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アパートを後にし、少し遠いところにある駐車場に向かいながら、俺はうん、と背伸びをした。これで、一応すべての行方不明者のもとに聞き込みはかけられた。入院している二人に関しては本人の談を聞けていないが、これで一通りすべてのケースの情報がそろったことになる。
空は早くも赤くなりつつある。これから桂木と情報の整理をして、それで今日の捜査は終わりになるだろう。
慣れない聞き込みを連続でこなしたせいか、体を動かした時とはまた違う奇妙な疲労感がべっとりと体にこびりついている。ぐるぐると首と肩を回し、さて、これからどうしようかと桂木を振り返った時である。
緩やかにカーブして続くその道の上に、先ほどまで一緒にいたはずの桂木はいなかった。
「……え?」
さわっ、と首の産毛がそそけ立つ。桂木はいない、その代わりに、そこには一人分の人影がたたずんでいた。
まるで木の枝のように細った黒い人影だった。肌の色が……いや、そこに肌などないのかもしれない。表面は黒ともこげ茶色ともつかない色をしているが、頭部と手足があるその影は、かろうじて人のものに見える。
怪異だ。そう思ったところで、まったく無防備な状態だった俺はとっさのことにどうすることもできない。
怪異の体が、ゆら、と揺れた。途端にスイッチが入ったように、俺の体が動き出す。回れ右をして、走り出した―――と、そう思っていた。
「―――っ!?」
片方の足首を何かに引っ張られ、勢いよく地面に倒れ伏した。なんとか両手をついて顔面激突はまぬがれるも、片足はなおもすさまじい勢いで引かれ、ずるずると体が後ろに滑っていく。
焦って振り向くと、あの小枝のような怪異の腕がにゅるりと伸び、これも小枝のような指が、俺の足首に絡みついていた。
「いっ……! くそっ、」
「……して、……か………して………」
悪態をついた俺の耳に、目の前の怪異が呟いた何事かが聞こえてくる。しかし、必死にもがいている俺はそれを気にする余裕もない。腕で懸命に這いずろうとするが、それよりも強靭な力でずる、ずるる、と体が怪異のほうへ引き寄せられていく。
とうとう怪異のもう片方の手が、俺の太ももをがっしりと捕まえる。両手で引きずられる力にはあらがえず、一気にずるるるっ、と怪異のもとへ引き寄せられた。
「えして、やま……かえ…て」
「うあ、……くそ、離せ、っこのやろ」
怪異の頭部が徐々に俺の上にかがみこんでくる。それにつれて、怪異のぼそぼそという声が近づいてくる。
その声の中にふと、何か引っかかるものを覚えた。
「……山へ、かえして、かえして……」
「お前、何を……んっ、ぐ、ぇ!?」
思わず、怪異が相手だというのに問いかけようとして、のし……と背中の真ん中に乗せられた重みに呻く。怪異の体が乗り上げて、俺に言い聞かせるように耳元でささやく。
背中にかかる重さはそれほどではないのに、なぜか体が動かない。これはまずいかもしれない、と嫌な冷汗がにじみ始めたときだった。
ほとんどコンクリートしか映らない視界の隅に、こちらに向かって走ってくる靴が見えた。あっという間に近づいてきたその足は、俺の頭上に影を作ったと思ったら、すさまじい衝撃音とともに俺の背中に馬乗りになった怪異を蹴りぬいた。
「―――っ!」
髪の毛を掠るように通過していった足に首をすくめ、突如軽くなった体を仰向けに起こす。見上げた横には、足を振り上げたままの桂木、そして道路の向こう側には無残に転がる怪異。
桂木は以前、怪異には触れることのできるもの、できないものがあると言っていた。ものによっては人のように、殴って痛がる怪異もいる、とも。
その実例を目の前で見せつけられ、恐怖とも呆れともつかない思いでその光景を見つめた。
折れた流木のようになった怪異が、もぞり、と動く。再度襲ってくると思い、慌てて立ち上がったが、それが再び向かってくることはなかった。
―――ぎゃあ、……ぎゃあぎゃあ
もぞもぞと蠢く人影は、驚くべきことに目の前で複数羽の鳥の姿に変わった。まるでその体のパーツが、果実のようにもげて落ち、その一つ一つが鳥へと変わり、騒々しく空へ羽ばたいていく。
その軌跡を目で追い、―――そして愕然とした。
ぎゃあ、ぎゃあ…………
ぎゃあぎゃあ――――
……ぎぃ、ぎゃあ―――
家の屋根に、電柱に、木の上に、びっしりと黒い鳥が並んで、こちらを見下ろしていた。
スズメやムクドリなんかではない。多分カラスだ。カラスがこんなに群れをなし、まるで獲物を狩るときのようにこちらをじっと見下ろしている。
「……吉野さん、」
「……はい」
何を言わんとしているかはわかりすぎるほどわかった。二人並んで、じりじりとその場を後退していく。一歩ごとに冷汗がにじむようだった。襲い掛かられたらどうしよう、そんな最悪な想像とは裏腹に、カラスたちはこちらをじっと見つめたまま、その場を動かない。
ゆっくり、ゆっくり離れて―――道の角まで後退したその瞬間、桂木に腕をとられて走り出した。尻尾を巻いて逃げ出す俺たちを追いかけるように、ぎゃあぎゃあという声だけはいつまでも鳴り響いていた。
駐車場にたどり着くと、桂木は当然のように俺からキーを奪い、運転席側に回った。
問うように見上げるが、桂木は有無を言わせず俺を助手席に押し込む。シートに滑り込んで気が付いた。手が震えている。顔の前に持ち上げると、指の先まで真っ白で、小刻みに震えているのがわかった。
ばむ、と桂木が車の扉を閉める。まごまごとシートベルトを締めるとともに車は急発進した。
あの一角から離れるようにしばらく車で走り続け、もうすぐ町から出るというところにある大型のホームセンターに車を乗り入れた。広い駐車場の片隅に車を止める。そこでようやく、俺は人心地つけた気がした。桂木もそれは同じだったらしい。エンジンを止めると、頭上を仰ぎ長い長いため息をついた。
「……なんですか、アレ。鳥? ほんと、いきなり何だって……」
「吉野さん、手、出してください」
俺のつぶやきなど聞こえていなかったように桂木が言う。そして、俺に向かって手を差し出した。
急に何を言い出すのかと困惑して、しばらくその手をじっと見つめる。しかし、桂木が早くしろとばかりに手の平を上下させるので、しぶしぶその上に俺の手を差し出した。
さらりと乾いていて熱い手の平だった。前にこの手に触れたときと同じく、とても熱い手。少しかさついた指が俺の手を包み、とっさに手を引きかけたが、ぎゅっと握る桂木の指に捕らえられて、逆にグイと腕ごと引っ張られた。
「ちょ、ちょっと何……」
「冷たい」
なんだなんだ、と思っている間に桂木の体が迫り、思わず、何を思ったのかぎゅっと目を瞑ってしまった。桂木は体を乗り出し、俺の反対側の手もしっかりととらえると、ゆっくりと前のほうへ持ってくる。そろそろと瞼を開くと、桂木の両手が、俺の両手を挟んで温めているところだった。
(あ、……あったかい)
手の甲の薄い皮膚がじんわりと溶け出すように熱くなり、その熱が徐々に指先に飛び火していく。
凍っていた血液が解けていくように、じわじわと手から腕に、桂木の体温の移った血液が巡っていく。
その感覚に集中していると、いつの間にか冷汗も、震えも、収まっていった。
最後に、すくんでいた肩から力が抜けると、桂木はそっと俺の手を開放した。
そっと、桂木の顔と体も離れていく。その様子を目で追っている自分がいた。
「落ち着いたようで良かったです。もう気分は悪くありませんか?」
「…………え? ……あっはい、」
ぱち、と目が覚めたように我に返る。今のは何だったのだろうか。分からないがなんだかすごく恥ずかしい。
だが、先ほどまでの嫌な気分はまったくと言っていいほど残っていない。どういう原理かわからないが、桂木の体温を感じていると、不思議と不快感や不安感が消えていくのがわかった。きっと桂木は、俺を気づかってあんなことをしてくれたのだろう。気恥ずかしさもあったが、小さく「ありがとうございます」と伝えた。
車のフロントガラスを見つめた桂木が、答えるように少しだけ頷いたように見えた。
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