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その警察官は、どこか気まずそうに目線を左へそらすと、口を開いた。
『―――ずっと、何もない天井や壁をきょろきょろ見て、そこから人が出てくるわけでもないのに、まるで見張ってでもいるみたいでした』
直輝は始終そんな様子で、何かにおびえていたらしい。なぜそう怯えるのかと聞くと、直輝はこう証言したという。
『どうもねぇ……夢の中に、知らない爺さんばあさんが出てきて、ひたすら「山へ行け、山へ行け」と責め立てるんだそうですよ。それはもう執拗に続いて、だからずっと眠れないんだって、言ってましたねぇ』
ドラッグでもやってたのかなあ、と呟いて、彼は複雑な表情で続ける。
『それで襲った理由というのが、夢で見たばあさんが自分に向かって襲い掛かってきたから応戦したんだ、と言うんですね。あなたが切り付けたのは、ご近所の東野さんの奥さんですよ、と言うと、そんなわけないと恐ろしい勢いで食って掛かられました』
『……彼は襲った相手が東野さんだと気が付かなかったと?』
『ええ。それに、止めに入った東野さんの旦那さんも、会社員の人も、自分のお母さんのことも、みんな「夢に出てきたやつら」だったと言ってました』
やれやれと呆れたように笑う彼だったが、微妙に口の端がひきつっていた。その目の奥に、拭い去れない不安のようなものが垣間見える。
『多分薬物だとは思いますがね。……それにしても、眠れなかったのは本当だろうなあ。その夢が怖くて、ずっと眠っていないと言っていましてね、顔色がもう土気色で、隈がものすごくて。幽鬼とかいうんですか? そんな有様でした』
「夢……。山へ行けですか」
夢のくだりで桂木は空中で箸を止め、じっと俺の話に聞き入っていた。話がひと段落すると、ぽつりと呟いて考え込むように視線を落とす。
俺はサバの塩焼きを頬張りながら、不明瞭な声で、はい、と返事をする。じゅんわり広がったサバの脂を味わい、ごくりと嚥下すると、手元の資料をめくる。
「直輝の薬物検査の結果ですが、結局反応は出なかったらしいです。現行犯なのでこのまま送致はされるでしょうが……まあそちらは置いておきまして。実は傷害事件だけが支援班の調査範囲ではないんです」
そう、傷害事件の犯人が不可解な証言をした、というだけでは、支援班が動く根拠として薄すぎる。
「実は、野辺町周辺ではここ最近、行方不明事件が頻繁に起きているんです。今回起きた傷害事件は、その行方不明事件との関連が疑われています」
野辺町では現在、町人の行方不明事件が多発している。一つ一つはとても小規模な事件で、行方不明になった人は全員1~3日程度で見つかっており、目だった外傷もない。
「確か、今月の中旬ごろにニュースになっていましたね」
「ええ。とはいえ全員すぐに見つかっていますから、あまり大々的に報道はされませんでしたが」
ただの家出にしか見えないこの事件の異様な点は、その異常なほどの頻度と、失踪人に共通するとある特徴だ。
行方不明事件は今月に入ってから始まり、その件数は、6月も後半に差し掛かった今の時点ですでに6件に達していた。
最初の事件が起きたのは8日で、今日は21日。この2週間たらずで、しかもこんな狭い町内に限定して、6人もの人間が行方不明になるというのはあまりに異常だ。しかも、失踪した当人たちは全員、この土地出身のものだという。外部からの移住者もいる中で、さらに条件が絞られているわけだ。
そしてこの事件に見られる共通点は、行方不明者の出身・居住地の他にもまだある。それは、彼らが発見される場所と、その当人たちの証言だった。
「彼らはみな、野辺町のはずれにある羽山の近くで見つかっています。羽山から下りてくるところを保護されたり、山のすぐそばの道路にぼーっと立っているところを発見されたり。羽山へは町からの山道も完備されているのですが、特に観光に力を入れているわけでもないので、あまり人が立ち入る山ではないそうです。ですから、今のところ行方不明者たちを山中で見たという人はいません。ただ、行方不明者のうち数名は「羽山へ行っていた」と証言しています」
そしてもう一つの共通点、それは、行方不明になった者の多くが、同じような“夢”を見たと言っているのだ。
夢、というワードを聞き、桂木がふと顔を上げた。その拍子に前髪揺らぎ、その奥の瞳がちかりと光る。
「その夢に出てくるのは、複数人の年を取った男女だそうです。彼らは夢を見ている本人に対し、山へ行くようにと命令するのだそうです。行方不明者の全員ではありませんが、何名かは同様の夢を見ていました」
「また、どうやら彼らは夢を見たまま、又は夢から覚めた直後、家を抜け出して山へ向かったものと思われます。ここは人によって証言がまちまちです。山をさまよっている間も、自分は夢を見ているのだと思っていた人もいましたし、夢から覚めたことは確実に覚えているが、そのあとの記憶がはっきりせず、気が付けば朦朧とした意識の中、山をさまよっていたという人も。……それから、」
思わずそこで言葉を切ってしまった。支援班に来る調査なのだから、“この世ならざる者”との邂逅は必須だ。そうわかってはいるものの、いやな予感しかしない。俺はあきらめて口を開く。
「山の中で何かを見たと言って、ひどく怯えていた人もいたそうです。この証言をしている人物は2人いますが、どちらもひどい錯乱状態で、現在も精神科に入院しています」
「なるほど……」
俺は一息つき、残りの揚げ物を丸ごと口へ放り込む。芋の優しい味わいのコロッケは小ぶりで、ソースとよく合う。
不穏な事件を語るのと同じ口で、俺はきっちり食べ物のおいしさを味わうことができる。皮肉なことだが、それだけ神経が図太いということだと思う。日夜、人の暗部と向き合ってばかりいる刑事としては、利点かもしれない。
そんなことを思いながら残り僅かの白米も合わせて頬張って、俺は弁当を完食した。
向かいに座っている桂木もほぼ食べ終わり、残った漬物をぽりぽりと咀嚼する音が小気味よく響く。
ごちそうさま、と手を合わせると無言で桂木もそれにならった。
弁当の容器を手早くまとめていると、お茶をすすった桂木が唐突に先ほどの話を再開した。
「当然、薬物の検査も済んでいるんですよね」
「入院した2人に関してはきっちりシロと結果が出ています。ほかの行方不明者はそこまで深く調べられていなかったみたいです。まあ、個々人の証言だけを聞けば、事件性は薄そうに見えますし」
最初は、それぞれの行方不明事件を結び付けて考えてはいなかった。だから、いなくなった当人が見つかった時点で、警察が関与することはなくなっており、詳細な調査がなされることもなかった。ごく一般的な家出として片付けられていたのである。
桂木はふむ、と指先を口元へもっていく。俺は出された茶を飲んでお腹を落ち着けながら、桂木の発言を見守った。
しばらくすると、桂木は唐突に顔を上げて言った。
「羽山信仰って、知ってます?」
「はい? ハヤマシンコウ?」
急に出てきた単語に思わずおうむ返しに聞き返してしまった。
桂木はおもむろにスマホを取り出し、たぷたぷと操作する。目線は手元に落としながら桂木は続けた。
「羽山信仰というのは、祖霊信仰のひとつの形なんですが……。簡単に言うと、家族の誰かが死んだら、その霊は山へ登り、生きている子孫を見守り続ける、という信仰ですね。」
またわからない単語が出てきた、と頭をひねる俺を見て、桂木がかみ砕いた説明をしてくれる。しかしそれでも、
俺にはその“羽山信仰”がピンとこなかった。先祖はみな墓に入るものではないのだろうか。いや、でもそんなこと言ったら、仏壇にもいる……よな?
なんだかこんがらがってきた俺の鼻先に、桂木がスマホを突き出した。そこには、細かい文字がびっしりと並んだ古臭いwebサイトが表示されている。ページの最上部には、『野辺町いまむかし』という縦長に伸びたロゴがあった。
なおも鼻の前に突き出されるスマホを受け取ってスクロールしていく。どうやらこのサイトは、野辺町の町役場が作成した観光用のwebサイトらしい。悪い意味で歴史を感じるデザインといい、内容のニッチさといい、きっと何年も前に作ったまま放置されているにちがいない。
背景に大きく表示されているのは、粗い画像の山の写真だった。これが羽山なのだろう。
「先祖の霊が山から子孫を見守るという考え方は各地で見られますから、野辺町もその一つでしょう。先祖の霊は時を経るにつれて、その山を守る神様になっていくのだそうです。徐々に個々をなくして、子孫が住む“野辺町”を見守る存在になるという。……ええと、そのページの終わりあたりに記載があります」
「え、どれです?」
字が細かすぎるし、ページが上下だけでなく左右にもスクロールするせいで迷ってしまった。桂木がテーブルに乗り出してスマホを覗き込む。指先でページを手繰ると、『羽山信仰』という見出しが滑り降りてくる。「ここです」と桂木が言った。
俺は感心したように言った。
「桂木さん、詳しいですね。こういうの調べるの好きなんですか? それとも仕事で?」
なんの気なしに放った問いかけだった。だがスマホから顔を上げた俺が見たのは、すぐそばにあったはずの桂木の顔がそっけなくそらされる瞬間だった。ふいとそっぽを向いて、元の座っていたソファに腰を落ち着ける。
「町史やなんかを見る機会があったので……。そのサイト、見ておいたほうがいいかと思います。今回の件には羽山が関わっていそうですし」
「……あー、はい。そうします」
触れてはいけない話題に触れてしまった時のような、チリっとした焦燥感を感じた。桂木自身の態度は平静そのものに見える。では何がそう思わせたのか、それは俺にもわからない。
ただ何となく、瞬間的に桂木の体表面温度が下がったような、そんな感覚を覚えた。
桂木は何事もなかったかのように淡々と話を進める。俺も気を取り直して、仕事の話に専念することにした。
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