50 / 120

05

 桂木は猫背気味の背中を俺に向け、まっすぐ一之宮を見つめている。対する一之宮は虚を突かれたように放心していた。  その呆けた表情のまま、一之宮は、まるで幼い少女のようなたどたどしい口調で桂木に問いかけた。 「あなたの大事な人……? 殺されたの、あの男に?」  桂木は無言で頷いた。しばらくの間、二人は無言で見つめあっているようだった。俺はその間、口をはさむこともできず、桂木の斜め後ろでその様子を見守ることしかできない。  やがて、二人の間に流れていた一種の緊張が、ふっと緩んだ。一之宮が何かを悟ったように目を閉じ、「……わかったわ」と返事をした。  彼女は息を整えるようにしばらく目を閉じた後、ゆっくりと瞼を持ち上げる。 「でも……でも、わたし。……本当にあの男の顔は、覚えてないの」  一之宮はゆっくりと、言葉を吟味するように間を置きながらしゃべる。いや、もしかしたら、ただぼーっとしているだけなのかもしれない。そんな風に思えるほど、彼女の表情も声音も、ふわふわとした頼りないものだった。  その声と表情を少しでも捉えられるよう、俺も桂木の横に並ぶように前に出る。その桂木が、ひやりとする一言声を発した。 「……覚えていない?」 「……その……ごめんなさい」  桂木の顔をそっと盗み見ても、覆い隠された目元からは表情が読み取れない。完璧なまでの無感情がいっそ恐ろしい。それでも、桂木の期待を裏切ったという自覚があるのか、一之宮は視線を横にそらしながら、事件当日の状況を話し始めた。 「わたし、その日は友人と遊びに行っていて……夜になって別れて……そこから、家に帰ろうと思ったの」  彼女は一瞬、ふっと遠い眼をする。まるでその日の記憶に思いをはせるように。 「初めて行った場所だったから……スマホで地図を見ながら歩いていて―――しばらく歩いて……今まで、通ったことのない、とても静かで、人気のない道に入った……その道は、家の近くだったから、知ってはいたけど……今まで通ったことのない初めての道だった……」  脳裏に、薄暗い夜道を一人歩く一之宮の姿を想像する。それは自然と、今さっき見たばかりの風景……川沿いの住宅街の風景になった。 「道が細かくて、分かりづらくて。ずっとスマホを見ていたら―――誰か、背の高い男の人ととすれ違ったの。向こうから歩いてきていたのにずっと気が付かなくて……すれ違う瞬間に初めて気が付いたのね。それで……あっ、人だ、と思ったら、急にガンって頭がゆれて……今までスマホの画面を見ていたのに、突然目の前が真っ暗になって……そして頭がカッっと熱くなって、ずきずきして―――…………」  スマホを見ながら歩いている一之宮を、すれ違った長身の男が殴りつける情景が頭に浮かんだ。  一之宮の言葉は状況を主観的に見た描写でしかなかったが、それはおそらく、彼女がその一瞬のうちに何が起こったのか理解できなかったからだろう。彼女はまったく無防備な状態で、犯人に襲われたのだから。 「ただ暗くて、頭がずきずきして、しばらくぼんやりしてた……。どのくらい時間が経ったかわからないけど、気が付いたらわたしは寝っ転がっていて……」  一之宮は自分の額に手をあて、ぎゅっと目を瞑る。うつむいた彼女の額にひと房、ふた房と髪の束が垂れ、その隙間から声が絞り出される。 「どこか、知らない、建物の中だった……。灯りと、屋根と、壁があって―――どれもぼろぼろで……わたしは頭が痛くて、体もだるくて、動けなかったの。―――そうしたら、目の前に誰かが……こう、私の頭の上のほうにしゃがんで、顔を覗き込んでいるような気配がした……」  桂木がその言葉にわずかに顔を上げる。しかし、彼女は桂木の抱いた期待を先読んだかのように首を振り、 「顔は、見えなかったの。……頭を上げて顔を見ようとしても、頭が重くてできなくて……そこで、身動きしてはじめて、自分の手が縛られていることに気づいて……それは、男が私の、手を……手を持ったから……両手が一緒に持ち上がって…………わたしの目のまえに……」  そう言いながら一之宮は自身の両手をゆっくり持ち上げて、眼前にかざした。  その手をじっと見つめる一之宮の表情に、徐々に恐怖が広がっていく。 「わ、わた、わたしの手が、床に押さえつけられて、そ、そ……それで、指……ゆびを……」  一之宮がその手をかばうように自分の胸に抱え込む。そのまましゃがみこんだ彼女に、俺はとっさに駆け寄った。  俯く一之宮に近づき、声をかけようとしたその時、 「わたしのゆび」  これまでのか細い声ではなく、震えるほど力のこもった声で彼女が言った。それは叫びたいのを押し殺すように震え、上ずっていた。  異様な声に驚いて俺は中腰で固まる。その俺の目の前で彼女は続けた。 「包丁で野菜を切るみたいに、手の甲を押さえつけられて、薬指を根元から、切られて、痛くて、すごく痛くて……」 「…………」  本当は叫びだしてしまいたいのをこらえて震えているのは、彼女が心から恐怖しているからだった。ぎゅっと胸の前で手を握りこみ、そのこぶしに額をつけるように彼女は身を縮める。おこりのように震える背中に合わせて、粗い呼吸がふーっ、ふーっと聞こえた。  俺は、自分の指の付け根に、ひたりと冷たい金属があてられたような気がして、一気に手首から二の腕まで怖気が走った。そんなはずはない、と慌てて拳をぎゅっと握りこむ。手のひらに食い込む爪の感触に、まやかしの感触はふっと霧散したが、腕を這いずった寒気はなかなか消えない。  自分が大量の嫌な汗をかいていることに気が付く。しかし、彼女の言葉はまだ止まらない。 「いっ、痛くて、ほんとに痛くて……身をよじっていて、気が付いたら、男の口元が見えたのよ。……切ったわたしの、指を、口にくわえて……わたしの、指先が唇から見えていて、それで……口元が、笑って、」 「…………」  女の、細い指の根元が唇に挟まれ、関節がゆったりと曲がった指先がぷらぷらと揺れる。にんまりと笑みの形にゆがんだ口。その悪意に満ちた情景を脳裏に描いてしまい、俺は吐き気を催した。 「その後は……はっきりと覚えていなくて……。気が付いたらわたし、ここに……この、川原に立っていたわ」  一之宮はその言葉を言い終えるまでの間に、さっきまでの押し殺した恐怖が急に薄れて、最初の茫洋とした語り口へと戻ってしまっていた。  力を抜いた手をそろそろと降ろし、顔を上げ、ゆっくりとかがんでいた背を起こす。そして、ぐうるりとその場で首を巡らせて、傍らに開いた穴に視線を止めた。 「……ちょうど、このあたりに立っていたはず。なんでわたしこんなところにいるんだろうって、家に帰ろうとするのだけれど、階段を上って道路を進んでいくと、いつの間にかここに戻ってきてしまって。……道路にいる人に声をかけても、わたしに全然気が付かないし、触れようとしても触れられないし、」  ああ、と一之宮はため息をついた。そしてまた息を吸い込んで、言葉と共に吐き出す。 「……ああ、わたし、死んでるんだなって」  言葉に合わせて吸って吐いてを繰り返す、その動作は生きている人間と変わらないのに、彼女はもう本当の意味で、息を吸うことも吐くこともできない。死んでいるのに、そこにいる。それを自覚することは、その感覚は、いったいどんなものなのだろう。 「何人かは、わたしが見えている……ような、そんな感じの人も、いたんですよ。でも、みんな見ないふりして逃げて行ってしまうから……でも、あの子は違ったわ」  目撃者の小学生、梶原慎吾のことだろう。一之宮はその場にその男の子がいるかのようにそっと手を伸ばし、きゅっと何かを握る動作をする。 「こっちに来て、って手招きして……そしてら、近づいてきてくれたから、こう……手を握ったんです。連れていこううと思って」 「……えっ、どこに……」  一之宮の邪魔をしないよう黙っているつもりだったが、ついぽろっと口をはさんでしまった。連れていく、という言い方が何とも、不気味に聞こえてしまったためである。  そんな俺の相槌に込められた勘違いに気づくことなく、一之宮はこう答えた。 「どこに……わたしが埋まってる場所に、です」 「…………あ」 「……わたしを、見つけてもらおうと思って、」 「そ、そうでした。すみません」  そういえば、そのことについて、彼女が現れてすぐに尋ねたのは自分だった。つい、ぞっとするような彼女の語りに引き込まれて馬鹿な勘違いをしてしまった。  もごもごと口にした侘びを無視して、一之宮は俺に背を向け、穴の中を覗き込む。 「家に帰りたくて……見つけてもらえれば、わたしは帰れると思ったの」  帰れる、とはどのような意味を持っているのだろう。  確かに、遺体は発見されれば、彼女の家に帰されるだろう。そうすれば、目の前の“彼女”も家に帰ることができるのだろうか?  もし、そうではなかったら……。 「わたし、腐っていたのね」 「え?」  一之宮はなおも穴の中を見続けている。 「もう、戻れないのね」  彼女は、そうして見ていたのだろうか。ここに少年がやってきて、荒れた土の中から自身の遺体を見つけるのを。大勢の人間が、彼女の遺体を掘り起こすのを。多くの人間が彼女の死を認識していくその様を。  それは、今まで“行方不明”とされ、あいまいな状態だった一之宮弓枝という女性が、“殺害”され、死んでいるのだと、世間から判定される瞬間だったはずだ。 「本当に、わたし、死んでいるのね」  彼女は自分の目で見、他人に判定され、抗いようもなく自分自身の死をその時に確信した。  振り返った彼女の諦観の表情を見ても、俺はどう彼女に声をかけていいかわからなかった。

ともだちにシェアしよう!