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―――……穴を掘るのには、どのくらい時間が必要なのだろう。
どれほど時間が経ったのか、周囲の薄暗さにふと気が付くころ、桂木は黙々とシャベルをふるう腕を止めた。
息を弾ませ、せわしなく肩を上下させながら、じっと自分の掘った穴を見つめる。そして、ぽいと傍らにシャベルを放った。
がらん、と音を立てるシャベルをしり目に穴へと近づき、穴のふちでゆっくり屈むと、桂木はそっとその穴の中に手を差し入れた。
俺は息を止め、目を見開いてその様子を見守る。桂木がまたゆっくりと体を起こした。その腕は、胸の前で何かを抱えるように体の前側に回されている。
そして桂木は、それを胸に抱えたまま、こちらを振り返った。
俺は言葉もなく、ただ茫然とその光景を見ていた。
桂木はその腕に、“人の片腕”を抱きかかえていた。
言葉を失う俺の体の上で、奇妙にしわがれた声が迸った。それと同時に、あれほど体を苛んでいた重みが背中から消え失せる。俺はようやく胸に入ってきた新鮮な空気にむせ返った。
ぐらつく頭を振ってあたりを見回すと、俺の上から飛び退った芋虫のような影がそこにいた。
始終俺の上に陣取ってくれていたせいでずっとその全貌が見えなかったが、俺はようやくその全体像を知ることができた。
芋虫のようなぶよぶよした肉色の体、そしてムカデのごとく生やした人の腕。鎌首をもたげるように持ち上がった胴体の先端には、表情のこそげ落ちた、男とも女ともつかない人間の顔があった。
おそらく……おそらく、これが山の神というものなのだろう。虫と人間の合いの子、というよりも、『人間で作った虫』という表現のほうがしっくりくるその姿は、悍ましさしか感じなかった。神と言うよりも妖怪か化け物と言った方が納得する。
“それ”はぎゃあぎゃあとやかましい悲鳴を上げながら、桂木を睨みつけている。まるで桂木を……その腕の中にあるものと距離をとるように、広場に沿ってご神体の岩へ回り込む。
そして“それ”はご神体へたどり着くと素早くその上に飛び乗り、かと思えば、岩の下にいて腕を抱く桂木に、ぎゃあ! とひときわ大きく悲鳴を浴びせかけた。それはまるで、威嚇する野生動物のような動きだった。
一瞬、桂木に“それ”がとびかかるのではと危惧し、上体を起こす。しかし芋虫もどきは、岩の上でぐるぐると所在なさげに動いた後、ものすごいスピードで背後の山の斜面をつたい、茂みの奥へ消えてしまった。後には、エコーのように徐々に遠くなっていく、ぎゃあ、ぎゃあという悲鳴だけが残された。
そして、遠くの茂みが揺れる音が耳に届かなくなったころ、俺はのろのろと老人のような速度で地面から立ち上がり、桂木に向けて一歩、また一歩と踏み出した。
桂木は一連の出来事の間も微動だにせず、ただじっと、胸に抱いた“腕”を見つめていた。
近づくごとに、その“腕”の異様さを認識する。
その腕は、指をゆるく開いた状態で手を桂木の肩にもたれかけさせ、やんわりと曲げられた肘と二の腕を桂木の腕に支えられていた。それの二の腕は、肩につながる部分の手前でぷっつりと途切れている。ちらりと見える切断面は赤黒く乾燥していて、血が滴っている様子はない。
しかし、異様なのはその腕の“新鮮さ”だ。先ほどまで地面の中に埋まっていたはずなのに、その腕は今もまだ生きているかのようにみずみずしい。肌には張りがあり、温度すら感じられそうだ。だが実のところ、その腕が繋がっていたはずの胴体は、はるか昔に失われているのである。
そしてそれを見つめる桂木の表情は、違和感を通り越してもはや忌まわしさを感じるほどに、穏やかで、満ち足りた表情をしていた。
汗ばんだ額に髪を張りつかせ、あらわになった瞳は一心にその手に抱いた1本の腕を見つめていた。
いつか見た時のように、笑うと柔らかく、しっとりと潤みを帯びる瞳。その目がことさらとろけて、嬉しそうに眦を細くしている。整った鼻筋も、ほんのり持ち上がった口角も、そこだけ見れば、ごくありふれた幸せそうな男の顔だった。
その視線の先にあるものが、この穏やかな光景をひどく厭わしい、忌むべきものにしていた。
ふと、桂木の唇が開いて何かを呟いた。のろのろと近づいていた俺の耳にも、その囁きは聞こえた。
「……哲生 」
瞬間、俺の全身が総毛立った。桂木はその腕に向かって静かに呼びかけていた。
目の前の男が知らない化け物に感じられて、それと同時に、桂木がこのまま遠いどこかへ行ってしまうような、強烈な焦燥感を覚えた。
俺はその狂暴な感情のまま、体の痛みも忘れて桂木に走り寄った。そしてがっしりと桂木の手首をとらえる。そのままくるりと踵を返し、桂木を引っ張って下山を始めた。
桂木は思いのほかあっけなくその場から離れ、片腕でその“腕”を支えたまま、俺の後をついてきた。
「……~っ!!」
何がどうして、どんな仕組みでそうなったのかわからないが、俺の目からは涙があふれてきた。
恐怖や混乱もあったかもしれない。怪異を前に何もできなかった情けなさも、自分に対する腹立たしさも、悔しさもあった。それだけたくさんの感情が渦巻いていても、俺が泣く理由にはならなかった。その涙を後押しするのは、自分でも理屈のわからない荒れ狂う悲しみだった。
とにかく悲しい。何が? 俺が? 桂木が? 桂木のことを考えたとたん、さらに目の奥がツンと痛んだので、俺はぎゅっと瞼を閉じ、空を仰ぎ、あふれてくる雫をこらえた。
桂木は俺がどれだけ乱暴に引っ張っても、抗わずについてくる。その目が、じっと腕のなかのものだけを見ているだろうということは容易に想像できた。その事実のどこにそんな狂暴さがあるのか、それすら胸をかき乱して、ジワリと新たな涙が滲んだ。
俺はやけくそ気味に袖で目を乱暴に拭うと、ポケットからスマホを取り出し、浦賀にコールした。
ワンコールで出た電話口の浦賀に、今すぐ来てくれと端的に告げた。上がった息や涙のせいで、ぼろぼろの声だった。
すぐに向かうと告げた浦賀の声に返事をすると、俺は再び袖口で涙をぬぐった。
夕暮れの頼りない光源のもと、何度も足を滑らせながら山道を下る。何度も体勢を崩しながら、歩くスピードは緩めなかった。桂木も何度か転びかけていたが、断固として片手で抱えた腕は離そうとしなかった。
俺はそんな桂木が怖くて、怖くてろくに振り向くことができなかった。
夕焼けが半分ほど沈んだ頃、ようやく木々の間に民家の明かりを見つけることができ、俺は詰めていた息を吐きだした。もう、山の終わりが近い。
俺はふと気が付いて、自分の来ていた上着を脱ぐと、桂木に歩み寄った。
そして、抱えられている腕をまじまじと見つめつつ、桂木の肩から胸を覆うように上着をかける。こんなものを持っているところを近隣住民に見られたらまずい。
俺が上着をかける間も、桂木は小動(こゆるぎ)もしなかった。どうにかずり落ちないようにうまく引っ掛けると、俺は再度桂木の手を引いて、山の出口へと向かった。
最後の木立をくぐり、ようやく平らな地面にたどり着く。何事もなく山から出ることができたことに安堵した。
そのまま、付近に止めている車へ移動しようとしたとき、山の上からあの鐘の鳴るような、オォ―――ンという音が聞こえてきた。
とっさに足を止めて山を振り仰ぐと、おおーん、おおーんと音は何度も繰り返し鳴り響いた。そしてにわかに、ぎゃあぎゃあとやかましい音が聞こえてきたかと思うと、二、三羽の鳥が俺の頭上を横切っていった。
鳥は吸い込まれるように山の木々の間に消えていく。そしてそれに続くように、一羽、また一羽と町から鳥が飛来し、見る見るうちに俺の頭上は鳥の作る影に覆われ、まるで空を覆いつくすかのようだった。
昨日はこの鳥に襲われたというのに、俺は阿呆のようにその光景を呆然と見ていた。おぉん、おぉんという音に誘われ、沈みかけた夕焼けの空を黒い鳥の塊が渡っていく。
やがてその声は夕日が完全に没するころに、ふっ、と途切れ、後にはうっすらと月が浮かんだ紺色の空だけが残された。
それからは、あっと言う間に過ぎた。
日没後しばらくしたあと、車の前で立ち尽くす俺と桂木の前に、前原と浦賀の乗った車が到着した。
前原は泥まみれの俺たちを一瞥したのち、何も言わずに桂木を引っ張っていって車に乗せた。桂木の胸と腕を覆う上着と、その下のものに関しては一切言及しなかった。
前原は浦賀に何かを言い残したあと、俺の顔をじっくりと5秒間ほど見つめ、そっと俺の肩を叩いた。そして、桂木を乗せた車の運転席に乗り込み、さっさと走り去ってしまった。
残された俺は、俺が運転してきた車の助手席に乗せられた。浦賀はへっぴり腰で運転席に乗り込むと、一歩間違うと迷惑すれすれの非常におっとりした “安全運転”で車を走らせた。
平素であれば、浦賀の運転技術は、落ち着いて助手席に座っていられないほどひどいものだった。しかし今は、熱っぽく怠い体が思考力を奪っていたおかげで、余計な心配をせずに済んだ。
ぼーっとしている間に本部についたらしく、俺は浦賀に気遣われながらも支援室ではないどこかへ誘われる。その間も浦賀が何か喋っていたようだが、正直、まったく覚えていない。
浦賀に導かれたどり着いた先が仮眠室だったことで、ようやく俺は、今日はもう休めと言われているのだと気が付いた。
俺は最後の意地で何とか靴を脱ぐと、そのままベッドに倒れこみ、シーツに魂を吸い取られるように深い眠りの世界に飛び込んだ。
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