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 瞬きをしたような気がする。気が付けば一面真っ白な景色がリセットされて、何故か俺は自分のアパートのリビングにいた。ひんやりとしたフローリングの上に、ぺたんと腰を下ろしている。そして、目の前のソファの上に、きっちりと正座の状態で座っている人物がいた。  和装の男、だと感じた。長い髪の毛が額の真ん中から割れ、その間から真っ白い剥き卵のような額が見える。着ている衣服は、和装には詳しくないからよくは知らないが、華やかな柄物の浴衣のように見えた。  異様と言えばこの状況からしてすべて異様なのだが、何よりもこの空間において異物感を醸し出しているのは、その顔を覆っている翁の面だった。枯れたような色で、たるんだような皺の刻まれた額の下で、“へ”の字の目が笑っている。まるで孫を見守る老人のような糸のように細った目だ。こんもりと盛り上がった頬の下には、口角をこれでもかと引っ張った何とも言えない笑みをたたえた口があり、最後の仕上げとばかりに顎の先を真っ白な髭が彩っている。  俺は言葉もなく、ただぽかんと、床の上からその翁面を眺めていた。 「―――いつまで、そうしておるつもりじゃ」 「、え」  予想外に低い声が頭上から降ってきた。翁面がかすかに傾いて、和装の男が顔を傾けたのがわかる。たったそれだけの仕草なのに、なぜだかこの男が面の下で笑っているのがわかるような気がした。 「いや、このように突然押しかけてはそれも仕方あるまいな。しようのないことだったのだ、許せ」  鷹揚とも、尊大ともとれる態度で男はそう言うと、つ、と静かな動作で姿勢を正し、 「(われ)のもとへ参るものもようよう減った。それだからこのように渡しをつけるのも難しゅうなった。ようやくだ、さて、おまえに頼みがあるのだ」 「は……え、頼み?」 「そう、というのも吾は近々―――」 「ちょ、ちょっと待ってください!」  俺は気持ちよさげに話を続けようとする男の話を強引に止めた。面をかぶっているくせに、不満げであることがありありとわかる仕草でこちらを見る男の前で、俺はよろよろと立ち上がる。  とにかくまず、この状態が何なのか飲み込む時間が欲しい。いったいこれは何で、そして目の前の男は、誰なのか。 「……すみません、まず、あなたは、誰ですか」 「なに、吾を知らぬのか。知らぬで祠へ参っていたのか?」 「祠……?」  翁面はうむ、と頷くと、 「そうとも、吾はそうな、氏子らからは:守様(まもりさま)だとか、モモオサマだとか、呼ばれておるな」 「モモオ……桃羽様(ももうさま)?」  もう一度、翁面はうむ、と頷いた。  すると、この目の前の男は、あの山の祠に祀られているという、桃羽様だというのか。俺が今いるこの自分の部屋、ここに来る前の―――どうやって来たかも定かではないが―――一番新しい記憶は、あの祠の前に桂木と二人で並んで立っていた記憶だ。そして、祠の向こう側に、誰かが立っていたような覚えがある。  あの瞬間から視界が途切れ、気が付けばここに、こうして、この桃羽様と名乗る男と向かい合っている。  ……場所やタイミングを考えれば、この男が桃羽様だというのは、一応合点がいく。 「吾はこの地に産まれた者共が心安らかにあるため、ここに居てあるもの。見守り、声を聞き届け、加護を授けるもの。―――おまえさまは、この地のものではないな」  男はぬう、と面をかぶった頭を突き出したかと思うと、立ち上がった俺の胸のあたりで顔を行ったり来たりさせる。すん、すん、という鼻をすするような音からして、匂いをかがれているようだ。ぎょっとして後退るより早く、男はもとのように顔を引っ込める。そして唐突に、あはは、とあけっぴろげに笑った。 「なるほど、なるほど。これは芳しい。居心地がよいはずじゃて。やれ助かった、これほど降りやすいものがここにきてやってこようとは」 「降りやすい……?」  引き込まれるように男の語りに聞き返していた。わからないことだらけの今の状況の中で、唯一この男の話す言葉はかろうじて理解できる。自然と縋るように、男の話に聞き入っている自分がいた。 「降りるとは吾がおまえたちと話をすること。ここはおまえさまの心のうちがわ。この風景はおまえの馴染みの場所ではないか?」  俺は言葉もなく頷く。馴染みも何も自宅だ。 「ここは現とはちがうまぼろしのようなもの、おまえさまの心の内側じゃから、おまえの意識の思うままに変わる。心持つものにとって最も心安らぐ場所が形をとる」 「内側……」  そうとも、と男は頷いた。  改めてぐるりとあたりを見渡す。男の語る言葉は抽象的だが、ここは現実ではないということはわかった。他のことは考えてもどうせ理解できない。  今知るべきことは、この人物が何の目的で俺に接触してきたのか、その理由だ。 「―――さて、腹は据わったか? よろしい。実はおまえさまに頼みがある。何を隠そう、昨日、使いのものをやったのはこの吾じゃ」  すかさず、使いのもの? と口を挟もうとするが、それを見越したらしい男は、俺に口を挟ませまいと、強引に話をつないだ。 「そう、そう、その頼み事だが―――祠を、吾の祠を、隣村にある万代(ばんだい)という(やしろ)に移してほしいのじゃ」 「祠を……移す? ですか」  男の言葉は、なんとも奇妙なものに思えた。そもそも、桂木でもあるまいし、祠だのなんだのとは縁の薄い人生だったから、“祠を移す”ということに対してピンとこない。  それがどうして、なんのために必要なのかということに至ってはさっぱりだった。  困惑する俺を置いてけぼりに、男は聞いてもいない事情をとうとうと、妙に情感豊かに語り始める。 「そう、なぜ吾のこの御社(おやしろ)をわざわざ移さねばならないのか―――疑問に思うておるのじゃろう。長く長く年を経るうちにな、この土地にも氏子(うじこ)がだんだんと、だんだんと減っていってな、もう吾はこの地の者らを守るほどの力はないのじゃ。もはや吾は氏神(うじがみ)ではない、おそらく早晩、吾のこのからだも露と消え失せるであろう」 「…………」  よよ、とわざとらし気に、手を引っ込めた袖で面の目元をぬぐう男に、俺は何とも言えない視線を向ける。  たしかあの湖で出会った神も、信仰が薄れ、力が弱まり、そして最後は、俺にひとつの呪いを残し、とうとう消えてしまった。あの時に感じた、息の苦しくなるようなやるせなさは今でも思い出せる。かつては力をもち、多くの人からの信仰を得ていた存在が、少しずつその名前を忘れられていき、そのうちに人知れず消えてしまう虚しさ。  だというのにこの、目の前で泣きまねをする神は、どうだろう。その仕草も言動も妙に飄々としていて、どうにも虚しさや悲しさが沸き起こってこない。  男はひとしきり泣く仕草をすると、そそくさと袖を直し、「それでな、」と何事もなかったかのように言った。 「万代の神とは馴染みの仲でな。あちらはまだまだ力がある。それでこの、長年の付き合いのある吾の頼みを聞いてくれと、先日訪問して、直接頭を下げたのじゃ。どうぞどうぞ、この山戸の地も、そちらさんが見て守ってくれまいかと。いや万代のは器の大きい御仁でな、二つ返事で引き受けてくれたわ。そんなで、吾はあちらさんのお社にうつり、この徳利の底にこびりつく酒がごとき僅かに残った力をば、御仁へ引き渡して少しでも糧としてもらうのじゃ。いやなにすぐすぐ、ぱァッと消えるでもなし、残りの時間をあちらさんの小間使いでもして過ごそうかとな」 「わ、分かりました! それで、祠をそちらに移してほしいと、そういうことですね」  語れば語るほど、男の口は滑りが良くなっていく。このままではいつまでも話していそうだと思い、俺は叫ぶように強引に男の言葉に割り込んだ。男はそれに気を悪くするでもなく、上機嫌な様子でうんうん、と頷いた。  男の語りが落ち着いたのを見てとり、これは情報を聞き出すチャンスなのでは、と俺そろりと窺うように口を開く。 「あの……いくつか聞きたいことがあるんですが……」 「なんじゃ? 申してみよ」  語るだけ語って機嫌がよくなったのか、男は鷹揚に頷く。相手は仮にも神様ということで、恐る恐る声をかけた俺は、その気安い調子の声に勇気づけられて、ここぞとばかりに質問をした。 「俺の聞いた話では……祠にいる神様は、“桃羽様”という恋愛成就の神様なのだ、という事でしたが……」 「吾は氏神。縁結びはできないよ」  すっぱりと男は言い切る。しかし、すい、と首を傾け、中空を睨むと、何かを考えるようにしてこう続けた。 「吾にできるのは、ここに住む者の健やかなれと祈ることと、子宝と安産のまじないだけじゃ。だが昨今、縁結びや願掛けをしに来るおなごが多いのは確かじゃのう。しかしそもそも、吾に縁を結ぶ力などない。できるのは先に言ったようにこの地に住む者の健康と繁栄をささやかながら守護することのみ」 「なぜそのような、縁結び目的の人がやって来るようになったのか、その理由に心当たりはありますか?」  男はやはり、首を横に振って「ない」と言い切るのみだった。 (恋愛成就の神様だと、日百高校では噂されている“桃羽様”は、その実、縁結びの力を持っていない……)  山の上の祠に祀られている“モモウサマ”という神様。俺の聞いた噂とその実態には奇妙なずれが生じている。このずれはいったい何なのだろうか。疑問に答えは出ないが、俺はその事実を心に留める。きっと俺がわからなくても、桂木なら何かわかるかもしれない。  まだまだ、この男に聞きたいことはあるはずだ。俺は必死に頭を回転させて質問をひねり出す。 「……えーと、あなたの力が弱まったのは、あなたを信仰している人が減ってしまったから、なんですよね?」 「まあ、そうさな。皮肉にも、ここ最近で祠まで参ってくれるものは縁結びのおなごだけよ。しかし吾はこの地に住む者共に守護をもたらす氏神。いかにおなごが参ろうとも、氏子に敬われなければ徐々に存在も薄れよう」 「……はい、それでどうして、祠を移動する必要があるんでしょう」  やはりその、祠ごと移動するということに俺はどうも納得していなかった。どこかよそへ移るというなら、祠はそのままではいけないのだろうか。 「うむ、それはな、祠は吾の社であり、吾のよりどころだからなのじゃよ。ここにこれがあっては吾は万代に移れない。おまえたちには、吾は見えないが祠は見える。吾の見えない者らにとって、ある意味で祠こそが吾なのじゃ。見える祠がここにあれば、吾もここにおらずにいられない。たとえこの祠に何がいるか、人がわからなくなろうとも、吾がひっそりと消えようと……」  ふっとその、常に軽妙な雰囲気をまとっていた男の動きが鈍くなった。うつむいた面に影が差し、形の変わらないはずのその表面に、ほんの少しだけ物憂げな表情が浮かんだ気がする。  しかしそう思ったのはわずかな瞬間で、瞬きをする間に男は元の飄々として気安い調子に戻っていた。  俺はその一瞬垣間見えた表情の移り変わりに心を奪われていたが、ハッとして我に返った。もとより、今目の前にいる神に、俺ごときがかけられる言葉は何もない。今は情報収集に専念しなければ。  つまり、この神様の姿が見えない村の人にとって、祠こそが目に見える、神様がそこにいる象徴だから、祠のある場所に神様はいるしかない。だから移動するなら祠ごと移す必要があるのだ、と、そういうことなのだろう。  この疑問にも一つ区切りをつけて、俺は再度口を開く。

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