51 / 120
06
「辛いことを思い出させてしまい、申し訳ありません。聞かせていただきありがとうございました」
それまで沈黙していた桂木が、そう穏やかな口調で一之宮に言った。しかし、その言葉に彼女は首を振る。
「いいえ……わたし、何も……役に立つようなことを、何一つ覚えていなくて……」
相変わらず感情の希薄な声だったが、一之宮は申し訳なさそうに言う。その声に対して、桂木からの返答はなかった。
恐る恐る振り向くが、先ほどと同様桂木の表情はまったく読めない。だが、桂木の発した声からは、心から一之宮を気遣う気持が、一切感じられなかった。なんの感情も乗っていない、自動的に発せられたねぎらいの台詞にしか聞こえなかった。
(……犯人の情報を手に入れられなくて、怒っている……のか? それとも苛立ってる?)
だめだ。何も読み取れない。桂木が今、何を考えて感じているのか、自分にはさっぱりわからない。
ここにいるのは本当に生きている人間なのかと疑ってしまうほど、桂木の心が読み取れない。
「……わたしの体……運ばれて行ってしまったけど、どうなるのかしら……」
ぽつり、と呟いた一之宮に向きなおる。彼女は視線を上に向け、川沿いに走る道路の先を見つめている。
俺が慌てて口を開く前に、平然とした様子で桂木が答えた。
「あなたの体はしばらく警察に預けられますが、その後、あなたのご自宅へ帰されます」
本人を気遣ったのかどうかは疑わしいが、直接的な物言いを避けた言葉だと思った。一之宮の遺体は、すでに最寄りの大学病院に運ばれ、司法解剖を受けている。遺族のもとに帰される前にしかるべき処置をされはするが、彼女の遺体は既に、考えようによっては、むごいと思われても仕方ないような仕打ちを受けている。
「……そう、なの……」
桂木の返答を聞いた一之宮の答えは、なんだかすっきりしないものだった。一之宮の表情を見ると、どこかもどかしそうな表情で、唇を開きかけたままだ。まるで、他に何か桂木に言いたいことがあるかのようだ。
そこで気が付いた。一之宮が欲していた答えは、そっちではなかったのだ。
先ほど、俺も同様の疑問を抱いた。彼女が知りたいのは、自分の遺体がどうなるのかではなく、“今ここにいる彼女がどうなるのか”。それが知りたかったのだ。
しかし、彼女の半開きの口からは、再度それを問いなおす言葉は出てこなかった。
代わりに、一之宮がつぶやいたのは、
「……わたしの死体は家に帰れるけど、でも、すべてが戻るわけじゃないんだわ」
それは、どういう意味の言葉なのだろう。真意を測りかねて、俺は一之宮を見た。
その時の一之宮は、ぞっとするほど青白い顔色で、無表情だった。瞬間、脳裏に、1時間ほど前に俺が支援室に入った瞬間に対峙した、桂木の姿がよみがえる。桂木の、白くなるほど握られた拳と、目の前の彼女の顔色を失った表情がだぶる。
あの時の桂木から感じたもの、それと同じもの―――憎悪を、彼女は吐き捨てた。
「だって、わたしの一部はあの男に食べられてしまったんですもの」
さぁっ、と首筋に鳥肌が立つ。唐突に殺意とも呼べるような感情をぶつけられ、息をのみ立ちすくんだ。その瞬間だった。
あ、と思う間に一之宮の体が俺のいる方向へ傾ぐ。次の瞬間には、目の前に彼女のぎょろりとした瞳が迫っていた。両腕に縋り付く一之宮の手の感触と、ずっしりとした重みを感じながら、俺は悲鳴すら上げられずに固まった。
「わたし、どうしたらいいのかしら」
「…………あ、」
彼女の顔から、ハラハラと髪の毛が滑り落ちる。唐突に、強烈な土の匂いと、腐臭が鼻を襲った。同時に肌の上をすぅっ、と冷気が撫でていく。
「早く家に帰らなきゃ……。このままここにいると、わたし……あの男が憎い。憎くて苦しい。―――私はどんなに願ってももうあの世界に戻れないのに、あの男はこんな、川原で腐っている私のことなんて知らずに毎日を生きている。罰も与えられず生きている。食って寝て笑って生きている。それが憎い。憎くて憎くて……―――どうにかなってしまいそう」
「一之宮、さん……」
目の前でぽとぽとと涙をこぼす一之宮から目が離せない。だから、彼女の頬の肉や唇の肉が、少しずつ変色し、ゆがみ、はがれていく様からも、目をそらすことができなかった。
ぼと、ぼと、と肉片が彼女の足元に落ちる。はがれた皮膚の下から濁った汁があふれ、黒い血と混じって流れ落ちていく。
「あ……う、うぁ…………!」
呼吸と共に麻痺していた声帯から声が漏れ出す。もう少しで悲鳴を上げる、というところで、彼女の左手が取られ、俺の二の腕から引きはがされた。
手を取っていたのは桂木だった。桂木は、一之宮の手を取り、自分の方へと体を向けさせる。一之宮は抗う様子を見せず、素直に桂木に向き直り、俺の腕を離した。
俺は硬直したまま目の前の桂木と一之宮を見つめる。桂木は、一之宮の半分腐り落ちた顔に頓着することなく、顔を近づけて言った。
「では、あの男が死ねば、満足しますか」
一之宮は桂木の発言に顔を上げる。しかし、彼女は何も言わない。顔や体の崩壊はその間も止まらない。どころか、俺は見てしまった。
腐り落ちた皮膚の向こうに、赤黒いものがちらちらと見える。皮膚の下の筋組織かと思ったが、つるりとなめらかな面をもったそれはまるで、日焼けした皮膚が剥けて下から赤い皮膚が現れてくるかの如く、腐り落ちる肉の下にある新たな皮膚のように見えた。
それだけではない。彼女の眉間や頬骨が、ぼこり、と盛り上がり始めている。額に浮き出た血管のように、どくどくと脈打ちながらそれは徐々に膨らんでいく。それに伴い、目じりが吊り上がり、鼻に深いしわが刻まれていく。一之宮の容貌が、目の前で、何か恐ろしいものへと変貌していく。
―――化け物になっていく。
反射的にそう思った。人ではなく、何か別の、この世ならざる者に変わり始めている。
だが桂木は、そんな彼女の変化に構うことなく、なおも彼女の顔をまっすぐと見て、ゆっくりと穏やかな声で語り始める。
「満足しませんよね。あの男がどこかで野垂れ死んだとしても、あなたに欠けてしまったものは戻らない。では、私があの男を殺して、その一部をあなたに届けましょう。これで、あなたの欠けたものは埋まりませんか?」
めちゃくちゃな内容だ。口調と内容のどぎつさのギャップに頭が混乱する。だが、それよりもなによりも、ちらりと垣間見えた桂木の表情に背中が凍り付くような感覚を覚えた。
桂木は、語られる悍ましい内容に似つかわしくない、穏やかな顔をしていた。かすかに笑みすら浮かべていたかもしれない。だというのに、桂木の長い前髪の間から垣間見えた、柔らかく形作られた目には、ぞっとするような悪意がある。まるで、この瞬間を悦んでいるかのように。
俺はその寒気を覚えるような光景に、驚愕や忌避の感情がキャパシティを超えて、ただその光景を見つめるしかなかった。
桂木に手を取られたままの一之宮は、じっと桂木を見つめる。その顔はもう半分ほどが腐り落ち、その下にあった赤い皮膚のようなものをあらわにしていた。眉間の隆起はより強固なものになり、人の顔とは思えないような濃い影を落としている。
そして、紫色の歯茎がむき出しになった口を動かして言った。
「あの男を、殺したら……?」
「そうです。あの男を、殺したら…………約束します」
彼女は一瞬、一気に顔にかけていた力が抜けたかのように、放心した。そのとたんに、凶悪な表情をつくっていた顔の隆起が収まっていき、こわばっていた表情がほぐれていく。思案するように彼女が一度俯き、そして再度桂木に顔を向けると、そこには腐りかけていた痕跡などかけらもない、初めに見た一之宮の顔があった。足元に散らばっていた腐肉も、強烈な異臭も跡形もない。
彼女は桂木に再度、確かめるように問いかける。
「…………本当、なのね?」
「ええ、約束します」
その返答を聞き、彼女はゆっくりと目を瞑った。
「そう……」
ため息のようにそう呟くと、一瞬の瞬きの間に、一之宮の姿は忽然と消えていた。
現れたときと同様、唐突に消えた一之宮に、俺は驚かされつつあたりを見渡す。当然のように彼女の姿はどこにも見えなかった。
07
(消えた……。一之宮さんは、もう……)
幽霊はこの世に未練がなくなれば成仏する、という観念は存在する。彼女はこれで……桂木との約束に満足して消えたのだろうか?
いや、しかし、桂木との約束をそのまま解釈するならば、彼女が消えるのは桂木が犯人を殺し、その遺体の一部を彼女に届けたときなのではないか。
桂木が、穴のそばにしゃがみこむ。その背中に俺は声をかけた。
「……一之宮さんは、消えてしまったんでしょうか」
「……さあ、分かりません」
桂木が首を振って言う。
「幽霊であれなんであれ、怪異全般に言えることですが、彼らはこの世に残りたいという気持ちに有無に関係なくそこに存在します。たまたま出来事の背景や文脈に沿う形で、出現したり消滅したりすることもあれば、この世に存在する理由が無いのにいつまでも消えることのできないものもいる。彼女は犯人に復讐したいと言いました。そして俺は彼女の復讐を叶えることを約束しました。それで満足して消えたのかもしれないし、私が犯人の死体を持ってくるまで、この川原や、彼女の家で待ち続けるかもしれない」
「そんな……、ど……」
反射的に言いそうになった、「どうかしている」という言葉をかろうじて飲み込んだ。
彼女が化け物になることはなかった、と思う。だが、彼女は待ち続けるかもしれない。ずっと帰りたかった家に帰るために、桂木が持ってくる犯人の肉片を、ひたすら待ち望んで、川原に立ち続けるのかもしれない。
悍ましい、と思った。
桂木が一之宮に約束した復讐も、復讐の約束を受け入れた彼女のことも、何もかも間違っている。絶対に正しくはない。しかし、何かが俺の喉をふさぎ、否定する言葉を飲み込ませた。
桂木はこちらを見ず、顔を俯けたまま言う。その声からはようやく、感情と呼べるようなものを感じ取れた。あきらめや、疲労、惰性。そして虚無。
「復讐しても無駄ということはわかっていますよ。やったところで、一番戻ってきてほしいものは戻らない。誰も生き返らない。そうですよね。でも、一時的とはいえ、埋まるんですよ」
桂木が疲れたように、両手で顔を覆うと、顔の表面を拭い去るように手を滑らせ、顔の前で掌をひたり、と合わせた。視線は斜め上の、遠い空の上を見ているようだった。
「もう絶対に、これまでの日常は戻らない。それでも、少しでも楽になるなら、せざるを得ない。俺は、糞みたいな日々が少しでもましになるなら、復讐を選びたい」
そう告げると、桂木は合わせていた手をほどき、両手を膝に突いて立ち上がった。そして半身をこちらに向けるように振り返る。前髪が揺れて、今日初めて桂木とまともに目を合わせることができた。半眼を縁取るまつ毛の中心に、黒い瞳があって、こちらを射貫いてくる。
その時、俺は初めて気が付いた。桂木の黒い眼は、底なし沼のように暗く、深い黒だと思っていたが、光を受けるときれいに光を反射する。
とてもきれいな目だと思った。
その目を見た時、俺は目の前にいる桂木が、生身の脆い体を持った、一人の人間のように感じた。
出会ってから今まで見せられていた桂木はすべて表面上のもので、この姿が本当の姿なのではないか、という直感。もちろん何の根拠もない。すでに俺は一度、桂木という男を見誤っているのだから、この直感もまた間違いである可能性は高い。
それでも俺は、目の前の桂木にひきつけられていた。
もう絶対に戻らないものを欲し続けるということ、それはどれほど満たされず、苦しいのだろう。
少しでもそれを埋めようとして、求め続ける狂気的な姿を俺は垣間見た。それは人とは思えなかった。化け物とすら思った。
だが、今の桂木は、己の気持ちを持て余して途方に暮れる一人の男にしか見えなかった。
(この人は……化け物じゃない)
気が付いたら、桂木の腕をぐい、と掴んでいた。
そして叫ぶように桂木に告げていた。
「桂木さん、俺も捜査を手伝います」
僅かに目を瞠った桂木に、俺は矢継ぎ早に言葉をつなぐ。なんの考えもなく口が勝手に喋りだしている感覚だったが、俺はそれを止めようと思わなかった。何の迷いも躊躇いもなく、体が正しい方へと走り出そうとしていると感じた。
「すみません、桂木さんの話は、前原さんから聞きました。事件のことも、桂木さんが何でこの仕事になったのかも」
「…………」
「勝手に聞いてしまって、本当にすみません」
がばっと腰から体を折って頭を下げる。そしてばね仕掛けのように体を起こし、再度桂木に向き直る。
「桂木さん、俺に、犯人探し、協力させてください」
「…………」
桂木はかすかにしかめた顔で、無言でこちらを見つめている。困惑とも嫌悪ともとれるような表情だった。
やがて桂木は口を開くと、
「……吉野さんは、それでいいんですか」
と、ぼそぼそと言った。桂木は続けて言う。
「俺は、犯人を見つけたら殺しますよ。誰が何と言おうと」
「その時は、俺が止めれば良い話です」
「あなたが止めて成功するかもわからない。俺があなたを出し抜いて犯人を殺害すれば、その殺人の一端に協力することになる」
「桂木さんが殺しに成功するかどうかも、わからないじゃないですか」
「いいんですか、俺はまた吉野さんを、……」
桂木が言いかけてやめた言葉に察しはついた。また俺を、見捨てるかもしれない、もしくは、利用するかもしれない。
そんなこと承知だ、と伝えるように俺は頷いた。
(誰であれ人を殺めるのは間違いだ。でも、桂木さんの恋人を見つけて、犯人を捕まえることには協力したい)
脊髄反射で放った言葉が、自分の脳に沁みていき、改めて自分がやりたいことを認識した。
桂木の無くしたものを少しでも取り戻したい。だが、彼が人でなしになることはどうしても止めたい。桂木がこれ以上苦しむのを見たくないからだ。それを見て俺が苦しくなるからだ。
(……あれ、なんか随分自分勝手だな)
ふと思ったが、そこは桂木も少しは自分勝手にしてもいいということで、イーブンとみなした。
桂木が俺を利用するならすればいい。それで犯人が捕まるなら、恋人の遺体が戻ってくるならそれでもいいだろう。
その代わり、俺はいざというときになったら桂木を止める。
それが、俺の出した答えだった。
「なんでもいいです。俺を捜査に加えてください」
もう一度、桂木に頭を下げた。桂木がどう受け止めるかはわからない。俺は俺の言いたいことをすべて言いきった。
俺がそのままじっと桂木の返答を待っていると、急に肩に手をかけられて、無理やり上体を引き起こされた。
そうして、真正面から顔をじっと見つめられる。俺の意思を最終確認するように。
「……頭を下げる必要はありません。頼まれずとももう、俺はあなたを利用しましたから」
「……そ? れは……」
その言葉に、この間の羽山での一件を思い浮かべた。桂木もおそらくそのことを言っているのだろう。ほんの少し怒っているような表情で桂木がふいと横を向く。俺の両肩から手を放した。
「そしてそれを……俺は、謝ることができません。きっと俺は、あなたが危険な目にあったとしても、残りの体と、芹沢を見つけ出すことを優先させてしまうと思うから」
改めてはっきりと言われると、少し堪えた。無言で黙っていると、桂木が一歩体を引き、再び正面から俺を見た。
「……今ならまだ間に合います。あなたのその言葉だけで十分だ。全部忘れて、この部署から去る気はありませんか」
そんな言葉に、俺ははっきりと答えた。
「そんな気はない」
桂木の見え隠れする瞳を探すように見つめる。
「俺が危ない目に合うかもしれないことは百も承知です。それでも俺は、桂木さんと、あんたの恋人のことを忘れて、このまま警察官を続けていくことなんてできない」
自分の中にある理想。警察官としてあるべき姿を想像したとき、そこに桂木を見捨てる自分はいない。その信念を曲げた瞬間、俺の残りの警察官人生は、この時の選択を後悔し続ける惨めなものになる。そんな確信があった。
俺の返答を受け取った桂木は、ぼそりと呟く。
「……もう後戻りはききませんよ」
それは実質、了承の言葉だった。俺は胸を張り、「望むところです」と答えた。
桂木は、大きなため息をついて、俺の顔から視線をそらした。そして今更のように、
「……そろそろ出ないと、怪しまれますね」
と、くるりと俺に背を向けた。もう、確認も念押しもいらないということだろう。俺は適当に「そうですね」と相槌を打ちながら、この空間から出るために進み始めた桂木の横に並ぶ。
今朝までは桂木と同じ場所にいるだけで強烈な居心地の悪さを感じていたというのに。またこんな風に、なんの気兼ねもなく桂木の横に立てると思うと、少し嬉しくもあった。
そうやって現場から離れようと歩く中、互いに前を向き、それぞれの姿が視界の外にある状態で、ぽつりと桂木が言う。
「最初にした、約束ですが」
「はい?」
隣に目を向けた俺は、桂木の、こちらを見ていない横顔をほんの少し仰ぎ見る。今見えるのは口元だけだが、桂木は真顔で話し続けている。
「俺が、吉野さんを怪異から守るという約束、」
「ああ……あれですか……」
「身勝手で大変申し訳ないですが、“可能な限り”守る、ということで継続させていただきます。協力していただく見返りには不十分かもしれませんが」
つまり、遺体の発見と犯人逮捕が何よりも優先されるが、その二つに関係しないところでは、怪異に困る俺の面倒を見てくれる、ということだろう。そんな律儀なところがあるから、桂木は根っからの悪人でないと信じることができる。
とはいえ、桂木の口に出したその約束は、俺にとっては不本意な約束でもある。だから俺は、「そんなのいいのになぁ……」とぼやきながら、桂木の後に続いて藪を踏み固めてできた道に足を踏み入れた。桂木はそんな俺の不満そうな声に聞こえないふりをしたようだ。
道を抜けると、タイミングよく近くに居た捜査員が、俺たちを見て声をかけてきた。
調査は終了した旨を告げると、その捜査員は遠くに集まっている捜査員たちに手を振って「撤収だ!」と合図を送る。
捜査員たちが声のする方を振りむく前に、俺たちはそそくさとその捜査員から離れた。
そこかしこにいた人員が動き出し、あたりがざわつき始める中、その動きと正反対の方向に進む。そんな二人の横に、あくまでも自然に前原が合流した。いったいどこからやってきたのだろう、と思う間に、前原は先を進む桂木に声をかける。
「……お疲れ様です。どうです、首尾は?」
「お疲れ様です。例の犯人に関して決定的な情報はありませんでしたが、それでも、いくつかわかったことがあります」
「おお、そうですか。収穫なしとはならずに済みそうで良かった。あー、あと、検死結果についてなんですがね……」
特段何か口に出したわけではないが、桂木と会話する前原はどこか満足そうだ。思えば、先ほどどこからともなくやってきたときから、なんだが嬉しそうな顔をしていた気がする。
そんな前原を見るともなしに観察している間に、桂木と前原の間でこの後の各々の動きが決められていた。
回収された一之宮の遺体の検死結果を入手するため、俺と前原は本部へ、桂木は報告書をまとめるために事務所へ向かうことになった。いったん車で桂木を事務所まで送り、そのまま俺と前原は本部に向かうことになる。
川原から道路へと続く階段を、桂木を先頭に一列で上っていこうとしたとき、階段に足をかけた前原が、列の最後にいた俺を振り返った。
「まったく、二人してすっきりした顔しやがって……。ほんとに、良かったよ」
何か口をはさむ間もなく、前原は、ばんっ、と思いっきり俺の肩を叩いて、さっさと階段を上っていってしまった。
羽山の一件からこっち、俺と桂木がぎくしゃくしていたこと前原は気にかけていた。普段は顔には出していなかったが、どうやら結構な心配をかけてしまっていたらしい。俺と桂木の間に流れる空気が変わったのを感じ取って、前原もほっとしたのだと思う。前原の足取りは足腰を痛めているとは思えない軽快な足取りだった。
さっさと先に行ってしまった二人を追いかけ、階段を上りきって、野次馬たちと逆方向の立ち入り禁止テープをくぐる。
その瞬間、ふと突き刺すような視線を感じて顔を上げた。身を起こしてあたりを見回してみても、こちらを見ている人影は見当たらない。
少し遠くでは、現場の川原に向けてシャッターを切る報道陣と、群れを成す野次馬の塊があったが、そこにいる人はみな、道路下の藪と捜査員たちに夢中だ。誰もこっちに顔を向けてはいない。
気のせいだったのだろう、と考えようとするが、ささくれ立った首筋がしつこいほどにいつまでも戻ってくれない。
どこか嫌な感覚を覚えながらも、俺はその場を去り、車へと向かった。
---
支援班の3人を乗せた車が、未だ道を占拠している警察の車両群を尻目に、現場を離れるのを見届けて、野次馬の群れから一人、ひっそりと抜け出す人影があった。
上背はあるが、どこか頼りなげに見える猫背の男の影。しかし、センセーショナルな事件現場に熱を上げている群衆のなかには、そのありふれた、どこにでもいるような男の影を気にも留める者は一人もいない。
男はもう一度、ちらりと車の走り去った方向を見た。思いをはせるようにしばらく立ちすくんだ後、ふらりと現場を背にして歩き出す。
そうして男は誰にも気取られず、ひっそりと道の角へ消えていった。
FILE 03:招く死体 事件終了
ともだちにシェアしよう!