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04
時に大人の背丈ほども伸びた藪の中は、しばらく進むとぽっかりと開けた場所に出た。もともとはこのように開けた場所ではなかったのだろう。足元は今まで通ってきた道と同じように、草が踏み固められてぺしゃんこになっている。そんなミステリーサークルのごとき空間が、広さにして直径2m程度のいびつな円状に広がっていた。
空間の奥まった場所に、背の高い樹木が密集して生えていた。この樹木は川原から生えているにも関わらず、川原より3mほど上にある道路を優に追い越して梢を広げていた。その樹の根元周辺は、雑草もうっすらとしか生えておらず、地面がむき出しになっている。その一部が今、大きく掘り起こされ、傍らに畳んだビニールシートが置かれていた。
(…………ここだ)
濃い色の湿った土が散乱するこの穴から、遺体が見つかったのだ。俺はそっと、桂木をよけるように回り込む。おそるおそる、といった歩調でその穴へと近づいた。
現場での主な調査は既に終わっている。鑑識も入り、捜査員も入り、そして遺体も何もかも運び出された。今その穴は、何も入っていない虚ろな穴である。それでも、つい今朝までは人が入っていたその穴を、俺はこわごわと覗いた。
そこにはやはり、何もなかった。自分でも何を期待して覗き込んだのかわからないくせに、妙な安堵を覚えて―――次の瞬間、体の左側に一斉に鳥肌が立った。
(あっ……)
とっさに右に飛びのいて、俺はそれを見た。穴の左横に、一人の女性が立っていた。
さっきまではそこに何もいなかった。俺が穴を覗き込んだ瞬間、そこに女性が現れた。水色のカーディガンにグレーのスカートで、肩につくくらいの茶髪姿の、いたって普通の恰好をした女性が。
頭上の少し離れた道の上では、目の前のこの女性のような、ごくごく一般的な見た目の女性が野次馬の中にたくさんいるだろう。だがわかっていた。彼女はこの近所から集まってきた野次馬ではない。まして生きている人間ではない。
彼女が、一之宮弓枝だ。今朝足元の、この穴から発見された、被害者だ。
「…………」
彼女、一之宮弓枝は、一言もしゃべらず、自分の足元の少し先の地面を、じっと見つめて動かない。
俺はとっさに桂木に目をやり、桂木がどんな反応をしているのか観察した。
桂木は、何を考えているのか地面に空いた穴を一心に見つめている。なんだその反応は、と思いつつ、俺は弓枝と桂木を交互に見やった。
普通の人間のように見えるとはいえ、弓枝は幽霊だ。ここ最近の俺は、幽霊というものに関わればすなわち散々な目に合うと身をもって体験している。果たして、普通に声をかけてもいいものだろうか。
そう考えあぐねていると、先ほどまで一之宮よりも穴のほうを注目していた桂木が、「一之宮さんですね」と女性に声をかけた。少しほっとして、桂木を振り返る。桂木はこんどこそ、そこに佇む女性の姿を見つめていた。
その様子は、いつもの捜査と同じように、冷静で落ち着いて見える。支援室の中で見せたような冷たい怒気はみじんも感じさせない。
その穏やかさの下に、激情を押し殺しているのだとしたら。それをみじんも感じさせない桂木の底知れなさに、一之宮に感じたものとは別の類の戦きを感じた。
一之宮はしばらく間をおいて、ゆっくりと顔を上げた。その面は力の抜けきった、茫洋とした表情だ。
そしてゆるゆると首を巡らせ、俺と、そして桂木の姿を視界におさめると、ほんの少し首を傾げた。
「一之宮さん、私たちがわかりますか」
「……」
桂木が一歩、一之宮に近づく。一之宮はまだ、何が起こっているのか把握しきれていな表情でその場に佇んでいる。
「一之宮さん。私は、あなたが見えています。あなたに話しかけています。……わかりますか?」
「…………わたし、」
ぽつり、と一之宮の唇の動きに合わせて、か細い声が聞こえた。
「わたし、わたし……死んだの。あなた……わたしが、わかるの?」
ぼんやりとした問いかけに桂木が頷くと、一之宮の表情が初めて、ほんのわずかに動いた。虚ろな目がじんわりと、桂木に焦点を結ぶ。
「はい。あなたが、わかります。見えて、そして聞こえています。……私たちには」
付け足すようにそう言って、桂木がちらりと俺のほうに顔を向けた。仕事をしろ、と怒られたような気がして、俺も慌てて、そろそろと二人のところへ近づく。
一之宮のほうは、そんな俺の動きなど眼中にないかのように、ふいと顔を俯かせる。痩せた手指でぎゅっとカーディガンの胸元を握り締めると、ぼそぼそと誰に言うでもなく呟いた。
「……わたし、家に帰らなきゃならない」
途端に一之宮はその場でよろめくように後ずさった。地面に吐き出すように叫ぶ。
「わたしっ! 早く家に帰らなきゃ……! わたし……」
「お、落ち着いて。一之宮さん、少し落ち着きましょう」
その様子があまりに痛々しく、とっさに彼女に感じた寒気も忘れて駆け寄った。
一之宮の前で屈みこんで、その顔を覗き込むようにして語り掛ける。交番時代に染み付いた対応方法だ。腰をかがめて目線を合わせ、ゆっくりと静かに話す。むやみに相手には触れない。最も、だいたいはお年をめした女性に発揮される対応方法であったが、今の一之宮には効いたようだ。
未だ不安そうな表情ではあるものの、俺と目を合わせてくれる。その反応は“普通の”女性と何ら変わったものではないように、俺の目には映った。
「あなたに、聞きたいことがあるんです。あなたは、その……えっと、ご自分が……」一瞬その言葉を口にするのをためらって、一拍置いて言葉をつなぐ。
「ご自分が、亡くなっているということを理解してらっしゃる……のですね?」
一之宮はその問いに、静かに頷いた。そして、先ほどと同じ言葉をもう一度呟く。
「……早く家に、帰らなきゃ……」
一之宮はどうやら、意思疎通のできる相手のようだ。しかし、明らかに情緒が不安定でもある。聞き方や言葉に気を付けなければならないだろう。
先ほどとは逆に、今度は俺から背後の桂木にちらりと目線を送る。このまま話を続けても大丈夫なのか、危険はないのか、その問いかけの意図が通じたのかはわからないが、桂木はただ黙って俺を見ていた。
……さすがに、危険があれば桂木が止めるだろう。そう思って、俺は一之宮に向き直った。改めて彼女に問いかける。
「……その、大変な状況だとは思いますが、いくつか聞かせてください」
「…………」
「あなたは今朝、一人の男の子を、この場所に案内しましたか?」
いきなり、自身の死んだときの状況を聞くのは酷な気がした。なので、まずは現状、捜査員たちの頭を困らせている “怪異と思しき事象”について、尋ねてみた。これが明らかになれば、いるはずもない不審者を捜査員たちが探す手間が省ける。
じっと一之宮の反応を待っていると、彼女はこくりと頷き、吐息交じりの声で答えた。
「……そう。見つけてもらいたくて。わたしの、死体を」
わたしの死体。一之宮はためらいもなく、その厭わしい言葉を口にした。言葉が止まりそうになるのをこらえて、先を続ける。
「あの少年に声をかけた理由は?」
「たまたま。わたしの手が届くところまで来てくれて、そしてわたしと、目が合ったから」
そこまで言って、一之宮はふいと顔を上げる。目の前の俺と、斜め後方にいる桂木をじっと見比べる。
「あなたたちにも、見えるのね」
頷いた。多分、後ろにいる桂木も頷いただろう。一之宮は初めて俺たちの存在に興味を持ったかのように、ぼんやりとした眼を俺と桂木に向けてくる。
「みんな、わたしのことに気が付かない。たまに目があった人はみんな逃げていくの。あなたたちは、見えるけど、逃げないのね」
「……そういう仕事なもので」
皮肉と自嘲を込めて言った言葉に、一之宮は首を傾げただけだった。幽霊に皮肉は通じないのかもしれない。
……そろそろ、遠回りな問答は切り上げ、本題に入らねばならない。すなわち、“誰が一之宮弓枝を殺したのか”と言う命題だ。
それを本人に聞くのはとても残酷なことだと思う。だがそもそも、こんなこと普通ならありえない状況だ。その奇妙な違和感と、“おぞましい”ような、“忌まわしい”ような、じんわりとした不快感が、もやもやと胸にまとわりついているような気がした。
その不快感を断ち切るように、一之宮に尋ねる。
「あなたは、……あなたをこんな風にした犯人を知っていますか?」
女性はふつっと口を閉ざした。しまった、と思った瞬間、みるみる彼女の目が見開かれ、真一文字に引き絞った唇が細かく震えだす。痙攣するように首を横に振り、よろめくように2,3歩後ろに引き下がった。
とっさになだめようと口を開きかけて、その先の言葉を封じるように一之宮が口を開いた。
「し、知らない。覚えてない」
「こっ、怖いことを思い出させてしまって、申し訳ありません。ただ、事件の解決のために何か、少しでも覚えていることがあれば……」
なおも首を振る一之宮は、俺から逃れるように身を引く。大きく掘られた穴が一之宮の足元近くに広がっている。それに気づくことなく、一之宮はその場で身を縮こめる。俺が口を開いて何か言おうとするたびに、内容も聞かずに首を振り、何も聞きたくないと拒絶を示した。
「いや。話したくない。なぜ? なぜあなたたちに話さなきゃいけないの?」
怯えの中に、俺たちに対する敵愾心が加わった。目の前の男二人に対する猜疑と憤り、そしてそれをはるかに凌駕する恐怖。一之宮は荒い吐息を吐きながら、じっとこちらを睨みつけていた。
その様子は見ていて心が締め付けられるようだった。が、しかし。こちらもこのまま、彼女を放っておくわけにはいかない。こちらにはタイムリミットがある。前原が捜査員たちを遠ざけている時間。そして、彼女がこの世から消えてしまうまでの時間。そのわずかな時間に、なんとしても手に入れなければいけない情報がある。
ためらいつつ、再度口を開こうとしたその時、背後にいた桂木が俺の横を通り過ぎて前に出た。俺の目線は自然とその姿を追う。桂木は、穴のそばに立ち尽くす彼女に近づいて言った。
「あなたを殺した犯人は、私の大事な人を殺しました」
気遣いも、遠慮も、保身もない、ノーガードゆえに鋭いその言葉は、一之宮の防御をあっさりと破壊して、彼女のもとに届いた。
そして俺も、余りに無防備な桂木の言動に息をのんだ。
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