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「あの人も、言ったところで警察の人間がその情報を信じるわけないと思っているんだろうな。幽霊から聞いた名前です、なんて言った日にゃ、それ以外の証言もキチガイの戯言扱いされちまう。先生は今も一人で、『芹沢』の調査をしてるよ」  俺はもう一つ、気にかかっていたことを聞こうか迷っていた。結局、ここまで聞いたのならばむしろ尋ねないほうが不自然だと思い、意を決して問いかけた。 「……『テツオ』、と言っていました。それが、恋人の名前ですか」 「……ああ、そうだよ。櫛橋(くしはし)哲生。男だ」 「……」  やはり、あの時聞いた声は聴き間違いではなかった。何と言っていいのか言葉にならず、無意味に口を開閉させては、結局口をつぐむ。そして、こんな形で、第三者から桂木のプライベートな情報を聞いてしまったことに小さな罪悪感を覚えた。  気まずそうな顔をしていただろう俺よりも、前原はさらに渋い顔になっている。弱り切ったため息をつき、物にあたるように自分の頭皮をかきむしっていた。 「……桂木な、元警察官なんだよ」 「え、」  意外過ぎる事実に、自分でも自覚できるほど目が丸くなった。前原がまずいものでも食べたかのように顔を歪め、ちっ、と小さく舌打ちする。そんないじけたヤンキーのような反応をする前原を、俺は初めて見た。 「あいつは、恋人を探すために警察を止めたんだ。警察官として働き続けるには、いろいろ……いろいろあり過ぎたんだ」  そこまで言うと前原は、もう話はおしまいとばかりに立ち上がり、俺を視界から追い出した。  俺は座ったまま、その前原の丸まった背中を半ば呆然と眺めていた。  前原から聞いた話は、とても今すぐにすべてを飲み込めるものではなかった。  桂木の過去、殺された恋人、バラバラにされた遺体、遺体に残された異常な痕跡。恋人の遺体と犯人を捜し続けるため、警察官を辞めながらも、一般人として警察の事件捜査に秘密裏に関わり続ける毎日。  そんな断片的な情報がぐるぐるし続ける頭の中で、昨日の桂木の様子について、俺は一つの結論にたどり着こうとしていた。  支援班の捜査方針に反していると理解していながらも、桂木が、事件の元凶を掘り起こすことに反対しなかったのは、きっとその時から、恋人の遺体が埋まっている可能性を考えていたからなのだ。  俺は、事件を解決したくて元凶であるものを掘り起こしてしまおうと提案したが、桂木が密かに別の動機を抱えていたとしても、結局『元凶を掘り起こす』という行為には変わりない。  どんな目的があって行動しようと、それはそれぞれの勝手だ。だから何も問題はないはずだ。“利用された”なんて女々しいことを考えるのは、お門違いというものだ。  理屈でいくらそう考えてみても、どうしても頭の中を昨日の光景がよぎる。這いつくばる俺を見下ろす桂木。そこに気遣いや、仲間としての情は欠片もない。  その瞬間、俺は確かに、裏切りという行為をその身に感じてしまった。 「吉野、今日はもう帰って休め。明日、お前は非番だろ。そのまま待機してろ」  その声は、どこか俺に後ろめたさを感じているような、取って付けたような優しさを伴っていた。  前原がどんなつもりで、この話を俺に聞かせたのかは正直よくわからない。しかし、最初に前原の言った、「お前をここに呼んだのは、俺がお前を信じてるからなんだよ」という言葉の真意はわかった。おそらく、俺がこの話を聞いたうえで、桂木とのコンビを継続してくれると判断した、ということなのだろう。  前原の口から語られた話は、それを知らずに桂木と長く付き合うことはできない類のものだ。きっとどこかで、今の俺のように桂木の真実にぶち当たる日が来る。  それを知ってなお、桂木と組むことのできる人物として、前原は俺を選んだということか。 (……それで? 俺は、どうするわけだ?)  自分に問いかけた声が、実際にそう声に出しているわけでもないのに、皮肉気な調子に聞こえた。ぎり、と歯を軋らせて、俺は立ち上がった。無言で前原に頭を下げ、顔を俯かせたまま談話スペースを抜け出す。  ひょい、と目線を上げて浦賀が俺を見たが、気づかないふりをして部屋を突っ切った。  そして投げやりに「失礼します」と言い放ち、そのまま支援室を後にした。  俺が去った談話スペースでは、前原がじっと向かいの空席を見つめていた。 「見捨ててくれるなよ」  食らいついてくれ、吉野。浦賀にも聞こえない小ささで呟かれたその言葉には、重責を背負わせてしまったことへの悔恨と、懇願がこもっていた。  ―  あのまま逃げるように自宅に戻ったものの、そのままゆっくり休めるような精神状態ではなく、俺は悶々としたものを抱えたまま、自前のノートパソコンを開いた。  先ほど聞いた話が頭を離れない。若干の後ろめたさを感じながら、俺はブラウザを立ち上げ、カタカタと断片的な文字を打ち込む。  深御市 20XX年 殺人事件  あっという間に、ネットニュースに個人ブログ、掲示板など、有象無象の情報がずらっと画面に並んだ。  最初はニュース記事をあさっていたが、そこにはほとんど詳細な情報は書かれていない。捜査当時はよほど情報規制が厳重にかけられたのだろう。  俺はためらいつつ、徐々にアングラな掲示板や、まとめサイトを覗いていった。そこには、不特定多数の匿名人物が呟く、詳細だが真偽のあいまいな情報が、乱雑に書き散らされていた。 『犯人は今もわかっていない』 『事件の関連性が見つかった遺体はバラバラにされて―――』 『……発見当初、遺体からどのように共通点を―――』 『被害者は櫛橋哲生(26)、フリーター』 『―――犯人絶対深御市にいるだろ、サイコパスがいるとか………』  凄惨な事件の描写と、それを悼み、面白がり、考察し、ネタにする人々の発言に、俺の目が死人もかくやというほど濁ってきた頃、ふとスクロールした画面に一人の少年の顔写真が現れた。  それは、深御市多重殺人事件の命名のきっかけでもあり、そして最後の事件となった殺人の被害者でもある、櫛橋哲生の写真だった。  哲生という人間は、最近の若者にしては驚くほど写真を撮らなかったらしく、手に入った写真は中学校の卒業アルバムのみだったらしい。どこぞの週刊誌が入手したというその写真には、線が細く、儚げな、美しい顔を少年が映っていた。 (この人が、櫛橋、哲生)  写真に写る真っ白な肌と、脳内から消えてくれない昨日の光景が、だぶって重なる。あの時、桂木の腕の中にあった腕も、この少年の頬のように生白かった。あの腕もかつてはこの男の体につながっていて、動いて、生きていた……。  俺は居てもたってもいられなくなり、傍らに放ってあったスマホを取り上げ、衝動的に桂木にコールした。  呼び出し音が一回、二回、三回……。その回数が十を超えても、桂木が電話に出ることはなかった。  昼過ぎ、そして夕方にも、一回ずつ電話をかけてみた。しかし、いくら待っても電話口からはコール音以外の音は聞こえてこなかった。  夕方、スマホのスピーカーから聞こえるコール音が三十回目を数えたとき、俺は発作的に家を出た。何かをしようと明確に思ったわけではなかったが、足は自然と町のほうへ向かっていた。駅前繁華街の裏通り、桂木の探偵事務所がある場所まで。まるで片方の足が互いに早く踏み出したがっているかのようにもどかしく、俺はいつの間にか走り出していた。  すっかり夜もふけた街を通り過ぎ、ビルの階段を上って事務所の扉の前へたどり着く。踊り場に俺の荒い呼吸音が響いた。  扉の上部に据えられた羽目殺しの窓は、部屋の中が真っ暗であることを告げていた。俺はそれを気にも留めず、インターホンを押す。何度押しても応答がないことを確認すると、インターホンをあきらめて、代わりに扉をドンドンとこぶしで叩いた。  いつもは事務所に来るとなれば、周囲に幽霊がいないかびくびくと気にするところだったか、今日はそんなものにかかずらっている心の余裕はなかった。周囲に音が響き渡るのもかまわず、何度となく扉を叩いた。  それでも、扉の向こうから声が返ってくることはなかった。  俺はずるずると、扉の前にしゃがみこんだ。  いい年をした大人のくせに、まるで高校生のように膝を割ってだらしなくしゃがみこみ、足の間に頭を項垂れる。  今日、目覚めてからずっと、目を閉じれば瞼の裏に映るのは、あの時の桂木だった。じっと俺を見下ろす桂木の、影が落ちて表情の読めない顔。そして、腕を抱え上げてこちらを振り返った桂木の表情。初めて見る優しげな瞳。  桂木と出会ってからこっち、俺が困ったときにはほとんど必ず、桂木は俺を助けてくれた。俺の目がおかしくなった最初の事件のときも、それ以外のときも。死にそうだった俺を救ってくれたのは桂木だった。そんな桂木に感謝していたし、俺は俺で、警察官として、そして相棒として、桂木を守らねばと心に決めていた。  だからだろうか、桂木もきっと俺を助けてくれると思っていた。桂木が俺を見下ろし、伸ばした手を無視して背を向けたあの瞬間までは。  俺の知っている桂木は、丁寧な言葉遣いで、そっけなくて、たまにおかしなことを言う人で、でも困っていれば手を差し伸べてくれる、そんな人間だった。  そう、表面的には冷淡に見えても、きっと内面は優しい人間だと思っていた。  だが、昨日の桂木は、「きっと本当は優しいはず」なんて甘ったれた表現で言い表せないものがあった。  腕の中の、恋人の腕だけを一心に見つめ、その場にいた怪異や俺のことなど、まったく眼中になかった桂木。  たかがひと月程度で、相手のすべての顔を知ることは不可能だ。だというのに、俺はあの桂木を、「桂木という人間の一つの側面」として受け入れることができない。  あの時の異常な行動と言動が彼の本質なのだろうか。俺にはそれを判断することができない。  ふと気が付いた時に、身近に化け物がいたと気づいた時のような不気味さ、そして恐怖が、俺の中にじわりと広がるのを感じた。それは、真っ白いシャツに飛び散った油性インクのように、もう二度ともとには戻らない。  そしてその汚れのような気持と同居する、様々な思い。裏切り、信頼、後悔―――。  自分をぐちゃぐちゃに染め上げる感情は入り混じり、絡み合い、その一つ一つを明確に拾い上げようとすれば、己の弱さを自覚してしまいそうで、俺はそれ以上、膨れ上がった感情と向き合うことを放棄した。  俺はかつてないほどに濁り、汚いまだら模様になった心を持て余し、膝を抱えた。俺のうつむいた頭が扉にごつ、とぶつかる。 「……くそ、返事しろよ……」  噛みしめた歯の奥から吐き出した悪態は、固いドアの木材に吸い込まれて消えた。  静まり返った探偵事務所は、死んだように静寂したままだった。  FILE 02:鳥の夢告  事件終了

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