。町中にそう突飛な姿の怪異があまり存在しないおかげでもある。たまに普通の人間かと思ったらそうではなくて、心臓が縮むような思いをすることがあるが。  後者のほうは……めったには起きないが、ぼちぼちある、と言ったところだ。チンピラに絡まれる程度のモノからこちらが昏倒するものまであったが、今のところ大事には至っていない。  それもこれも、桂木の助力によるところが大きい。実際、一度俺の家に怪異が侵入してきたときには危ういところで助けてもらった。  桂木とはあの事件の後から何度か顔を合わせている。  もっぱら俺の怪異相談であることが多かったが、支援班での捜査について、前原・浦賀も含めた連携の確認や、過去事例の話を聞かせてもらうなど、仕事の面でも何度か会う機会があった。  そういった機会を経て知ることができたが、桂木はとても有能な人間だった。過去の事件の話を聞いていると、常に冷静で客観的な視点を持ち、素早い判断と行動力が備わっている人物なのだと実感した。  過去に桂木と組んでいた前原は、そうした桂木のフォローのため、柔軟に状況に対応することを専らとしていた。  前原も桂木も、優秀な人物である。その後継として選んでもらったのだから、何とか食らいついて功績を上げねばなるまい。  こうして桂木の仕事ぶりを知っていくにつれ、俺は前原だけでなく、桂木も尊敬すべき人物として見るようになっていた。  とはいえ、俺にとって桂木は前原と比べ、まだまだ未知の存在であることは変わりない。  最初に会った時のように、鼻先で心の扉をぴしゃんと閉められるようなことはないが、相変わらず桂木は何を思っているのか掴めないところがある。  目は口程に物を言う、というが、桂木はまずその目が伺えない。長い前髪がもっさりと顔の上半分を隠し、唯一見える鼻と口元だけでは、普段笑わない桂木の感情を推し量ることは難しい。髪の毛の隙間からその目が現れることがあっても、大抵どんよりとした半眼である。  そのくせ、桂木が何かをひたと見つめるときは、瞳が光をはらんで強い眼光を放つ。また、ひとたび前髪を上げてしまえば、その下の素顔が意外に男前なのを知っている。  桂木はそんな謎めいた男であるが、前原はさすが元コンビというか、桂木の些細な動作から心情を察しているらしく、会話もツーカー、二人の間には一緒に仕事をする者同士の心地よい間合いがある。会ってひと月の俺には到底無理な芸当だ。  そんな前原は、今のところ俺のバックアップや事務作業をメインに動いている。どうやら痛めていた腰が本格的に悪化してきたらしく、長時間の立ち仕事はドクターストップがかかっているらしい。根っからの現場叩き上げである前原は、外に出られないことにブツブツ文句を言いながら、おとなしく内勤にいそしむ日々だ。  浦賀はそんな前原の機嫌の悪さなどお構いなしに、どうでもいい話題を前原に振っては、つれなくされている。不機嫌な上司に能天気な話題を無遠慮に投げられるあたり、大した神経の図太さだ。  今日はそんな前原と浦賀のために、たまたま桂木に用があって外出していた俺が、駅前で弁当を調達してくる役割を仰せつかっていた。  前原が現役のころはほとんど外で適当に済ませていたらしいが、ここ最近の内勤で、一番近い場所にあるコンビニの弁当は飽きてしまったらしい。  ちらり、と車載のデジタル時計に目を走らせる。そろそろ時刻は1時だ。前原たちがお待ちかねだろう。  俺は職員用駐車場へ進入すると、所定の場所に車を止めた。助手席から弁当の入った袋を持ち上げるとき、ふわっと白米の香りがして、俺の腹もぐぅと鳴った。  足早にエントランスの自動ドアをくぐると、受付前の待合室の中にちらほらと人影がある。窓口で何かを話し込む人、椅子に座っている人、立ったまま何かを見つめている人。実はこの中にも怪異が紛れている。一番奥の椅子に座っている男性がそうだ。 (特に害のある幽霊じゃなきゃ、慣れたもんだな)  この怪異はいわゆる幽霊というやつで、生きている人とまったく同じ外見をしている。いつもうつむいて同じ席に座っており、絶対に誰かと目を合わせたりしない。じっとそこに存在するだけで、身じろぎもしないし声を発したりもしない。  だから俺も、そうと知ってからはあまりびくびくすることなく、待合室を素通りしていた。  ただ不思議と、その男の座っているところにほかの誰かが座っているところだけは見たことがなかった。  もし待合室が満席になって、その男が座っている席に誰かが座ったら……そう思うときがあるが、幸いなところ、この待合室が満席になることはない。平和で何より。  廊下をグネグネと進み、捜査二課の騒がしい大部屋も通り過ぎ、建物の果てにある支援班専用の小部屋にたどり着く。最近気が付いたことだが、この部屋には、部屋の名前が書かれているはずの札がない。正確には、札はあるが何も書かれていない。つるんとクリーム色の札が扉についているだけだ。他の部屋には、この札に部屋の名前が記されている。いったい、この名前のない部屋に出入りする人間のことを、他の班や課の人物はどう思っているのだろうか。  ただいま戻りました、そう言いながら扉を開けたが、俺の声に答えるものは誰もいない。部屋の中は空っぽで、そこにいるはずの浦賀も前原もいなかった。トイレにでも行っているのだろうか。  自分に割り当てられたデスクに弁当の袋を下ろすと、ちょうど対面の位置にあるホワイトボードが目に入る。  その表面に紙が一枚、マグネットで留められているのを見て、俺の目線はそれ吸い寄せられた。 「……もどりましたー。あれ、吉野さん、お帰りなさい」  扉が開く音とともに、浦賀がのんびりと部屋に入ってくる。手には缶コーヒーが握られていた。  俺は振り返り、浦賀に尋ねる。 「お疲れ。前原さんは?」 「あ、前原さんは……」 「なんだよ、扉の前で立ち往生してちゃ邪魔だろうが……。お、戻ったか吉野」  答えるより早く、前原がブルドーザーのごとく浦賀を押しのけて部屋に入ってきた。浦賀は「も~なんすか」と文句を垂れながら、前原の後に付き従う。  そして二人はようやく、俺が何か言いたげにずっとそこにたたずんでいることに気が付いた。前原がひょいと片眉を上げて、無言で俺のそばに歩み寄ってくる。  俺も無言で、ホワイトボードに目線を移す。前原はそれだけの動きで、俺が何を言わんとしているか察してくれた。はは、と笑い交じりのため息をつく。 「やれやれ、便所に行くほんの2,3分前までは何も無かったんだがな……一瞬の犯行ってか」 「……うーわ。俺、前原さんがトイレ行ったあとコーヒー買いに行ったんすけど?」  自分のデスクに座った浦賀がげんなりした表情をする。俺も同じ気分だった。いったいどうやって、部屋に誰もいなくなる一瞬のタイミングを知ることができたというのか。この部屋に監視カメラでもついているのか? 考えてからさもありそうな話だと思った。  前原がホワイトボードに歩み寄り、マグネットを外して紙を手に取る。そして軽く目を通すと、くるりと振り返って俺にその紙を押し付けた。いたずらっぽい瞳が俺を見つめている。 「ここ最近暇だったから、良かったな吉野。調査要請だ」  どっ、と一度大きく心臓が波打った。心臓の鼓動に合わせて、緊張と不安と少しの高揚感が指先までを走り抜ける。  また事件の捜査が始まる。普通の捜査ではない、怪異の関与とその真相を探るための捜査が。 「おっ、前原さんお弁当どれがいいっすか? 俺はロコモコがいいっすね~」 「ロコモコ? 俺は鮭弁当がいい。それはお前が食え」 「どもです! 吉野さんもそれでいいっすか?」 「え? ああ、なんでも……」  浦賀と前原の会話に俺は上の空で返事をした。意識はもう、手の中の一枚の紙にしか向いていなかった。  各々が目当ての弁当を持ち去り、残った弁当の乗ったデスクに腰かける。そして中身も確認せず中身を突っつきながら、俺は指示書の詳細を読み込むことに専念した。 -

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