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 翌日。  仮眠室のベッドで泥のように眠っていた俺は、背中に感じるきしんだ痛みに起こされた。  体を起こすと節々が痛い。しかもシャワーも浴びずにベッドに入ったせいで、頭からつま先まで乾いた土がこびりつき、布団まで汚していた。  仮眠室は窓がなく、今が何時かも定かではない。俺は常に時間を把握する現代人の常として腕時計を確かめると、時計の針は午前10時半を指していた。昨日捜査から帰ってきてからというものの、半日以上寝こけていたということに驚愕する。  枕元には、浦賀が残したものと思われる、ポストイットが貼られたペットボトル入りのミネラルウォーターが置かれていた。  ありがたく水を頂戴しながら、ポストイットを眺める。『起きたらシャワーを浴びて、支援室まで来てくださいね!』と書かれている。俺はそのメモの隅っこに書かれた可愛いうさぎのイラストを見るともなしに見ていた。  それから、シャワーを浴びて汗と泥を落とし、少しマシになった風体で支援室へ向かった。  その頃には頭もしゃっきりし始めていて、昨日起こった出来事もはっきり思い出せるようになっていた。  俺は何かの予感めいたものを感じながら、支援室の扉を開いた。 「……失礼します」  入室した瞬間、二つの顔が同時にこちらを見た。前原と浦賀は二人そろって部屋の中央に立ち、何かを話していたようだった。  つかつかと入ってくる俺を二人は黙って迎え入れる。シャワーは浴びたが、着替えはなかったため、かなりひどい有様に見えるだろう。 「……よう、気分はどうだ。仮眠室じゃろくに休めなかっただろ」 「や、そんな……。半日も寝っぱなしですみません……」  寝坊し、しかも遅刻したことに恐縮していると、前原の大きな手が俺の肩を叩いた。そのまま、自然な動きで俺の背中を押し、部屋の奥の談話スペースまで誘う。  浦賀はすべて承知したという様子で俺に少しだけ笑いかけると、自分のデスクに引っ込む。  パーテーションの向こうへ回ると、前原は俺をそこの安っぽい椅子に押し込め、自身もその向かい側の椅子に収まった。  前原が何か適当なことを言い始める前に、俺は口火を切った。 「昨日、あの後どうなりました? 事件はどうなりました?」 「おっと、まあそう急かすな。まったく、こっちはよれよれのお前を気づかってゆっくり始めようとしてたのに……」  そんなものは無用の気づかいだ、と言わんばかりにもう一度「どうなったんですか?」と尋ねる。前原はやれやれといった表情で口を開いた。 「まず、昨日の一件は公になってない。刑事二人が何やら山ん中を捜索していたことも、その結果起こったことも、一般市民どころか警察内部にも知られてない。まあ、支援班とその存在を知ってるお偉方は、もちろん承知してるがな。それから、朗報だ。もしやと思って情報収集させに行ったんだがな、拘置所の志倉少年も、入院中の高橋葵と桃井正も、今朝は夢を見なかったらしい」 「それって……」  夢に悩まされていた者たちが全員、今朝は夢を見なかった。それはつまり、祖霊たちが無事に、自分たちの本来いるべき場所へ帰ることができたということだ。  事件が、解決された、のか。 「後で適当な理由つけて他の行方不明事件の被害者も様子を見てこさせるが、おそらくはこれで収まるだろうな」 「そう、ですか……」  これで心配事は一つ片付いた。問題は、俺の心の大半を占めているもう一つの事柄のほうだ。俺はごくり、と唾を飲み込む。 「桂木さんは? ……何か怪我とかは、大丈夫ですか」  我ながらはっきりとしない口調だと思いながら、そう尋ねた。  前原は俺を見ないまま、ゆったりと答える。 「桂木は……先生はちゃんと家に帰したよ。怪我もない。無事だ」  聞いたのは俺のほうだというのに、半ば上の空で俺は「そうですか」と答えていた。  入室したときからずっと考えていること。そして前原の態度を敏感に読み取り、読み取ろうと試みていること。  前原は、“あの腕”のことをどう思ったのだろうか。そして、“腕”はどうなったのだろうか。  ……それを、俺は聞いてもいいのだろうか。  少なくとも入室してからこっち、前原からは拒絶の態度は感じられない。「聞いてくれるな」というのであれば、こんな小汚い様子の俺を、さっさと着替えて来いと自宅に追い返したはずだ。  俺はついに覚悟を決め、問いかけた。 「あの腕は、どうなりましたか」  前原はぴたり、と動きを止め、目を閉じてゆっくりと鼻から息を吐いた。  それから前原が再び口を開くまでに、時計の秒針が二、三周はしたと思う。  対面に椅子を構えてからというものの、ずっと俺のほうを見なかった前原が、ようやくまっすぐに俺を見たかと思うと、おもむろに口を開いた。 「吉野。よく聞け。お前をここに呼んだのは、俺がお前を信じてるからなんだよ」 「……? なんの話を……」  唐突に始まった話に首を傾げる俺を無視し、前原は真正面から俺の目を見ていった。 「あれは、殺された桂木の恋人の腕だ」  開きかけた口をそのままに、俺は絶句した。  腕、恋人、桂木、殺された。まるでぶつ切りの単語が乱舞しているかのように、前原の言った言葉をうまく捉えられなかった。ようやく半開きの口から洩れたのは、「殺されたって……?」という苦し紛れの問いだった。 「ああ。殺された。かつ……先生の恋人は、二年前に殺されている」 「殺されたって、誰に、犯人は?」  殺人だとしたら警察が動かないわけがない。いったい誰が、なんのために。そう思っての問いだったが、前原は重々しく首を振った。 「……お前も知ってるだろう、二年前の未解決多重殺人事件は」  俺は息をのんだ。それは、この警察本部のある深御市でかつて起こった事件であり、俺の記憶にもしっかりと残っていた。  深御市多重殺人事件。そう名を冠された事件が世間を騒がせたのは、二年ほど前のことだ。きっかけは一件の殺人事件、そこで採取された第三者のDNAデータが、データベースに登録されたとある遺留DNAのデータと合致した。  そのDNAが採取されたのは、同じ深御市で起きた二体の殺害遺体からであった。そのどちらの遺体にも似通った特徴があり、警察ではその二件が同一犯による殺人によるものとして捜査をしていたが、その時点までは進展なしの状態だった。  しかしそんな状況が一転、新たに発見された遺体から同じDNA反応が出たということで、警察は過去の二件の殺人事件と一件の殺人事件をまとめ、深御市多重殺人事件として大規模な捜査本部を設置した。  当時、俺は深御市の隣の小さな警察署で地域課に勤務していた。身近で起きた大事件ではあるが、管轄も違うということで事件に関わることはなく、ただ流れてくる噂程度の情報しか知ることができなかった。  結局その後、当該の事件は新たな遺体の発見以降、情報が更新されることはなく、犯人の手掛かりもつかめないまま、捜査本部は解散となった。現在は長期継続捜査の専門チームに引き継がれている。  当時、公に報じられていなかったが、被害者の遺体は損壊が激しく、殺害の手口は非常に残虐なものだったという。  桂木の恋人が、その事件の被害者だったということは、つまり、損壊とは。 「先生の恋人は、二年前の……深御市多重殺人事件って名前が付くきっかけになった、一番最近の事件の被害者だった。大っぴらに言ってはいないが、遺体はバラバラに切断されていて、な。両腕両足と、胴体と、首だ。しかもそこには、遺体を喰ったような跡が残っていた」 「喰っ……た?」  掘り起こされたのが腕のみだったということから、ばらばらにされたということは想像がついていた。  しかし、それを上回る悍ましい所業に、俺は思わず手で口を覆った。絶句するしかなかった。  前原はそんな俺とは対照的に、淡々と言葉を紡いでいく。そこには倦み疲れたような表情があるのみだった。 「……いまだに、両足以外の遺体は見つかってない。いや、見つかっていなかった。昨日、左腕が見つかったわけだからな」  昨日見た、腕を抱えた桂木の像がちらつく。腕の中を見つめ、大事そうに笑う桂木の表情、そしてほの柔らかさすら感じるような生々しい肌。  前原はうつむき、机の表面の傷を眺めながら言う。 「先生はな、ずっと恋人の残りの遺体と、犯人を捜し続けているんだ。先生が支援班の捜査に協力しているのは、その一環でもある」 「……どういうことですか?」  おそらく、今の俺はひどい顔色をしているだろう。握りこんだ指が恐ろしいほど冷たい。  前原は机の傷を数えるのを止め、いつもより力ない目で俺を見た。 「先生は、『警察への全面的な捜査協力とその捜査情報の完全な秘匿』を条件に、恋人を殺した犯人の手掛かりを継続的にリークしてもらえるよう、取引を結んでいる。なんでそんな取引が成立したかって言うとな、例の遺体の周辺では、不思議と怪異が絡む事件が起きやすいからなんだよ」  俺の頭の隅で小さくささやくものがあった。それは昨日、桂木と共に見聞きし、互いに話し合った声だった。  ―――……か……まが暴れるのは、ふじょ……不浄? が埋められているからだ、って―――  ―――山の神の近くに不浄なものが埋められているから、山の神が怒ってしまった、と?―――   “不浄”なものと言われていた、羽山に埋められたモノ。そしてそこに埋まっていた、桂木の恋人の右腕。  桂木の恋人の遺体の周辺では、怪異が絡む事件が起きやすい。  俺の胸に、ざらついた感触の何かが広がり始めていた。 「怪異が絡む事件に関わることができれば、恋人の遺体が見つかるかもしれない。警察側も、万年人手不足の支援班に、優秀な人材を配置したい。特に怪異がらみの事件なんて面倒なものは、できるだけ速やかに調査をしたい。お互いに利害が一致したわけだ」  俺は不快な胸の内側を押しとどめるように唾を飲み込む。できるだけ感情を排除した声で前原に尋ねた。 「犯人はまだ見つかってないんでしょうけど、何か新たな情報は出てきていないんですか、」 「ない」前原は即答して首を振る。「捜査当時も、今もな。ただし、なぜか先生は犯人の名前を『芹沢』だと断言してる。詳しくは話してくれないが、直接“見た”んだそうだ」 「見た?」  前原の言動が妙に含みのあるものに感じられて問いかけた。前原はとん、と己の下瞼を指で指し示して言う。 「おそらく、俺には見えなくて、お前らにしか見えない方法で、見たんだろうな。深く聞いてくれるな。俺もこの辺の事情は聞かされてないんだ。……まあ結局、『芹沢』なんて男は関係者の中に一人もいなかったんだがな」  犯人であるという人間の名前は特定しているのに、捜査線上にはまったく浮かんでこないとは、少し妙だ。  その名前が例えばニックネームだったか、もしくは……しかし、桂木がどんな手段でその情報を得たかを公開していない以上、何を考えても想像に過ぎない。

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