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03

 俺は車内の重たい空気を持て余すように、意味もなく何度もステアリングを握りなおす。  おそらくだが、桂木は俺が諸々の事情を知っていることに気づいている。気づいていてこんな風に黙っているのは、俺に事情を話したのが、前原だからだ。そうでなければこれほど、桂木が無反応なわけがない。  桂木の抱える秘密はとてもデリケートだ。俺がその秘密を知っているとして、桂木が“いつどこで誰から聞いた”と問い詰めてこないわけがない。  それがないということは、前原にそれほどの信頼を置いているから。もしくは、前原が桂木に、事前に了承を得ていたのかもしれない。自分の口から、桂木の事情を俺に話すことを……。  遅かれ早かれ、いつかは知らなければいけない事実だったことを思うと、後者の方が納得できる気がした。  とはいえ、俺はいまさらながら、他人の秘密を勝手に知ってしまったという事実に、じり、と罪悪感を覚えた。 「……あー、それから、これから行く現場についてだがな、」  前原が唐突に、重い空気に負けじと声を張り上げる。 「他の捜査員がまだその辺にいる。俺たちは遺体発見場所の記録のために呼ばれたって体だ。俺が適当に話してそいつらを寄せ付けないようにするから、吉野。お前と先生は変に目立たないよう気い付けてくれ」  他課の捜査員と一緒に仕事をしたことはある。が、それはあくまであちらの手伝いとして駆り出された時のことだ。“支援班”本来の仕事を、その実情を知らない同僚たちの只中でするのは初めてのことだった。  目立たないようにしろと言われても……と、ちらりとミラー越しに桂木を盗み見る。俺はともかく、よくよく顔を見れば捜査員の一員でないことがわかってしまう桂木を、どう目立たせないように行動させたものか。  あいにく桂木の体は結構大きい。上背もある。この存在感をどう隠せばよいだろうか。 「ああー、野次馬もぎょうさんいるらしいから、そっちにも目を付けられないように」  俺の心労など知らない前原が、くぎを刺すようにそう付け加える。  さらなる厄介な問題を提示されて、俺は苦々しいものを口に含んだような気分で顔をしかめた。  語るべきをすべて語った前原が口を閉ざした瞬間、狙ったようなタイミングで、車は目的の河川敷へ繋がる道へと差し掛かった。ここまで来ると、目視できる範囲に警察のバンや、付近を封鎖し警備している捜査員の人影が見える。  徐行しながらゆっくりと近づいていくと、警備をしていた男の一人が自分たちの車両に気が付き、駆け寄ってきた。  男が車の窓をノックする前に窓を開けると、すかさず前原がそつなく身分証を呈示する。  車はするりと道を通され、ほどなく、いくつかの警察車両が横付けされた道路の一番端っこに収まった。  車を止めたのは、住宅街の中にある細いT字路だった。T字の横棒にあたる道路は件の袖引川に沿うように走っており、道沿いに備え付けられたガードレールの向こう側は、3メートルほど下に川の水面が覗く。川の両岸には、水際から続く平坦な地面が続いている。とはいえ、その地表は青々と茂った雑草や低木で覆われており、道路の上から身を乗り出してもその地表は見えない。  道路と川原の間には、護岸ブロックに覆われた土手が斜めに続いている。土手は急角度で降りるには適さないが、この道沿いをしばらく進んだ場所にある石階段を用いることで、川原に降りることができる。  現在、やや遠くに見えるその石階段周辺は、立ち入り禁止の黄色いテープや、往来をさえぎるように駐車された大きなバンで囲われている。  そしてその周囲では、動き回る紺色の制服の人間と、雑多な恰好で一か所にかたまり、川のほうを一心に覗いている人間が、それぞれに群れを成していた。 「あちゃぁ、思ったより野次馬が多いぞこりゃ」  その光景を見て背後の前原がつぶやいた。  通報されたのは朝6時、そして現在は昼過ぎ。集まっている野次馬は近所に住む主婦やご老人が多い印象を受ける。  そりゃあ、自分の家の近所で死体が発見されたとなれば、気になって見物に来るのは道理だろう。今回は事件が起きた場所が悪かった、仕方がない。  できるだけ人だかりの薄いところめがけて、前原が歩き出した。俺と桂木も黙って続く。そっと気配を殺して規制線に近づき、前原は端っこに立っている警察官に目立たぬように身分証を見せた。俺はただ黙って後ろに控えているだけだ。目立たないようにするためには、警察内部の人間と関わる役目は前原に一任するのが良いだろう。俺と桂木はできるだけぼろを出さずにおとなしくしているのが役目だ。  前原と話している警察官がちらりとこちらを見ると、神妙な顔で黙礼を返す。それで納得したのか、警察官は半歩分体を引いて俺たちに道を開けた。  立ち入り禁止のテープの内側は、さほど多くはないもののちらほらと捜査員が行き交っている。それぞれが忙しそうに右へ左へ動き回り、新たに現場へやってきた俺たちをわざわざ注視するような輩はいない。  俺たちは野次馬のほうにできるだけ顔を向けないようにして、川原へ降りるための石階段を下る。年月を経て崩れたり削れたりした階段は、斜めに傾いで下りにくい。鉄製の手すりが付いているが、その表面は素手で触ることを躊躇するほどの錆が浮いている。  階段を下り終えると、生ぬるい風がわずかな悪臭を運んできた。よどんだ水の、腐敗した匂い。町中に流れる川におなじみの悪臭だ。道路の上にいたときはあまり感じなかったが、さすがに川原に降りたときの匂いは強さが違う。と言っても、まだまだ我慢できる程度の匂いだ。  改めて周囲を見渡すと、階段のすぐ右手には踏み固められた土の道が伸びている。だがその道は、たった数メートルで生い茂る藪の下に消えていた。通る人間が減り、道が雑草に埋め尽くされてしまったのだろう。  今ではその藪は大勢の警察に踏み固められ、数本の新たな道が藪の奥へと伸びていた。  右手の藪に対して左手は、比較的草の生えていない乾いた地面が広がっている。その奥の川べりで、何やら作業をしている警察官たちの一軍がある。その中の2,3人が階段を下ってやってきた俺たちに気が付き、警戒するようにこちらに顔を向けた。 「よぉ、じゃあ、任せたぞ」  俺が何か言うより早く、ぼそりと耳元でしわがれ声がしたかと思うと、「いやぁ、ご苦労様です!」とよく通るがなり声が俺の横を通り過ぎて行った。連中が俺たちに声をかけるより早く、先んじて行動を仕掛けたのだ。  あっと言う間に、警戒の色を見せていた警察官の顔がほころぶ。知り合いだったのだろうか、やけに親し気に前原と警察官たちはあいさつを交わしていた。 (……おっと、今のうちにさっさと現場へ……)  そう思って踵を返したところで、今まで存在をうっかり忘れていた桂木と、真正面から向き合う羽目になってしまった。まだ心の準備ができていないというのに、ここからは桂木と二人きりで調査を行わなくてはならない。焦りと緊張が同時に押し寄せてきたが、桂木がふっと俺から目をそらし、急くように歩き出したことで、俺の気まずい表情は見られずに済んだ。  そして道のついた藪の中へ分け入っていく桂木の背を目に、ため息を一つついて腹をくくる。仕事にいつまでも私情を持ち込んでいてはいけない。目の前の事件に集中するのだ。桂木とはいつも通りに接すればいい。  言い聞かせるように、桂木の後を追って藪に飛び込んだ。桂木との“いつも通り“の接し方って、なんだっけ? という疑問は無視した。

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