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 しばらく、その岩を目に動けないでいると、桂木が一歩、岩に向かって足を踏み出した。  俺はそれに続くか躊躇った。頭の中では、今すぐに山から下りろと自分の声が言っていた。様子のおかしい桂木に、本能がけたたましい警鐘を鳴らしていた。それと同時に、今の桂木を置いて山を下りることを、理性が断固として拒んでいた。  本能が足を退かせようとして、理性がそれを押しとどめる。その場にくぎ付けになってしまった俺と対照に、桂木はどんどんご神体に近づいていく。  桂木さん、そう声をかけようとした俺の耳に、どこか遠くで、鐘の音のような音が聞こえた。  ――ォオ――…ン……――……オオォ―――ン………  山の麓の寺で鳴らしているのか、一瞬そう考えたが、音が徐々に近づいてくるのに気が付いてその考えを否定した。  焦燥感に駆られてきょろきょろとあたりを探ってみるが、音の原因らしきものは見つからない。その間にも音はどんどん近づいてくる。  …ォオオン……――……オオォオオ―――ン…………オオオオオオン―――……  その音が俺のほぼ真後ろで鳴ったところで、俺の理性ははじけ飛んだ。悲鳴のような声で、桂木を呼んだ……呼ぼうとした。  振り返ってこちらを見ている桂木が、また笑っているような気がして仕方がない。  ―――おおおおおおおおおおおおおおおおん……  耳全体が鐘にでもなったかのような音の激しさに、思わず目をつぶった。そして次に目を開けたとき、目の前の光景がさっきまでと異なることに気が付いた。  目の前に広がるものが何なのか理解できず漫然と見つめ続けて、ようやくそれが地面だと気が付いた。眼前に広がる地面の奥に、巨石と、そして桂木のものと思しき足が見えた。  そこまで理解してようやく、ああ、俺は地面に倒れているのか、と置かれた状況を把握した。 (……なんだ、頭、ぼーっとする……。きもち、わるい)  意識がはっきりするにつれて、体が妙に重いことに気が付いた。体を動かそうとすると、指や首は動くのに、胴体が何かに縫い留められているかのように動かない。ずし、と背骨の上に重さを感じて、何かが背中の上に乗っているのだと悟った。  俺は苦労して首をひねり、自分の背後を振り仰いだ。  そこには、肌色の芋虫じみた、巨大な何かが乗っていた。 (…………は?)  目を見開いて固まった俺の背中の上で、“それ”はもぞり、と動いた。途端に俺の背中にかかる重量が異動し、押しつぶされた胃から耐えがたい吐き気が這い上ってきた。俺はとっさに手を口に当て、その衝動をこらえた。 「……うっ、ぐ! ぉえっ……」  無様に吐き散らすことだけは何とかこらえたが、今度は息をつめた肺を思い切り押しつぶされて、ぶはっ、と息を吐き出す羽目になった。  文字通り息も絶え絶えの中、ぞろりと動く“それ”の手足が俺の眼前に下ろされる。それは、象牙色のなめらかな肌を持つ、人の手そのものだった。  俺の眼前で、ばらばらと指が動く。空っぽの肺にもう吐き出す空気はなく、悲鳴は音にはならなかった。  怖気をこらえながら、目線でその手の“生えている”箇所までたどっていく。首を限界まで巡らせて見た“それ”は、幼虫のように細長い、ぶよぶよした胴体を持ち、人の腕をまるでムカデの足のように、その胴体から無数に生やしていた。 「…………!」  声を失った俺の上で、まるまると肥った体がずっしりととぐろを巻いていた。そして、無数の手がわさわさと俺の体の上をさまよっては、押さえつけているのだった。 (に、逃げ、ないと)  地面に爪を立ててもがくが、体はびくとも動かない。どころか背中の上の“それ”は、逃げようとする俺に気づき、わらわらとその腕たちを俺の上に大量に降らせた。  腕が、手が、指が。俺の顔や髪の隙間にもぐりこみ、地面に押さえつける。もみくちゃにされた目鼻からは涙がにじんだ。 「……う、くそ、くそっ! …………ひぃ!」  右頬を痛いほど地面に押し付けられる。目の前に影が落ちて、自分の眼前に“それ”の体が近づいているのがわかった。  何を―――されるのか、そう体を固くしたときに、左耳に先ほどの鐘の音に似た音が聞こえてきた。  至近距離で耳に注ぎこまれて初めて、その音は鐘の音ではないと気が付いた。それは、無数の人の唸り声だった。  苦しい、辛い、そんな怨嗟の声が寄り集まって、一つの巨大な唸り声になっていた。  俺は耳をふさぐこともできず、自由になる首を全力で振って唸り声を聞くまいとした。こんなものを聞き続けていたら頭がおかしくなってしまいそうだった。 「おお、おぉぉおん……おおぉ……」 「……!」  俺の抵抗を見てか、“それ”の手足がなお一層俺の体にしがみついてきた。声もさらに悲壮な色を増す。絡みつく腕に翻弄されて、ゆさゆさと揺さぶられる視界の中、俺はふと思った。  これは、俺に縋っているのだ、と。  苦しい、つらい、助けてほしい。そう言いながら、俺の体に必死に縋っているのだ。 「………あっ、……」  だからと言って、ただ押しつぶされているだけの俺には何もできない。視界がかすみ、苦しさに涙と鼻水とよだれを垂れ流し、地面に転がる俺には。  俺は死に物狂いで、両手を前に伸ばした。右手だけが拘束を逃れ、眼前に伸ばされた。助けを求めるように。 「……あ、たす……けて、」  誰でもいい、苦しい、助けてほしい。なんでもいいからこの苦しみを取り去ってほしい。  俺はこの場にいるはずの、もう一人の人物に向けて、がむしゃらに手を伸ばした。 「……かつらぎ、さ……」  ふいに目の前の地面に影が差し、続いて、誰かの靴が目に入った。首をぎりぎりまでそらせて、その足の持ち主の顔を見る。  桂木だった。  俺はもう一度、桂木に向かって手を伸ばした。  桂木がいるなら、大丈夫だと思った。何とかして俺を助け出してくれるはずだと思ったし、何かあれば応援を呼ぶこともできる。すぐに助け出せなくても、何か手を考えてくれるはずだ。とにかく、なんであれ桂木が今も一歩も動かないのには何か理由があるはずだ。きっと、俺が手を伸ばしても、無様に呻いて助けを求めても、きっと、何か、どうして。どうして……  どうして、桂木はただ俺を見ているだけなんだ? 「……何が、お望みですか」  地面に転がり無様に手を伸ばす俺を、はるか頭上から見下ろして、桂木は静かに問いかけた。  視線はどこを向いているのか定かではない。逆光と前髪が邪魔をして、表情を伺い知ることができない。 「掘り起こして差し上げます。場所を、教えてください」  ……桂木は何を言っているのだろう。桂木はきっと、大丈夫ですか、とか何か言って、俺を助け起こしてくれるはずだと思っていた。だって俺たちは、立場は違えど同じ支援班に属する同僚で、相棒のはずで、それに。  上滑りする思考を断ち切ったのは俺の上でのたうつ “それ”の身じろぎだった。  “それ”の胴体が、ずろろ、と滑り、痛みに呻いた俺の頭を“それ”の腕が掴む。そして、“俺”は“それ”の代わりに、叫んだ。 『……―――岩から半歩、未申の場所……』  勝手に喋り始めた喉と口に驚愕し、目を見開いた。その短い文節をがむしゃらに叫んだのち、体の自由が利くようになり、たまらずゲホゲホと咳き込む。加減を知らずに開いた口の端が焼け付くように痛んだ。  一瞬ではあるが自分の意思と関係なく動いた体に、心底寒気を覚えた。  涙でにじんだ視界で、桂木の靴が遠ざかっていく。俺は懸命に目を凝らして桂木の動向を目で追った。  桂木は岩の前で少しうろついたあと、おもむろにシャベルを地面に突きたてた。そこは岩と祠の間の、雑草が生い茂るくぼんだ場所だった。  桂木がシャベルをふるう背中をぼーっと見つめる。もう俺に抵抗しようという気概はなかった。  桂木に向かって伸ばした腕は、掬い取られることなく眼前に横たわっている。なぜ、どうしてという気持ちをぶつけたくても、もがき疲れた体は声を出すことも億劫だ。  いや、もうわかっていた。たとえ声をかけたとしても、目の前で俺に背を向け、ひたすら穴を掘る桂木はきっと俺を助けない。  肺と胃を押しつぶされ、不気味な手指が体中を這い回る中、俺はただ打ちのめされて横たわっていた。

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