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08 ※04/11 内容微修正
夕方になるのを待って、俺と桂木は車で日百高校へと向かった。浦賀から送られてきた地図をもとに、校舎の裏手にある駐車場に車を止める。車を出て扉を閉めると、風に乗って遠くから、運動部の掛け声らしき声が聞こえてきた。
俺と桂木は駐車場を横切り、指示された通り教職員用の裏口へ向かう。建物の角を曲がると、それらしきアルミ製の扉の横に、スーツを着た初老の男性があたりを伺うようにして立っていた。きょろきょろと目まぐるしく動く目が俺たちに気が付くと、驚いたと同時にやや不審げな表情を浮かべて、こちらへ近づいてくる。
「……ああ、ええとその……ご連絡いただいた警察、の方でしょうか」
「はい。捜査二課の吉野と桂木です。本日はお世話になります」
そう名乗って頭を下げると、男は、「ああ、ああ! はいどうも」と露骨に声のトーンを上げた。そして腰の低い態度でごにょごにょと挨拶を述べると、自分を教員の真壁だと名乗った。そしてそのまま、俺たちを裏口の奥へ案内する。その一連の動作だけで、この真壁という男が警察という立場の人間に大げさなほどへつらっているのが理解できた。まるで時代劇に出てくる商人のごとき動きで、スリッパの準備から扉の開け閉めまでやってくれるので、なんとも言えず居心地の悪い思いで俺は校舎へと入った。
裏口をくぐると、そこは飴色の木材に囲まれた廊下だった。俺の通っていた高校は、床がくすんだ緑色で、壁はクリーム色の、鉄筋コンクリート造りの校舎だった。たしか小学校は木造の校舎だったな、とどことなく懐かしい気持ちになる。
きょろきょろとあたりを観察する俺を急き立てるように、真壁が「いったん、事務室へお越しいただけますか」と俺たちを先導する。おとなしく事務室へ向かうと、学校の校長と教頭、そして川西サツキの担任教師と、学年主任と、総勢四人の教師が俺達を待っていた。
校長と教頭と学年主任は真壁と同じ、表面的な愛想笑いを浮かべている。サツキの担任教師の表情だけが固い。
うわべだけ朗らかにお互いに挨拶を交わすと、額がてらてら光るほど汗をかいた校長が、「……いやその、大変申し上げにくいのですが、」と笑みを浮かべたまま言った。
「校内での捜査は前の……あの一件で終わりだと思っていたもので、その、生徒ももう一度警察の方が校内にいるとわかると、どうしても動揺してしまうでしょうから、どうかいたずらに、生徒を刺激することの無いよう、ご協力をお願いいたします」
今までの長い挨拶は置いておいて、まさにこれが彼らの言いたい本音なのだろう。校長の禿頭が下がるのに合わせて、他の四人も頭を下げる。
「……承知しました。生徒さんが不安になることの無いよう、できる限り配慮いたします」
俺は意識的に笑顔を引っ込めて、できるだけ神妙に答えた。その顔を、四人の教師がじっと見つめている。彼らが俺のその言葉に少しも納得していないことは伝わってきたが、こう答えるほかない。
教師たちも、警察相手にこんな風に頭を下げるしかできないのだろう。校内で事件が起きた以上、どちらも譲歩しなければいけないのは仕方のないことだ。そして、面倒くさいこういうやりとりを穏便に進めるのも、桂木が滞りなく調査するために俺がしなければいけない仕事の一つだ。
その後、二度三度と頭を下げられ、さらには現場の調査に同行しようとする教師を何とか押しとどめて、俺と桂木は事務室を出た。たまらず、小さなため息をつく。学校とは本当に難儀なものだ。
そんな俺の耳に、ひそひそ、というかすかな声が聞こえてきた。あたりを見渡すと、昇降口に並んだ下駄箱の奥からこちらを見つめる女生徒たちと目が合う。とたん、彼女たちはさっと顔を背け、下駄箱の奥へと隠れて行ってしまった。
それを見て、唐突に俺は、ここが女子高であることを改めて意識した。本来なら一生入ることがなかっただろう場所である。何もやましいことはしていないのだから、気にする必要はないというのに、どこか緊張してしまう自分がいた。
「……行きましょうか」
「あっ……はい、そうですね」
桂木に促されて廊下を歩き始めると、その進行方向にも、こちらをちらちらと見ている女子生徒の一団があった。その横を通り過ぎる際、露骨な視線が頬に突き刺さる。
校内にはまだ生徒がちらほら残っているようで、廊下を歩いていると嫌でも生徒とすれ違う。そのたびに好奇心と警戒心が入り混じった目がじっとこちらを凝視する。そのたびに俺は気まずさを覚えてそそくさと歩を速めた。傍らの桂木は例によって動じていないように思えたが、さすがにいつもよりも、口がへの字に曲がっているように感じた。
生徒たちを避けながら廊下を歩く。目指す場所は、サツキが転落した階段のある西校舎の端だ。
日百高校の校舎は一般教室の集まる東校舎と特別教室が集まる西校舎があり、その二つをつなぐ中央部――中央校舎と呼ばれているらしい――の短い廊下には、事務室や職員室、保健室といった部屋が設けられている。ちなみに、昇降口も中央校舎に作られている。東校舎と西校舎はどちらも三階建で、東西どちらの校舎も、中央校舎に近い南端に一つ、反対側の北端に一つ、階段が設けられていた。ちなみに、東校舎の北端からは、体育館へ繋がる渡り廊下が伸びているが、西校舎の北端には何もない。中庭に出るための扉があるが、今は使われておらず鍵がかかっている。
事件の現場は、西校舎北端の、三階から二階に降りる階段だ。
俺たちが先ほど呼ばれた事務室は中央校舎にある。その廊下から右手へ進み、いくつかの教室や手洗い場を通り過ぎると、西校舎へ続く廊下の角を曲がった。
西校舎の廊下は薄暗かった。西側に並ぶ教室に夕日がさえぎられ、日の当たらない床と壁は全体的にくすんだ色をしている。教室と廊下を隔てる窓から見た教室内は、廊下と対照的に、どろりとした真っ赤な西日に染まっていた。
西校舎にもまた、生徒が残っているようだった。廊下を曲がってすぐ左手にある階段。その横の空いたスペースに、一人の生徒がこちらを背にして立っている。
そのまま通り過ぎようとすると、生徒は具合でも悪いかのように壁に手を突き、そのままずるずるとしゃがみこんでしまった。
俺はとっさに足を止め、その生徒に声をかける。
「君、大丈夫?」
階段の影になったそこは、墨を溶かしこんだ水のように薄暗い。その影の中で、少女の背中は小さく丸まっていた。時折、うう、とえずくような声がして、よほど気分が悪いのかと心配になる。
慌てて駆け寄って傍らにかがみこんだ。その背中をさすろうと手を伸ばす。
彼女がいるその薄墨のごとき影の中に、自分の手を差し入れようとした瞬間、反対側の腕が乱暴なほどに勢いよく掴まれ、ぐいと引っ張られた。桂木が俺の腕をがっしりと捉えていた。
「うわ、」
「吉野さん、よく見て」
勢いにたたらを踏んだ俺の肩を両手で受け止め、桂木が耳元で言う。低い声に気圧されて、言われるがままに視線を向けると、うずくまる生徒の呻き声に混じって、かすかな囁きのような声が聞こえてきた。
その音は徐々にぶつぶつ、ざわざわと大きくなっていく。その音がはっきり聞こえるようになって初めて、その音の源がどこか理解した。
(……あれ、なんだ? 首に、虫……? 違う、あれは……)
うずくまる生徒の首筋から髪の房が滑り落ちる。そこには、ふっくらと隆起した肉の塊が、ごそごそと虫のように蠢きあっていた。あれは―――唇だ。首の後ろに……いくつもの唇がある。
その唇の一つ一つがばらばらに動き、しゃらしゃらと囁いている。その音の中から、耳が勝手に、意味のある音を拾い上げていく。
うざい。やめて。うるせぇ。なんで。死にたい。
かわいらしい少女の声で小さく呟かれる言葉。そのすべてが不平不満や悪口、愚痴の類であることに気が付いて、心臓が嫌なふうに波打った。と同時に、忌まわしいものを見た時のようなじんわりとした嫌悪感が胸の中に広がっていく。一つ一つの言葉には、言われてもせいぜい眉を顰める程度の悪意しか込められていないが、そのささやかな悪意が幾重にも重なり合い混ざり合って、聞いている者の心を徐々に腐らせていく気がした。
桂木は俺を廊下の反対側まで引っ張っていくと、階段の影にうずくまるそれを見て言った。
「学校というところはいろんな意味で閉じた場所です。抑圧された思いがそのまま吹き溜まっている。そういう悪いものが形をなすこともあれば、ほかの何かを呼び込むこともある。一つ一つは大したことありませんが、無暗に触れたり、話しかけたりしないように」
「……はい」
いまだ早鐘を打つ胸を押さえて、俺は頭を項垂れて桂木の言葉に神妙に頷いた。ちらり、ともう一度階段のほうを向くが、アレはただそこにうずくまっているだけで、こちらに何かしてくるような気配はない。とはいえ、何が起こるかわからない、と俺は桂木と共に急いでその場を離れた。……今後、校内で生徒とすれ違っても、できるだけ近寄らないようにしよう。
俺と桂木は西校舎を奥まで進み、北側にある階段を上った。階段は、学校などの大きな建物によくあるタイプの、踊り場のある階段だ。
踊り場で折り返して、二階の廊下へと上がると、その場で一度足を止めた。桂木と共に、三階へ続く階段の踊り場を見上げる。
サツキの体は、二階の廊下に転がっていた。二階から三階へ上がる階段の、踊り場の部分から転落したらしい。
生徒と教師に聞き込みをして得た情報によれば、この北側の階段は、中央校舎に近い南側の階段に対して使用頻度が低く、特に事故の起きた時間は、日ごろから人通りがかなり少なかったという。現に今も、この廊下を歩いている生徒は一人もいない。
廊下にはそれらしい汚れも何一つ残っていない。初動捜査も終わり、学校側も徹底して清掃したのだろう。
事情を知らない人なら、ここで人が一人亡くなっているとは、到底思いつかないだろう。俺だってわからない。
(……というか、何というか。……なんにも感じないな)
俺は拍子抜けしたような気持であたりを見渡した。
人の死んだ現場は、何度か見たことがある。この体質になってからは、その現場に死んだ当人が “残って”いる場面にも行き当たってきた。だから今回も、現場へ行くにあたり多少身構えたりもしていたのだが、少なくともここに何かがいるという気配はない。
「……何も、いない、でしょうか」
「上に行ってみましょう」
ひょっとして、自分だけが何も感じていないのではないか、と不安に思いながらも、桂木に促されて階段を上る。階段の中間にある踊り場には、大きな窓が設けてあり、そこから強烈な西日が差し込んでいた。目を細めて外を見ると、黒々とした濃い影のように、祠のあった山がそびえている。校舎の西の端にあたるここは、ちょうど祠の前からよく見えるだろう。俺は先ほど見た景色を思い出しながらそう思った。
その時、目を通じて何かが頭を通り過ぎていくように、ちりっとした何かを感じた気がした。逸らしかけた目をもう一度、窓の外へ向ける。何かがあるのか、と探るように。
そんな俺の背後で桂木が言った。
「……駄目ですね。何もない」
振り返ると、桂木は階段の手すりに片手を預けて、階下の廊下を眺めている。
「サツキさんの何かが残っていないかと思ったのですが……」
そう言って振り向いた桂木が、窓の前に佇む俺を見て動きを止める。俺の様子がおかしいのを感じ取ったのか、頭をほんの少し傾け、様子をうかがうような仕草をする。
「吉野さん? 何か、ありましたか」
「何かというか……なんか首がチリチリするというか……」
自分でも掴みようのないかすかな感覚を伝えようと首をひねりながら、桂木の横に並ぶ。
集中してその感覚を辿ろうと、目を瞑ってみた。視界を閉ざすと、ほんの少しだけその感覚が浮かび上がるような気がする。何かがじっと、俺を見ているようだと感じた。だがそれはひどく曖昧で、感じたと思った瞬間揺らいで消え、気のせいかと思ったその次にはじっとりとした視線が背中を撫でる。捉えようとすれば手をすり抜ける煙のように、その気配は幽かだ。
(……幽かで、希薄……)
ふと既視感を感じてもう一度、窓を振り向いた。あの祠の周りでも、何かがいるような、いないような、ひどく頼りない何かの気配を感じた。
これはあの時祠で感じたものと、同じものだろうか? ……わからない。どちらも“何かあるような気がする”という程度で、比較できるものではなかった。
俺はあきらめて頭を振った。
「……駄目です。何かがあるような気はするんですが、それが何なのか分らない。サツキさんなのか、他の何かなのか……」
「そうですか……」
お互いに同じタイミングでため息をつく。桂木はぐるりと階段全体を見渡して言った。
「……この現場から転落の原因を見つけるのは、難しいかもしれませんね」
「やっぱり、聞き込みしかないですか」
念のため再度周辺を見て回ったが、それ以上の収穫はなく、麗奈との約束の時間も近づいてきたため、俺たちは現場での捜査を切り上げた。
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