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09 ※04/11 内容微修正

 麗奈とは、部活棟の前で待ち合わせということになっている。二階から一階へおりて、先ほど入ってきた裏口から外に出る。裏口を出てすぐ駐車場があり、その横にグラウンドが広がっている。部活棟は、グラウンドの向こう側だ。  俺と桂木は、グラウンドでサッカーをする生徒たちを横目に、ぐるりとその外周を回る。ちらちらと、何人かの生徒の目線が気になったが、部活中の生徒たちは校内にいた生徒ほどじろじろとこちらを見なかった。部活に夢中なのかもしれない。  砂の舞う埃っぽいグラウンド横を通り過ぎると、徐々に湿り気を帯びた空気が漂ってくる。部活棟のある場所は、学校の裏にそびえる山との境界線に立っている。まさに敷地の端っこだ。近くに緑の生い茂る山々があるせいなのか、空気がじっとりとしていて、日光も木々にさえぎられて届きにくい。そろそろ日も落ち始めた今の時間はなおさらだ。  部活棟は二階建てのプレハブで、年月を経て薄汚れていた。その建物の前に立っている人物がいる。薄暗闇の中でぽつんとひとり、たたずんでいるその影はこの学校の制服姿だったが、その顔は暗い視界でよく見えない。  もっと近づこうと足を踏み出したその時だった。  また唐突に、何かがそこにいるようなかすかな気配を感じた。はっとしてあたりを見渡すが、ざわりざわりと風に蠢く木々があるだけで、他には何も見当たらない。そして気が付いた。今度は確信できた。  これは、あの時祠の近くで感じたものと、同じ気配だ。 「……あの、刑事さん?」  声がして、正面に顔を戻すと、プレハブの前にいた少女がこちらを見ていた。おずおずと近づいてきた彼女は、麗奈だった。長い黒髪をゆらし、戸惑ったような表情でこちらを窺っている。そしてまた一歩、麗奈がこちらに踏み出した瞬間、その気配がわずかに強まった。それが何を意味するのか考えながらも、反射的に受け答えをする。 「……ああ、麗奈さん。すみません、お待たせしてしまって」 「いえ、……大丈夫です。それより、あの、部室が今空いているので、そこでお話をお願いしてもいいですか?」 「もちろん」  案内しましょうと麗奈が身をひるがえすと、まるで香りが広がるかのように、その気配が強くなった。 (麗奈さんから、あの祠の前で感じたものと同じ気配がする……?)  これはいったいどういうことだろうと考えていると、ふと頬に視線を感じた。強く吹く風に巻き上げられた前髪の向こうで、桂木の目が俺を見て、そして麗奈を見て、また俺を見る。桂木もまた、俺と同じものを感じ取っているようだ。  ひとまず、今は麗奈と話をするのが先だ。俺は桂木に軽く頷くと、麗奈の後に続いた。  プレハブの一階部分の端まで進むと、麗奈は一番奥の扉の前に立ち、持っていた鍵で扉を開けた。 「どうぞ」  短いその言葉に促されて、室内に入る。中はこじんまりとしていて、中央には古い会議机が二脚並べて置かれている。それ以外のものと言えば、中身の詰まった本棚が壁際にずらりと並んでいる以外、ほとんど何もなかった。本棚に並んでいるのは、様々なジャンルの文庫やハードカバー、雑誌、そして自費出版と思しき冊子。よく見れば、収納場所がなかったのか、数台のノートパソコンが極めて雑につっこまれている本棚もある。  麗奈はパイプ椅子を並べながら言う。 「私、文芸部員で……。今日はたまたま、みんな部室を使わないというので、私が貸してもらいました」  どうぞ、と麗奈はパイプ椅子を指し示す。俺が腰を下ろすと、麗奈は斜め向かいのあたりにパイプ椅子を持ってきて腰かけた。  そして、ためらいがちに口を開く。 「あの……昨日はすみませんでした。せっかく来ていただいたのに」 「いえ、気にしなくて大丈夫ですよ。今日は美津さんが居ませんが、大丈夫ですか?」  それを聞いて、麗奈が少しだけ笑う。 「大丈夫、です。むしろ、私の話を聞かせたら、もっと心配をかけてしまいそうで……」  麗奈は憂いを帯びた目を伏せ、力なく笑っている。切れ長の瞳が悲し気に、切りそろえた黒い髪の下に並んでいるさまは、儚くて美しいとすら思う。だが彼女はまだ十七歳の子供だ。その成長途中の心はとても柔らかい。このまま正体のわからない何かに脅かされ続ければ、その心はあっという間につぶれてしまうかもしれない。  俺は瞳を伏せたままの麗奈に、慎重に声をかけた。 「麗奈さんは何か、不可解な現象に悩まされていると聞きました。まずは、それがどんなものなのか、教えてもらえますか」 「……はい」  麗奈は一瞬ぎゅっと目を瞑り、ぱっと開くと、決心したように話始めた。 「気が付くと、何かに見られているような、そんな気がするんです。ずーっとじゃないんですが、一日に何度も、ふとした瞬間に視線を感じるというか……。それから、これも日に何度かあることですが、服の袖とか髪の毛とか、あと足首とかを引っ張られることがあります」  そんなことがあるたび、麗奈は周囲に何か引っかかるものが無いか、はたまた誰かがいたずらをしているのではと周囲を探すのだが、誰も何もない場所でもその現象が頻繁に起こるため、妙だと感じていたらしい。  麗奈はそこで、ごくりと一度喉を鳴らすと、かすれる声で続けた。 「そ……れから。この前一度だけあった事なんですが……。うちに何かが、来たんです」 「……麗奈さんの家に、何かが?」  麗奈の言った“何か”という言葉に、言い知れない不穏な気配を感じる。麗奈は上目にこちらを見て、こわごわと頷いた。 「夜の九時頃だったかと思います。玄関のチャイムを鳴らすのではなくて、ノックをする音が聞こえて、不審に思ったので扉を開けず、そのまま『誰ですか』って声をかけたんです。そうしたら、扉の向こうからこう聞こえて、」  麗奈は戸惑うように一度口を閉ざし、それから、縁起の悪い言葉でも口にするかのように、ためらいがちに言った。 「『いまいちどもうでよ、まいれよ』……と、そう、聞こえた気がします」 「いまいちど……」 「意味が解らないし、怖くて、扉は開けませんでした」  確かめるように呟いてみる。いまいちどもうでよ、まいれよ。  音だけ聞くなら、何通りかの解釈ができそうだ。“いまいちど”は、“今一度”だと思うが、“もうでよ”と“まいれよ”は……? 考えるのは今は後回しにして、ひとまず手元の手帳にその言葉をメモしておく。  メモから顔を上げると、それをじっと待っていた麗奈が「それから、」と改めて口を開いた。 「……階段から落ちたことは、美津から聞いてますよね?」 「はい。サツキさんの落ちた階段と、同じ所から落ちたと、」  それを聞いただけで、麗奈は一瞬身をすくめるように体を固くし、詰めていた息を押し殺すように吐き出した。麗奈にとってその場所は、自身が恐ろしい思いをしただけでなく、親友が命をおとした場所でもある。思い浮かべるのも辛いのかもしれない。  大丈夫だろうか、と心配になって、少し遠慮がちに声をかけた。 「その時の状況を、詳しく話すことは……できますか?」 「は、はい。……はい、大丈夫です」  自分自身に言い聞かせるように数度頷いて、麗奈は深く息を吸い込み、話は始める。 「……あの階段を通ったのは、移動教室の授業で準備が必要だったからです。サツキが死んだあの階段を使うのは……あまり気が進まなかったんですけど、仕方なく……。私と美津と、一緒に階段を降りていました。私が少し前で、美津が斜め後ろにいて……。その日は一日、ちょっとぼーっとしていて、だから、いつものようにまた“何か”に足を引っ張られたときに、とっさに踏ん張るのが間に合わなかったんです。ちょうど、踊り場のところでした。……頭からじゃなく、足のほうからずるっと落ちた感じで、数段階段を落ちただけで済みました。でも……」 「……でも?」  言葉を途切れされた麗奈を促すように問いかけたが、麗奈はハッとして口ごもり、「いえ……何でもありません」と首を振った。そして、それが自分の体験したすべてであると、話を締めくくった。  俺の横に座る桂木は、唇に指を添え、何かを考え込んでいる。ふっとその指が離れて、机の上で逆側の手指と絡めるように組んで置かれる。桂木が麗奈を見据えて言った。 「その現象が起こっている原因について、麗奈さんは何か心当たりはありますか」  とっさに麗奈は口を開いたが、何故かすぐにその唇を閉ざした。そして、ぎゅっと引き結んだ唇をようやくほどいたかと思うと、「……何も」とだけ返した。 「……そうですか。“いまいちどもうでよ、まいれよ”という言葉も、心当たりは?」 「ない、です」  桂木が続けて聞いても、麗奈は首を振るばかりだった。  俺はいつも通り淡々と話を進める桂木と、明らかに桂木に気後れしている麗奈をハラハラと見守っていた。それと同時に、麗奈が何かを隠しているように見えて仕方なかった。  “心当たりはあるか?”という問いに答えをためらったということは、実は“心当たりがある”ということではないだろうか。麗奈は桂木の視線から逃れるように、膝の上に手を置いてじっとそれを見ている。麗奈が本当に隠し事をしているのだとしたらなおさら、桂木のまっすぐな視線にさらされる彼女の姿は見ていて辛かった。  その後も、いくつか質問を重ねた。いつからその現象が起きていたのか? どんな時に起こるのか? 麗奈の答えはいずれもあいまいで、この現象がいつから起きているのかも、どんな時に決まって起こるかも、分からないと首を振るばかりだった。  桂木が質問するたび、麗奈がゆるゆると首を振る。肯定的な情報が何も得られないまま、桂木の質問も底を尽きてしまった。  目の前の麗奈は、質問に答えられないからなのか、それとも本当に隠し事をしているからなのか、罪悪感のようなものをにじませた表情で椅子の上に縮こまってしまっていた。見れば、こめかみの髪が一房、汗で張り付いている。ずっと緊張し続けていたのかもしれない。  桂木が無言で俺に視線を寄越す。ここらが潮時だと桂木も感じたのだろう。俺としても、この状態の未成年相手に話を続けることは酷すぎると思っていた。俺は項垂れる麗奈にできるだけ柔らかく声をかける。 「……話してもらって、ありがとうございます。情報をもとにできるだけ調べてみますね。何か思い出したことがあったら、ここに連絡をください。それと……」  俺はそう言って、支援室の番号と仕事用スマホの番号を渡す。そして、桂木が懇意にしているという神社や寺院を紹介した。根本的な原因の解決にはならないが、そういう場所でお祓いなりなんなりしてもらうことも、あるいは効果があるかもしれない。それに、仮に効果がないとしても、得体のしれない不安の只中にある麗奈にとって、安心材料は少しでも多い方がいい。 「もし不安なら、こことか、隣町になりますがここのお寺とか……相談しに行くと良いと……」  言いながら、机に置いたメモを指さし、リスト化された名前と住所を説明していると、それまで項垂れていた麗奈が、耐え切れなくなったように、押し殺した声で言った。 「私には何が憑いてるんですか?」  身をかがめていた俺は、ばっ、と顔を上げた麗奈とまともに目を合わせてしまった。  彼女は顔全体をひきつらせ、つるりと陶磁のようだった肌は皺が寄るほどで、目ははちきれそうに見開かれていた。まさに、それは何かが取り憑いているかのような変わりようで、俺は息をのんだ。  押しとどめていた不安が決壊したように、先ほどまでのおとなしさをかなぐり捨てて、麗奈は激しく首を振る。 「それとも祟られているんですか? 何に? 私、私は……」  そしてかすれた声で、「……どうして?」と呟くと、麗奈は両手で顔を覆った。その肩先が震えている。  俺はとっさにその肩に手をかけようとしたが、今の麗奈になんと声をかけるべきかわからず、結局その手を下ろした。そしてぎゅっと拳を握る。 (……きっと、不安で仕方ないんだろう、な)  目の前の少女は、ほぼ確実に俺達に隠し事をしている。自分の身に起こる理不尽な現象を解いてもらいたいと思いながらも、自分にとって不都合な何かは隠し通そうとしている。その矛盾はきっと、彼女自身が一番わかっているだろう。それでも不安が勝った。恐怖に耐えきれなかった。  俺はたまらず、「麗奈さん、本当は何か心当たりがあるのではないですか?」と問いかけようとした。しかし、口を開きかけたところでそれは桂木に止められた。ぐっ、と力を込めた手で肩を引かれる。振り向いた先で桂木が、無言で俺を制止していた。代わりに、桂木が柔らかい声で麗奈に声をかける。 「申し訳ありません。今できることは、先ほど紹介したような施設へ行ってお払いや相談をするくらいのことしかないのです。この現象が起きているその原因がわかれば、直接的な対応もできましょう。ですから、私たちのほうでもできるだけ早急に、調査を進めます」  僅かに腰をかがめてそう言った桂木を、麗奈は放心したように見つめた。俺の位置からでは桂木の表情は見えない。彼女は、わずかに揺れた桂木の前髪の向こうに、あの真っ黒な目を見ただろうか。  すい、と上体を起こした桂木が、そろそろ失礼します、と挨拶をしても、麗奈はそれを聞いているのかいないのか、パイプ椅子の上でじっと前を見つめているだけだった。 「……麗奈さん、何かあればいつでも、連絡をしてくださいね。……麗奈さん? 大丈夫ですか?」 「…………はい。ええ、……すみません」  少しも大丈夫ではない様子でそう答えた麗奈だったが、それでもかすれた声で、「……すこし、一人に……」と言われてしまえば、どうしようもなかった。  俺達は麗奈に声をかけ、部室を後にした。 「桂木さん。……麗奈さん、大丈夫でしょうか。あのまま一人にしておくのはちょっと、」 「美津さんに連絡しておいた方がいいかもしれませんね」  部活棟を何度も振り返る俺に、桂木はそう告げた。その言い様がまるで他人事のようで、ムッとして俺は振り返る。桂木は、部活棟のほうを見向きもせず、まっすぐに校舎に向かっていた。 「あの、桂木さ……」  言いかけてふと、視界の隅に動く人影が見えた。とっさにそちらを目で追うと、そこに居たのはこちらを観察するように見つめている夕実とまるちの姿だった。彼女たちは校舎からグラウンドへ続く道の、生け垣の向こうに寄り添うように立っていた。  俺と目が合ったことに気が付いた二人は、無言で身を翻し、校舎の向こう側へと走り去っていってしまった。  同じ様に二人の走り去った方向を見ていた桂木に向けて呟く。 「……麗奈さんのことを心配して、いや、俺達を監視してるつもりですかね」 「どちらもでしょう」  桂木は淡白に言った。あの二人のことも気になるが、今は美津に説得を任せている段階だ。彼女たちにも話を聞くことができると良い。麗奈のためにも、できるだけ早いうちに。 「……さっき、何か言いかけてませんでした、」 「あ、いや……」  校舎のほうから視線を移動した桂木が、俺の目を見て言う。改めて聞かれても、「ちょっと冷たいんじゃないですか」なんて皮肉を言おうとしたとはとても言えない。結局俺は、 「……なんでもないです」  とぼそりと言うことしかできなかった。  その後、俺は前原を通じて美津に連絡を取り、まだ校内にいるという美津に、麗奈を迎えに来てもらうよう依頼をした。そして、この後事務所で調べものをするという桂木を送っていき、その日はそこで解散となった。

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