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その声に顔を上げると、まっすぐにこちらを見つめる美津の視線と正面からぶつかった。とても真剣な表情をしている。
「麗奈の件と関係があるかはわかりませんが……サツキのことについて」
美津はテーブルの上に置いたままだったスマホを取り上げ、何か操作をして、画面をこちらに向けて見せた。
画面にはウェブサイトが表示されている。桂木と共にその画面をのぞき込んだ。スタイリッシュな字体で大きく表示されたタイトルを、声に出して読む。
「……セク、シャルマイノリティ……コミュニケーション?」
「知ってますか?」
「ええと、言葉の意味はなんとなく……」
自信なく答えた俺を見て、美津は無言でスマホを自分の手元に戻し、数秒操作してまた俺たちに画面を向ける。
「セクシャルマイノリティは、自分の持っている……っていうか自覚してる?……性が少数派な人のことです。このサイトはそういう人たちのSNSっていうか、情報共有ができるサイトなんです。……LGBTとかLGBTQ+とかって言葉は?」
「ごめん、LGBTは知ってるけど……Qとかぷらす、とかは、また違うもの?」
素直に白旗を上げて教えを乞うと、美津は真剣な表情で、丁寧に説明してくれた。
「LGBTは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーで、一般的によく知られているセクシャリティなんだけど、そのほかにもQ……クエスチョニングとかクィア、それからIはインターセックスって言って、男女の中間にある人、Aはアセクシャルで、無性愛の人。他にも、いろんな定義があって、そういうのを包括して“+”として表現してる……らしいです。わたしも、ネットで調べた知識ですけど」
美津はつっかえることなく、すらすらと説明しながら、スマホの画面を俺達に差し向けスクロールして見せる。画面には、それぞれの頭文字の意味と説明が細かく綴られていた。
理解できた? と美津の表情が問うていたが、俺はあいまいに頷くしかできなかった。正直いま説明された一つ一つの項目までは覚えていない、が、とにかくそういう性の志向には分類しきれない様々なものがあるということだろう。
俺は意識して、桂木のほうを見ないようにしていたが、どうしても気にせざるを得なかった。自分自身、こういうものに対して嫌悪の感情はないと思っているが、桂木に男性の恋人がいたと知っているので、どうしても気にしてしまう。
結局、桂木の気配は読めないまま、美津が話を進めだしたためそちらに集中するしかなかった。
「ここの、Aの項目。アセクシャルっていう性ね。……サツキは、自分がアセクシャルなんじゃないかって、悩んでいたの」
隣で、桂木が身じろぎする気配を感じた。自制する前にそちらへ視線を向けてしまう。桂木は俺に見向きもせず、まっすぐに美津を見ていた。
「サツキ、もともと恋愛話に興味が持てないっていうか、あんまり好きじゃなかったんだって。でも、わたしたちもそうだし、クラスメイトのほとんどが、恋愛に興味があって当然、って態度だったから、だんだん、自分は異常なんじゃないかって思い始めて、悩んでたんだって」
美津はスマホを伏せ、ゆっくりと自分の手を撫でながら語る。
「それに、みんなが恋バナするのに合わせて、自分も興味があるふりをするのもすごく辛くなってきていて、……夏休みの前ぐらいかな、思いつめて、わたしに相談してくれたの。私は、サツキの幼馴染だったから、それで頼ってくれたんだと思う。……わたしね、サツキは、恋愛じゃなくてもわたしのことを友達として大好きでいてくれるし、夕実のこともまるちのことも麗奈のこともサツキは大好きだって知ってたから。そういう今のサツキを、私は大好きだから、それで十分じゃないって、サツキに言ったの。恋愛で人を好きになれなくて別にもいいじゃんって。落ち込んでるサツキを励ましたかったの」
美津はそこでにっこりと笑った。その笑顔はほんの少し、さみしそうだった。
「何度もそう言った。それに、恋バナも無理に乗らなくていいよって言った。サツキがあんまり恋バナ興味ないの、皆気づいてたしね。だから、サツキがノリノリじゃなくても皆気にしないよって。そしたら、サツキは嬉しそうに、うん、って言ってくれた。だからかな、最近だんだん元気を取り戻してきて、また前みたいに明るくなって……なのに」
ふつっ、と美津はそこで言葉を途切れさせた。その続きは言わなくてもわかる。悩みを克服して、徐々に前向きになっていった友達。これから先、楽しい高校生活も、その先の人生も、多くの時間が待っていたはずなのに、彼女の時は止まってしまった。
美津はしばらくじっと机の上でスマホを握り締めていた。俺も桂木も、何も言わなかった。穏やかな人の話し声や、食器のぶつかる音だけが耳を撫でていく。ぬるく柔らかい空気の中で、ただじっとそうしていた美津は、やがて短く息を吐くと、放置していた紅茶を一気に飲み干した。かつん、とソーサーにカップを置いて、口元にあふれた紅茶を拭くのに合わせて、さりげなく目元をぬぐう。俺は、店内の人ごみに向けていた視線を戻した。美津は、弱々しいながらも笑みを浮かべていた。
「話したいことは、これだけです! サツキは悩んでたけど、でも、立ち直ってた。……きっと、自殺なんかじゃない」
「……わかりました。話してくれて、ありがとう」
美津はこくり、と頷くと、椅子を引いて立ち上がり、カバンを肩にかけた。
「また改めて麗奈に都合のいい時間を聞いておきます! それじゃあ、わたしも帰りますね」
無理に取り繕ったのがひしひしと伝わる明るい声で、美津はそう言った。送っていこうかとの申し出も、美津は「すこし散歩して帰るから」と断って、手を振って喫茶店の扉をくぐっていった。
りんりん、と鳴る鈴の音を聞きながら、俺は背もたれにどかり、と背中を預ける。六人いた座席にはもう二人しか残っていない。空席となったテーブルの向かい側を眺めながら、俺は疲労の混じったため息をついた。
「……美津さんとの連絡はこっちでやっておきます。麗奈さんに再度アポが取れたら桂木さんにも連絡しますね」
「ええ。それと、麗奈さんだけでなく、近藤夕実さんと矢来まるちさんにも、事情聴取を申し入れてください」
視線を向けると、桂木は猫背気味の姿勢でコーヒーカップに口をつけていた。
俺もその考えには同意だ。夕実とまるち……特に夕実には、何か事情がある気がする。麗奈に起きている怪異現象には気づいていないようだったが、サツキの転落事件について、知っていることがあるのかもしれない。
厳密な話をすれば、サツキの転落事件について、事故か自殺か、もしくは他殺かを調査するのは担当しているよその課の仕事だ。しかしそこに怪異が関わっているかもしれないのなら、こちらでもその点を探る必要がある。
俺と桂木はコーヒーをさっさと飲み干すと、サツキの転落死に関する調査資料を集めるために、支援室へと戻った。
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本部に戻る前に浦賀に連絡をしておいたため、支援室へたどり着くころにはすでに浦賀が資料を用意していた。
桂木が持ち帰る分を今まさにプリンターが印刷して吐き出しており、浦賀はその横でだらしなく待機している。
「いいなー、吉野さんいいなー。女子高生四人に囲まれるなんていいなー」
「そんな気楽なもんじゃなかったよ……。それより、前原さんからまだ連絡はないか?」
「ないですよ、まだ」
浦賀はホチキス止めされた数枚の紙を手に取ると、俺と桂木にそれぞれ手渡した。
そしていたずら小僧めいた表情で、まじまじと俺の顔を覗き込む。
「俺、男子校だったんスけど、吉野さんは? 桂木さんは?」
「俺は共学だよ」
「……共学ですね」
桂木は紙上に目線を向けたままそっけなく答える。浦賀は大げさに呻いてさらに俺と桂木に詰め寄った。
「うらやましいっす! 俺もそういう、可愛い女の子が身近にいる青春時代が欲しかった……」
「近くに違う高校とかなかったのか?」
何となく、はしゃいでいる浦賀の話に乗ってやろうかと思い、話を促すように問いかける。
浦賀はどこか嬉しそうに自身の高校時代を話し始めた。
「いやそれが、学校が結構な山の中にあって……。山を下って電車に乗らないと一番近い共学の高校にはたどり着けないんすよねー。相手の学校の生徒からも、『山奥のもっさい男子校』って言われてあまり人気が無くて……」
「もっさいのか? 実際」
「いやそんなことないスよ、山奥だろうが美形は美形っす。ってか、吉野さんのとこは? どんな学校だったんスか?」
そう言われても、自分の通っていた学校は特色らしい特色のない学校で、“普通の高校だった”としか説明しようがない。偏差値もそこそこで、進学科と商業科がある。華々しい成績を誇る部活もないし、学校の周りは住宅街しかない。
そう説明すると、浦賀は何が不満なのか、子供の用に唇を尖らせる。
「普通って……まあ共学なだけうらやましいっすけど。彼女はいました?」
「一瞬な。すぐ振られた」
よく名前も知らない隣のクラスの女の子に告白されて、1カ月だけ付き合った。デートもしたけど、緊張しすぎてあまり覚えていない。結局、お互いぎこちないまま、向こうから別れを告げられた。
今思い返せば当時の自分は、彼女ができた、という事実が嬉しかっただけで、彼女自身をよく知ろうとはしていなかった気がする。結局、それは友人関係に話を置き換えても一緒だったわけである。
高校時代を思い出すと必ず、自分の無神経さのせいで疎遠になったあの友人の顔がよぎる。自分がどれだけ底の浅い人間だったかわかる。表面だけを撫でて知ったような気になって、相手にも隠した内面があることに気づいていない。苦い味のする感傷が胸に広がる前に、俺は頭を振ってその面影を振り払った。
急に黙り込んで、浦賀に何か言われるかと思ったが、浦賀は既に俺を見ていなかった。彼は今、少し離れた場所で書類を読んでいる桂木に向かって、らんらんと瞳を輝かせている。
「……桂木さーん。桂木さんは、どんな高校に通ってたんスか?」
桂木は書類から顔を上げず、しばらく考え込むように首を傾げていた。
「どんなと言っても、普通の高校でしたね。公立の」
「うーん、じゃあ部活とかは強いところでした?」
「さあ……行っても県大会とか、地区大会止まりだったと思いますね」
「桂木さんは何部に?」
それを聞くと桂木は、初めて浦賀の話に興味を覚えたように、書類を持つ腕をおろし、顔を上げた。
「……剣道」
「剣道部っすか、桂木さん似合いそうス」
ホクホクとした表情で浦賀は答えているが、少し離れたところで二人を観察していた俺は桂木のわずかな変化に気が付いた。書類を持つ手とは逆の手の平を伏し目がちに見つめている。
俺はそろそろ浦賀を止めたほうがいいかとハラハラしていた。桂木には容易に踏み込めない壁がある、と俺は感じている。もしその領域に無遠慮に踏み入ったら、……どうなるか予想はつかないが、間違いなく桂木の機嫌は悪くなる。
出会ったばかりの桂木は、俺に対してかなり辛辣だった。あの時のように、冷たくあしらわれるのではないだろうか。
そうなったら一緒に捜査する俺が気まずい。浦賀に適当に声をかけてやめさせようとした時だった。
「じゃあ、可愛い女の子いました? クラスで美人の子とか」
「…………」
訥々とではあったが、浦賀の質問にきちんと受け答えをしていた桂木が、急に黙ってしまった。
止めるのが遅かったかもしれない、桂木の機嫌を損ねてしまったかと、桂木の表情を窺うが、そうではなかった。桂木はただ無表情で、わずかに唇を開いたまま静止していた。
「…………どうでしょうか。クラスメイトは、顔も名前も憶えていないので、」
「えっ、一人もですか?」
その言葉に浦賀がわずかに目を瞠る。桂木はなんでもないことのように、ええ、と頷いていたが、俺は内心驚いていた。
俺の場合、高校時代の同級生の顔と名前は、さすがに全員は無理だがしっかり覚えている。中には今でも交流がある奴らもいる。覚えていない桂木を冷たいと責めるつもりはないが、誰一人覚えていないというのは少し……いややはり、尋常ではないと思う。
「……ああ、すみません。一人いました」
だから、桂木が思い出したようにそう言った時には、逆に安堵を覚えた。そりゃそうだ、少し変わっているけど桂木は普通に仕事をして、普通に意思疎通ができる、普通の大人だ。高校の同級生の一人ぐらい覚えているだろう。
一人だけというなら、その人物は特に親しい人物だったのかもしれない。浦賀もそう思ったのだろう、顔に喜色が戻り、身を乗り出して訊ねた。
「一人だけって、随分印象に残るような子だったんスね~。どんな子だったんスか?」
俺は浦賀をそこで止めるべきだったかもしれない。桂木が、自分の理解できる範囲にいると一度は安心した。しかし桂木のその一言で、そんなささやかな安堵はことごとく消しとんだ。
「死んだ子です」
「えっ?」
「クラスでいじめられていて、俺しか話し相手が居なかった子で、卒業する前に死んでしまいました」
浦賀だけでなく、横で聞いていた俺も固まった。
今、桂木は何と言った? “死んだ子”?
浦賀の質問が途切れたのを見て、桂木がまた書類に目を落とす。先ほど目を通したところまでぺらり、ぺらりと紙をめくり、じっと黙読し始めた。……そこまで時間が経過して、ようやく俺はぎこちなく動きだした。
失敗した。完全に、浦賀を黙らせるのが遅れてしまった。なんと答えていいかわからない。いや、この場合、一番困っているのは会話をしていた相手の浦賀か。
ちらりと傍らの浦賀を見ると、なんだか泣きそうな顔で頬をひきつらせている。蚊の鳴くような声で、
「……その、あまりいい思い出じゃなかった……みたいっス、ね。……すみませんした」
「いえ、良いとか悪いとかはあまり覚えていないので。俺も、つまらない話をしてすみません」
その思い出を“つまらない話”と躊躇いもなく言い切ってしまえる桂木は、本当にその記憶を引きずっているようには思えなかった。それでも、浦賀はもごもごと口の中で謝罪を口にしていたようだが、ふいにくるっと背を向けて自分の席へ戻っていってしまった。
俺も、さりげなさを装って手に持っていた資料をめくり始める。だが、目は文字の上を滑るだけで意味のある言葉として脳に入ってこない。
高校時代のクラスメイトを、一人を残して全員覚えていない桂木。唯一覚えている子は、いじめられて死んだ子だという。どんな高校生活を送れば、そんな記憶の残り方になるのだろうか。どう頑張っても、明るく健全な青春だったとは思えない。
(……ああクソ、集中できないし、この後この人送ってくのは俺なんだぞ)
俺は心の中で、この状況を作り出した張本人である浦賀に八つ当たりする。
誰かと組んで仕事をしていくうえで、相手を理解して良い関係を築くのは必須だ。だというのに、また巨大な壁ができてしまったように感じる。いや、壁ではなく穴だろうか。そこに何があるのか、どこまで続いているのか、底知れない巨大な穴。
結局、俺が集中を取り戻して書類を読むことができたのは、定時をはるかに過ぎた夜のことだった。
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