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 時刻は午後15時を回ったところ。まだまだ日は高く、山を探索するのに時間は十分あるように思えた。よしんば今日ですべてが終わらなくとも、明日また行けばいい。  山のふもとに車を止めるスペースを見つけ、そこでエンジンを切る。念のため現在位置を浦賀に送信すると、俺はスマホから顔を上げた。  桂木は、助手席から二人分のスコップを取り出している。最寄りの派出所の備品を拝借してきたものだ。刃先が剣先型で、アルミの取っ手が尻についている。受け取ると、1キロあるか無いかという重さがずしりと手に伝わった。体力に自信はあるが、スーツでこれを担ぎ、山道を登るのは少々骨が折れる。  山道と言っても、そんなに険しいものではない。舗装こそされていないが、足元は雑草もまばらで歩きやすい。傾斜もそれほどきつくないし、そもそもご神体がある場所はそう高いところにあるのではない。  羽山のご神体は、現代において廃れ気味とはいえ、現在も野辺町の人々の手によってきちんと祀られている。管理を任されている寺院が存在し、年に何度か人の手によって手入れされている。それはつまり、人々が祈りや手入れのために通いやすいところにご神体が祀られているということを意味する。山道の最も短いルートをたどれば、20分ほどでたどり着いてしまうのだという。 「たどり着くのが簡単なら、なんで夢を見て訪れた人たちは、実際に掘り起こすまでに至らなかったんでしょうね」  行きしな車の中でそう尋ねると、桂木は窓の外を見ながら言った。 「そもそも桃井さんと高橋さんは山の中での出来事を覚えていません。たどり着いたけど掘り起こせなかったのかもしれないですし、たどり着けたとしても、……スコップなんて持っていなかったでしょうし、」 「ああ、なるほど」  人の手で土を掘るのは容易ではない。畑のように柔らかな土ではないのだから、当然道具が必要だ。  発見された人たちは一様に泥だらけだったという。山をさまよっただけでなく、何とか手で掘り起こそうとして泥をかぶった人もいるかもしれない。  桂木はその答えの最中もずっと、そして車を降りた今も、新芽が深い青に変わりゆく6月の羽山を見つめている。  こんもりと茂った木々が山肌を覆い、きれいな緑色の三角形を形作る山。その背後には、羽山を超える大きさの山々が連なっている。こうして見ると羽山は、連なる山々のほんの端っこに位置するのがわかる。  桂木がおもむろにスコップを担ぎなおし、歩き出した。俺もその後に続き、そして山道へ足を踏み入れる。  山道の入り口は広く、途中までは、軽トラックが通ったのであろう轍の跡がくっきりと残っていた。しかし、黙々と登っていくうちに道幅は狭く、車両の痕跡も消えていく。また奥に進むにつれ、道の両脇に生い茂る木々がトンネルのように頭上に覆いかぶさってくる。  山の中に入ってしまうと、あんなに密生してみえた木々の間は案外見通しがきくことがわかった。背が高く、枝葉が少ない樹木が多いせいで、木の根元近くを歩く人間にとっては視界を遮るものが無いのだ。振り返ると、山のふもとに建っていた家々の屋根が見えた。  俺は、この前の事件で足を踏み入れた沼周辺の様子を思い出す。あの沼を擁していた山はみっしりと木々や雑草が生い茂り、まるで緑の壁のように遠くが見渡せなかった。  そのせいで、茂みの奥で動くなにものかの気配がするたび、びくびくと怯えて……―――。  そこまで、つらつらと考えて、ふと気が付いた。 「……」  呼吸をひそめて、周囲に耳を澄ませる。ざくざくと土を踏みしめる二人分の足音―――それ、だけ。  木々のざわめきも、鳥のさえずりひとつすら聞こえない。この時期になればうようよ湧いてくる羽虫も見当たらない。  たまらず、桂木に声をかけようとした。  いつの間にか異常な空間に足を踏み入れてしまった、ここは俺の知る場所ではない。その心細さにぞっとして、この空間の中で唯一の味方の桂木の声が聞きたかった。  だが、一瞬の疑問が、桂木に声をかけることを躊躇させた。  なんの音も発していないのは、桂木も同じだった。桂木がこの空間の異常に気が付いていないはずがない。それでいて、俺に黙ったままでいるのは、なんの意図があってのことなのだろうか。  ふいに、前を行く桂木の背が、得体のしれない何者かの背中に感じる。そんなはずはない。山道に入ってからずっと桂木と俺は一緒だった。  目の前の桂木が、桂木ではないなんて、そんなことは。  俺は恐る恐る、前を歩く背中に手を伸ばしていた。声をかけるのは怖くて、触れるのは大丈夫なんて道理はないというのに。  心臓が早鐘をうち、自分の耳にまでその鼓動がはっきりと聞こえてくる。  指先が、もう少しで桂木のジャケットに手が届く。その最後の数センチの距離を詰めようとしたとの時、桂木が声を発した。 「……吉野さん?」 「……っ!」  足を止めてゆっくり振り返った桂木は、いつもの……目元が隠れていて、そっけない口元だけが見える、いつもの表情に見えた。  俺は中途半端に手を伸ばした状態で固まった。バクバクと脈打つ心臓が耳にうるさく、こめかみを冷汗が伝う。  桂木は少し首を傾げていった。 「すみません、ペース早かったですか? ちょっと休みましょうか」  俺は口ごもった。桂木は、何も変わったところのない、いつもの様子に見えた。おかしなところなど何一つない。伸ばしかけていた腕を所在なさげに下ろす。 「……いえ、大丈夫です。行きましょう」  暴れる心臓をなだめすかすように、胸元をさりげなくさすった。桂木に感じた何かは、きっと気のせいだ。怪異の元凶を掘り起こしに行くのだと気負ってしまったせいで、周囲の状況に敏感になってしまったに違いない。  桂木はその俺の様子をじっと見て、ああ、と合点がいったように補足する。 「山が静かですね、」 「はっ、えっ?」  急に桂木が確信に触れたこともそうだが、俺はその瞬間、いろんな意味で驚愕し、呆然とした。  桂木の口元に目が吸い寄せられる。その唇は薄く笑っていた。 「山の神が暴れているのだとしたら、祖霊の他にも、霊やほかの生物の活動に影響が出ているのかもしれませんね。追い出されているか、はたまた死んでしまったか」  見間違いでなく、桂木は笑っていた。すぐに体を正面に戻してしまったため確認できたのはほんの数秒だが、見間違いではない。いつも真一文字に結ばれている桂木の唇が、わずかに弓なりになっていた。  なぜ、どうしてこのタイミングで? 疑問と衝撃が頭を吹き荒れるが、足だけはもくもくと山道を登り、おとなしく桂木についていく。  桂木が笑ったところを、俺はめったに見たことがない。はっきりと桂木が笑ったと認識できたのは、前回の事件の後、一度のみだ。ほかの人の前でも、例えば前原や浦賀の前でも、桂木はそうそう笑った顔を見せない。  では、なんで今、こんな状況で笑うのか。  ―――本当に気のせいなのか?  そんな考えが、耳元でささやかれたような気がした。  まるで冷たい水を注いだように、冷え冷えとしたものが胸に広がっていく。本当に気のせいか? この違和感は勘違いか? 目の前にいる桂木は、どこかおかしいと思わないか?  脚だけはどんどん山を登り続ける中、心の中は隠しようもない疑惑ではちきれそうだった。  スコップを握る手に汗がにじむ。額にもいつの間にか汗が浮かび、その一粒が俺の目に入った。  ―――もう誤魔化しきれない。  この山はおかしい、―――桂木がおかしい。  その結論に、心臓がひときわ激しく波打った時だった。唐突に桂木が足を止めた。  無意識に足元だけを見つめていた俺が顔を上げると、桂木の背中の向こう側に開けた空間が見え、その真ん中に、大きな岩が鎮座しているのが見えた。  その場所は、切り立った山肌を背にした狭い空間だった。  木々に囲まれた円形の場所で、山道から入ると正面に岩が配置されている形だ。きっとあれが、ご神体だろう。  直径が2メートルほどもある岩は苔むしていて、黒い岩の表面と、緑や青の苔とがまだらに模様を描いている。その上部は不思議なほど平らで、巨大なスツールを思わせた。  岩の右横には小さな祠があり、その目前には何も入っていない皿や湯呑が転がっている。岩と、そして祠の背後には、崖のように垂直にそそり立つ岩肌が見えており、おそらく巨石もそこから落ちてきたのだろうと思われた。

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