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02
つやつやに炊かれたお米を咀嚼しながら指示書の内容もじっくり咀嚼する。今回、要請が来たのは傷害事件だった。
前回のような殺傷事件ほど大きな事件ではないが、どうやらその傷害事件のほかにも野辺町では不穏な事件が起きているらしく、それらの事件に“怪異”による関与の疑いありとのことで、支援班にお声がかかったのだそうだ。
俺はさっそく、スマホで桂木の番号を呼び出す。調査要請が入ってまずすることは、事件情報の入手と引継ぎ。そして桂木への連絡だ。
呼び出し音もそこそこに、桂木が電話口に出る。
「―――あ、桂木さん。先ほどはどうも。吉野です」
『ああ……どうも。どうしました?』
まるで寝起きのようなかすれた声だが、桂木は先ほどまで俺の訪問を受けていたし、これが地声なのだと思う。
俺は手早く、調査要請が入ったこと、ついてはいつから捜査が可能かを尋ねた。
「俺はこの後捜査情報の引継ぎがあるので、今すぐには難しいですが、夜には体が空きます。桂木さんはどうです?」
『俺はいつでも。しかし、住宅街で聞き込みをすることを想定すれば、聞き込みは明日の朝からというのが理想でしょうか』
「わかりました。じゃあ、浦賀さんに行ってデータを……」
桂木との打ち合わせは、今日の夜に桂木の事務所で行うこととなった。そこで明日の段取り諸々を決めるのである。それまでに俺は、被疑者の調書や事件記録を入手し、事件の情報を整理することになる。情報の提供先は指示書に記載してあった。傷害事件の犯人の少年に事情聴取を行った刑事とはすでに話をつけているらしい。今日の昼過ぎ、つまりこの後すぐ、話を聞きに行くようにとのことだった。
俺は通話を切ると、いつの間にかきれいに空っぽになった弁当の容器をまとめ、席を立った。
「浦賀、飯食ったら桂木さんに、この指示書にある記録送っておいてもらえるか」
「わっかりました! ところで吉野さん、このロコモコうまいっすね~。どうでした、生姜焼き弁当は?」
「ああー……、美味しかった、かな?」
そうか、さっきのは生姜焼き弁当だったか。資料に夢中で自分が何を食べているかまったく気にしていなかった。……少しもったいないことをした気がする。
俺はあいまいに返事をぼかすと、足早に支援室を飛び出した。その背中を、前原が満足そうに見ていることには気が付かなかった。
-
夜。ビルの踊り場を照らす安っぽい照明の下、どこか怪しげな雰囲気を醸し出す桂木探偵事務所の扉の前に俺はいた。
手には、退署ついでに買ってきた弁当の入った袋が二つ。食事時にお邪魔するにあたって、悩んだ末の配慮の結果だ。俺はインターホンを押し、中からかすかに応答があるのを確認すると、その日2度目となる桂木探偵事務所の扉をくぐった。
「こんばんは、お疲れ様です」
そっと室内に入った俺を出迎えたのは、部屋の暗がりからぬっと現れた桂木だった。一瞬、この事務所に時たま出没する女の幽霊かと思い、大げさに肩をびくつかせてしまった。情けない悲鳴はもれなかったものの、薄暗い室内でもはっきりと俺が床から3センチほど飛び上がったのはよくわかったらしい。桂木と思しき人影が済まなそうに謝った。
「すみません、驚かせて。……あ」
桂木の目線が俺の手元に留まった。俺は気を取り直し、袋を掲げて見せる。
「ええっと、こんな時間になってしまったので夕飯を……。桂木さんの分も買ってきましたが、良ければ」
「ありがたいです。これから作るのも億劫だったもので」
桂木がこういった食べ物の差し入れに抵抗のない人で良かった。少しほっとしながら袋をテーブルに下ろす。いまだにその人となりを掴めていない桂木だが、こうした折々の交流で、その性格や嗜好がほんの少し垣間見える。
俺は弁当を置いたその横に、今日の午後に聞いた情報をまとめた資料もまとめて広げた。
テーブルのセッティングが終わって体を起こすと、鼻先をスッと緑茶のいい香りがくすぐる。いつの間にか、桂木がお茶を入れてくれたらしい。マグカップをテーブルに置くと、そこに置かれた弁当の袋と資料を見比べて、「……食べながらでもかまいませんか?」と尋ねられる。もちろん問題ない。俺も腹はぺこぺこだ。
そういうわけで、俺と桂木は書類を広げながら対面で弁当をつつくこととなった。
「……あれ、このお店、吉野さんのアパートのところの総菜屋さんですか?」
「ええ。俺のアパートはここに来る途中に寄れるので、ついでに買ってきました」
以前、俺が怪異に襲われてアパートでぶっ倒れたとき、一人になるのは怖いからと桂木を引き留め、半ば無理やり夕食に誘った。その時、このアパートに居抜きで入っている惣菜店のおかずを出したのだが、桂木はずいぶんその惣菜を気に入っていた。それを覚えていたので、ついでだからと購入してきたのだ。
先日はイタリアン系統のメニューだったが、今日は和食がメインだ。いただきます、と礼をしてから早速切干大根に箸をつける。ほんのり甘くておいしい。向かいにいる桂木も、煮物に入っていたがんもどきを静かに味わっていた。
「……それで、今日の首尾はどうでした?」
「……っはい。傷害を起こした男子高校生について詳しく聞いてきました。桂木さんに送ったデータと一部重複しますけど、最初から説明しますね、」
俺は口内の食べ物をごくりと飲み込むと、傍らの資料を片手に今回の事件の概要を話し始めた。
「まずは傷害事件について。事件が起きたのは、野辺町の住宅街。被疑者は志倉直輝、この町の出身の17歳の男子高校生です。被害者は近所に住んでいる50代の夫婦二人と、これも近所に住んでいる30代の男性会社員、そして被疑者の母親の由香の4人です」
事件が起きたのは朝の7時台、通勤・通学で家を出る人たちで住宅街が一時の賑わいを見せるときのことだった。被疑者である志倉直樹が登校のために家を出た直後、志倉家のはす向かいに住まう東野ふみ江という主婦が、花壇への水やりのために、同じく家の外に出てきた。彼女が、被害者である夫婦の妻のほうである。
直輝はふみ江を見ると、いきなり自身のカバンをあさり、たまたま持ち合わせていた彫刻刀を取り出してふみ江に襲い掛かった。ふみ江の上げた悲鳴を聞き付けて、ふみ江の夫である義房が家の中から出てくるが、暴れる直輝を彼一人では抑えきれない。そこに、出社しようと家を出た会社員、西城光紀が事態を発見し、義房に加勢した。
加勢はそれだけでは終わらなかった。さらにそのすぐ後に、家の前の騒ぎを聞きつけた直輝の母親・由香も止めに入り、義房、西城、由香の三人がかりでようやく直輝を押さえつけることができた。
なおも暴れようとする直輝を義房と西城が馬乗りになって押さえつけ、由香が警察へ通報した。すぐに最寄りの交番から警察官が派遣され、明らかな傷害の現行犯として、直輝はその場で逮捕された。
母親の由香は数か所の切り傷を負い、義房は手のひらと顔への切傷、西城は腕への切傷と打撲程度で済んだが、ふみ江の傷が最もひどかった。
逃げるふみ江を追いかけて、直輝は彫刻刀を何度も突き刺し、殴る、蹴るなどの暴行も加えた。顔をかばうための腕には無数の切り傷が刻まれ、最もひどいもので全治3週間ということだった。今もふみ江は入院を余儀なくされている。
「……まあこれだけなら、ただの傷害事件なのですが」
残念ながら、このくらいの事件は今の日本にありふれている。突然キレる若者……という煽り文句も、すでに真新しいものではなくなっている昨今だ。
「問題になっているのは、その本人の証言なんです」
逮捕され、すぐさま最寄りの警察署に連れていかれた直輝は、警察の取り調べに対して不可解な証言をしていた。
曰く、「東野さんを襲った覚えはない」「襲われたから応戦のために彫刻刀をだした」「あれは東野さんではなかったし、知っている人はあの時周りにいなかった」。
これらは事件調書として書面に書き留められていたものだ。細かいニュアンスを省き、事務的に記録された文章は、詳細が不明なうえ、そこはかとなく不気味さを感じさせる。俺は指示書にあったとおり、実際に取り調べを担当した刑事に直接話を聞いた。
俺はその時の刑事と交わした不穏なやり取りを桂木に話して聞かせた。
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