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その夜遅くに帰宅すると、帰って早々、聞きなれない音が耳に飛び込んできた。
桂木を送って言った後、支援室に戻って調査記録を読みこんでいるうちに、時刻はとっくに九時を回っていた。家についた時にはもう惣菜屋も閉まっていて、仕方なくコンビニで適当なものを買い込んで帰った。だが、味気ないコンビニ弁当にいまいち食欲をそそられず、まずは食事よりも先にシャワーを浴びよう、今日は山にも上ってなんだか埃っぽいから……と疲れた頭で考えていた時だった。
ごんごん、ごん、という不規則な音は、玄関の方からしていた。リビングから玄関の前へ移動すると、またしても、ごんごん、ごん、という音がする。それは明らかに、玄関の扉を拳で叩いている音だった。
チャイムもあるというのになぜ? という疑問と共に、昼間に聞いた麗奈の体験談が蘇った。
『……玄関のチャイムを鳴らすのではなくて、ノックをする音が聞こえて、……』
まさか……と思いつつ、俺は手汗の浮いた手をぎゅっと握りしめ、扉の向こうの何かに気づかれないよう足音を殺し、そろそろ……と慎重にドアスコープを覗いた。
誰もいない。丸く歪んだ視界には、廊下に取り付けられた照明と、玄関の前の手すりと、その向こうの夜の闇だけが広がっている。
その時、ごんごん! とさらに扉が叩かれ、鼻先にその振動を感じた俺は心臓が飛び跳ねるほど驚いて後退った。勢いあまって上がり框に踵を打ち付け、派手な音が響く。とたん、扉を打ち付ける音がやんだ。あっ……、と呼吸が止まりかけた俺に、扉の向こうからくぐもった声がかけられた。
「いまいちどもうでよ、まいれよ」
「……!」
はっきりとそう聞こえた。
俺は声も出せず、踵を抱えてその場にうずくまり、ひたすら扉を見上げていた。今にもその扉がもう一度叩かれるのではないか、何かが起きるのではないかという思いが心の中を吹き荒れていたが、何故かその場から逃げ出すことはできなかった。
しばらくそうしてじっと息をひそめていたが、結局それ以上は何も起きず、聞こえず、耳の中でうるさく反響していた心臓の音も、少しずつ収まっていった。
俺は、すっかり汗の冷えてしまった体をゆっくり起こして、もう一度ドアスコープを覗いた。やはり何もない。
そして、意を決して、扉の鍵を外した。
まずはチェーンを付けたまま、そろそろと扉を押し開いてみる。そろり、と開いた扉の隙間を覗いてみるが、ひんやりした夜気が忍び込むばかりで、そこには何もいない。
ほっとため息をついて一度扉を閉める。閉じた扉のチェーンを外すと、
(……よし、大丈夫。……せー、の!)
心の中のかけ声をと共に、ばん、と勢いよく扉を開いた。
とたん、ぱっ、と冷たい空気が渦を巻いて流れ込む。その風に巻き上げられて、ふわりと舞いあがるものがあった。
数枚の落ち葉とそして、あの時、祠で感じた気配。それが、落ち葉の発する甘い土の香りと一緒に、ほのかにそこに漂っていた。
見下ろしてみると、舞い落ちる枯れ葉と共に、土汚れのようなものもこびりついている。先ほど、俺がここを通って帰宅したときには、こんなものはなかった。
(土と、落ち葉……それにあの祠で感じた気配も。今ここに居たのは、いったい何だ?)
呆然とその場に立ち尽くしているうちに、匂いが風に流れていくように、気配も薄れていってしまった。俺はいまさらのように、シャツの下に染みてくるような寒さを感じ、ぶるっと身震いをして室内へ戻った。
リビングへ戻ってソファにどさっと腰かける。頭の中には先ほど聞いた謎の言葉がぐるぐると回っていた。
今起きた現象は、麗奈から聞いたものとそっくり同じだった。聞こえてきた言葉もまったく同じである。
“いまいちどもうでよ、まいれよ”。
なぜ、麗奈が体験した現象と同じ現象が、俺にも起きたのか? そして、“どこに”今一度、詣でる、参ると言うのか?
脳裏に浮かんできたのは、あの祠のあった場所だった。玄関先に満ちていたあの気配はけして思い違いではない。もう一度来いと言うならばいっそ、本当に行けばこの不可解な現象の理由もわかるかもしれない。
俺はばね仕掛けのようにソファから跳ね起きると、スマホを取り出した。黙々とメッセージを打つ。送る相手は桂木だ。
(……明日、もう一度祠に行こう。行って何が起きるかわからないけど、桂木さんも一緒に来てもらって……)
そう思ったところでふと、昼間の出来事を思い出して指が止まる。桂木のことをとっさに、「冷たいんじゃないか」と非難しそうになった時の事である。
思い返してみれば、わざわざ口に出して言うほどの事でもなかったと思う。だが、桂木の言葉がもう少し優しければ、と思わないでもないのだ。
麗奈もそうだが、以前、美津たち四人と喫茶店で話した時もそうだった。質問がストレートなのは悪いことではないが、友人を亡くして参っている子たち、しかも未成年を相手にしているのだから、もう少し優しくしてもいいのではないかと思う。
(でも警察側としては、相手の気持ちに配慮してばかりはいられないしな……)
立場的には自分もそっち側のはずなのに、こんなにも彼女たちの側に立って考えてしまうのは、俺も桂木に辛辣な態度で接されたことがあるからだろうか。
異動してきたばかりの頃に組んでいた桂木は、言動は厳しいし、たまに見える目線は鋭いし、目が見えないときは何を考えているか不気味だしで、たまたま俺は耐えられたからよかったものの、これがただの女子高生相手だったらどうか。
多分、ほとんどの相手は委縮してしまう。
最初の事件が終わって以降、桂木は俺に対して態度を軟化させているが、それでも目線の鋭さと見た目の不審さは変わらない。見た目が少し……誤解されやすいからこそ、もう少し柔らかな態度で接してもよいと思うのだ。
(……いや、今そのことは関係ない。とにかく、明日の予定と、さっきの事の報告だけ、さっさと済ませよう)
このままだと、昼間に抱いたもやもやした気分を引きずってしまいそうで、俺は無理やり思考を切り替えた。
意識してテキパキと指を動かす。今起きた現象を手短に文章にまとめ、メッセージの最後に、明日もう一度祠に行く予定だと付け加えた。だいぶ長い文章になってしまったそのメッセージを送信する。
明日、もう一度祠に行けば、きっと今回の事件につながる何かがつかめる。俺は根拠もなく、そう確信していた。
俺は送り終えたメッセージに軽く目を通して確認すると、スマホをテーブルに置き、今度こそシャワーを浴びに風呂へ向かった。
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あんなことがあった夜なのに、不思議と俺は怯えることもなく、一人で夜を過ごし、健やかに眠った。玄関の向こうにいたあの何かから、こちらを害そうとする気配を感じなかったからかもしれない。
枕元に充電してあるスマホを取り上げると、深夜に桂木からメッセージが返ってきていた。
『俺も同行します。詳しい話はまた明日に』
簡潔な文章だったが、内心俺は桂木が付いてきてくれるということにほっとしていた。すぐにでも返信したかったが、それよりもまず、ぐうぐう鳴る腹をどうにかしたかった。昨日は結局いろいろと考えてしまって、何も食べずに寝てしまったのだ。
簡単な朝食を食べ、身支度を整えて、そろそろ桂木も起きたのではないかという頃に、玄関先でささっと返信を送る。もし起きていたら、ちょうど俺が支援室に出勤する頃には返事が来るだろう。
案の定、俺が自分のデスクに着いた頃になって、ポケットに入れておいたスマホが振動する。だが、それを取り出して確認する前に、「おあようございます~」とあくび交じりの浦賀に肩を叩かれた。
「……眠そうだな。おはよう」
「まあちょっと……えーと、報告なんですが、今日の朝イチで美津さんから支援室に連絡ありまして。近藤夕実さんと、矢来まるちさんが……まるちってすごい名前ですね……いやすんません余計な事言いました。そのお二人が聞き込みに応じてくれるそうっす。今日の放課後に学校で待ってるって」
「お、ほんとか」
どうやら美津が説得を頑張ってくれたようだ。これで、強制的に二人に話を聞かなければいけないような事態は回避できた。そうなってしまえば自分としても心苦しいし、何より向こうもきっと腹を割って話してくれなかっただろう。
まあ、今の状態でも、向こうが俺たちに敵対心を抱いていることには変わりないので、スムーズに話が進むとは思っていないが。
と、報告を終えた浦賀が席に戻らず、わくわくとした表情で俺を見ていることに気が付く。どうした? と問いかけるより早く、浦賀は勢い込んで俺に声を浴びせてきた。
「吉野さん昨日女子校どうでした!? 女の子いっぱいいた? 可愛かった!? ねえねえ声かけられたりしました? 女子校に大人の男二人って興味津々じゃないっすかねえ! どうでした、ねえ!」
「あー、あー! ちょっと俺、桂木さん待たせてるからもう行くわ」
1cmも距離を置かず、くっつきながら延々質問してくる浦賀にうんざりして、俺は耳をふさぎながらそう告げた。とたん、浦賀は至近距離で抗議の叫びをあげる。手のひらを突き破って耳がきーんと鳴ったが、構わず俺は必要なものだけを手早く持って支援室を出ようとした。
「後で絶対聞かせてくださいね~!」
いってらっしゃーい、と廊下に出た俺を浦賀の声が追いかけてきた。俺はため息を一つつくと、今日も今日とて桂木の事務所へ向かった。
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ばむ、と車の扉を閉めて、座席に尻を落ち着かせるよりも早く、桂木は聞いてきた。
「昨日の怪異の話ですが」
「……えっ、ああ、はい。すみません、夜遅くに」
開口一番に聞かれるとは思っておらず、不自然な返事を返してしまった。それに対して桂木は、淡々と「いつものことでしょう」と話す。確かに、俺が変な目に遭ったと深夜に桂木に泣きついたことは何度もある。若干むっとしつつ、車を出す。わざとらしく咳払いをして仕切りなおすと、昨夜の出来事からの経緯を移動の最中に桂木に話して聞かせた。
「……ということで、桂木さんに連絡をしたわけです」
「なるほど……麗奈さんと同じ現象ですか……」
「あ、それと、美津さんが説得してくれたおかげで、今日の夕方に夕実さんとまるちさんにもお話聞けることになりました」
「……そうですか……」
桂木は、そう付け加えた俺の言葉に上の空で返事を返す。ちらりと横目に見た桂木は緩く下を向き、唇を覆うように手を添えて何事か考えていた。
「……危険な感じはしませんでしたか?」
「え?」
一瞬、なんのことかと考えて、桂木が昨日の俺に起きた怪異現象のことを言っているのだと気づく。
「あ、ああ! いやそれが、昨日あのことがあった後、不思議と何も怖くなかったんですよね。特に何か嫌な感じもしなかったですし」
実際、俺は奇妙なほど昨日の出来事に対して恐怖を感じていなかったし、今だってあの時のことは笑って話せるほどだ。しかし、桂木が無言で、じっとこちらを凝視してくるのを横目に感じて、次第にその笑いもしぼんでいく。
(……今、なんかまずいこと言ったか? なんでこんな見てくんの)
頬に視線が突き刺さる。沈黙があまりに長く、今度は逆に不安が膨らんでいきそうになっていたころに、ようやく桂木が口を開いた。
「今日は、絶対に一人にならず、何かを感じたらすぐに俺に言ってください」
「あ、……はい」
一体何を言われるかと身構えていたが、かけられたのはそんな気遣いの言葉だった。肩透かしを食らったような気持の中に、ぽつんと一粒の面映ゆさが混じる。
なんだか妙に暖かくなってしまった胸の内を持て余す。そして、車内に再び落ちた沈黙が、先ほどとはまた別の意味でいたたまれない。耐えられず、俺はなんでもいいから、と口を開いた。今はとにかく、何かを話していたかった。
「あの、そういえば昨日は一人で調べたいことがあるって言ってましたが、なんかわかりました?」
「ああ……そうですね、とりあえず、分かったところまでは共有しましょうか」
と言っても、ほとんど何も情報はつかめていませんが、と前置きをし、桂木は話始める。
「“桃羽様の祠”について、調べていました。祠はだいぶ古いものでしたので、あのあたりで信仰されている神仏等々の記録に載っているのでは、と思ったのですが。残念ながら、俺の手持ちの資料には記載がありませんでした。今、つてをたどって、あの祠にゆかりのありそうな神社がないか、調べてもらっている途中です」
「そうですか……。桃の羽の神様なんてなかなかファンシーですけど、古い神様なんですね」
「……、確かにそうかもしれませんが、桃は昔から様々な神話や昔話に登場する象徴ですし、不自然というものでもないかも……。近年になって当て字になった可能性もあるかもしれませんが」
「桃……もも……そういえば高校の名前も“ひもも”高校でしたね。こっちの方は百とかいて“もも”ですが」
「そういう、音だけは共通しているが漢字が異なっていたり、音が訛って変化していったりすることは、長い歴史の中でよくあることですから」
桂木の話しやすい話題だったからなのか、珍しいことに、いつもよりも桂木の口数が多かった。あくまでもいつもと比べて、なので、それでも静かなほうではあったが。それでも俺はここぞとばかりに桂木の話に相槌をうった。
そうして、訥々と答えてくれる桂木の声を聞いているうちに、いつの間にか山戸駅の前まで来てしまっていた。
山戸駅前を通り過ぎて、昨日車を留めた駐車場に再び向かう。そこで車を降りると、そよりと風が髪を持ち上げた。気温は暑くも寒くもなく、薄い青色をしたパッとしない曇り空が頭上を覆っていた。
駐車場を出、学校の横の道に沿って歩いていけば、グラウンドのから聞こえてくる生徒の歓声が風の中に入り混じる。そんな穏やかな空気の中、俺達は昨日も登った山道の入り口を竹林の合間に見つけると、迷うことなくその道に足を踏み入れた。
祠への道は、昨日に比べて短く感じた。初めて登った昨日は、周りの景色を無意識に一つ一つ観察していたような気がする。
やがて、道の横に並んでいた竹が、名前もわからない木々に変わる。そこから道は大きく曲がり、左手に学校がちらちらと見え始め、しばらく歩き続ければもう、昨日見た祠のある広場へついていた。
先頭を歩いていた桂木とともに祠の前へ並ぶ。きょろきょろと周りを見渡してみたが、相変わらず薄く途切れがちな気配がするばかりだ。だが、とりあえず嫌な気配はしない。
俺の腹のあたりまでの高さしかない祠を、腰をかがめてじっと見つめて、さて、これからどうしようか、と思う。
祠に行こう、とまでは思っていたが、それから先何をするかまでは決めていなかった。
とりあえず、またお供え物をして拝んでみようか―――そう思って体を起こした時だった。
(―――白い、布?)
祠の向こうに、山の中にしては妙に真っ白な何かがあると感じた。それは、柔らかくはためいていて、何かの布か、衣服の裾のように見えた。
顔を上げるにつれて、その全体像が見えるようになる。
それは、そこに立っている人物の―――祠の向こうに佇んで、こちらを向いている人物の、身に纏っている着物の布地だった。
(……え)
そう理解すると同時に、身を起こしてその人物と対峙する。……が、俺の視界は、その人の形をしたものがかざした左手で覆い隠されていた。
まるで俺の額がそこに収まることを最初から知っていたかのように、差し出されていた、その手に。
人のものかもわからないその指先が俺の額をかすっていった。その感覚が焼き付いて、まるでマッチを側薬にこすりつけたときのように、一瞬の閃光があっという間に目の前を白く塗りつぶされた。
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