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「夕実さん!」
反射的に俺はその後を追っていた。開け放たれた扉に手をかけ、廊下を覗き込むと、走っていく夕実の後ろ姿が見える。そのまま自分も廊下に飛び出そうとすると、腕を掴まれて強引に部屋の中へ戻された。
俺は腕を掴む桂木を睨みつけるように振り返る。
「っ……何ですか!? 追いかけないと……」
「あのまま、一人にしておきましょう。少し気が立っているようです」
夕実の事などなんとも思っていないようなその声に、かっと頭に血が上った。少し気が立っている? そうしたのはあんたじゃないか、と。
俺はあからさまに桂木を睨んでいたのだが、それに気づきもせず、桂木は表情を変えずに廊下の方を見ている。
「それにこのあと、まるちさんへの聞き込みもしなければならないし、麗奈さんにも事情を……」
「でも、夕実さんが心配です。あんなに動揺していました」
掴まれた腕を振り払って、正面から桂木を見て言う。桂木はそこで初めて俺の発している怒りに気が付いたのか、まるで俺の真意を探るかのような目線をこちらへ寄越す。俺は真っ向からその視線を受ける。
「聞き込みは明日でもできるし、美津さん達にお願いして、一緒に探してもらいましょう」
「それはできません」
間髪入れずにそう否定されて、なおも俺の苛立ちは増幅した。
「……っどうして、」
「今日のうちに、聞き込みを済ませてしまいたいんです。情報を得るのは早い方がいい」
目の前の桂木は腹立たしいほど冷静に、こちらを見下ろしている。その冷たい表情を睨みつけていると、桂木は明らかに呆れ混じりのため息をついた。
「吉野さん、あなたは少し、彼女たちに肩入れしすぎていませんか」
「な……そんなことはないです! ただもう少し、彼女たちに配慮してほしいと言っているだけで……」
「……それは、俺に対して言っているんですか?」
幾分かトーンの下がった桂木の声に問われ、思わず身構える。だがここで黙るのは我慢ならなかった。
「……確かに、夕実さんは非協力的だし、何か隠し事をしているかも、と疑うのはわかります。でも、だからと言ってあんなに……」
「捜査に必要な情報を聞いているだけでしょう」
「、あんなふうに、引っ掛けるみたいに聞くことないでしょう!?」
「それは、吉野さんだってしていることですよ」
「……それは」
確かに。俺だって聞き込みの時、相手をわざと引っ掛けたり、動揺させたりして情報を引き出すことはある。
言われて一瞬口ごもってしまうが、それでも、やって良い相手と悪い相手は見極めているつもりだ。
「でも、相手は未成年ですよ、」
「未成年であろうと、聞くべきことを聞かなければ事件の解決はできない」
俺が必死に言いつのっても、桂木はただの一言で切って返す。桂木にまるで相手にされていないと思い、俺はますます声が棘々しくなっていく。
「だから、その聞くべきことをもう少し優しく聞いてほしいと言っているんです!」
「俺はけして恫喝はしていないし、丁寧に、穏やかに聞いているつもりですが」
「口調だけ丁寧でも、威圧してたら意味ないじゃないですか!」
「俺は威圧しているつもりはないし、ただ普通にしているだけ―――」
「桂木さんは普通にしていても、見た目が迫力あって怖いんですよ!」
つい口を滑らせて、気が付けば言わなくてもいいことまで言ってしまっていた。これではただの悪口だ、と気づいて口ごもる。
先ほどまで、何を言ってもすぐに言葉を返してきたのに、今回は何も言ってこない。恐る恐る顔を上げると、桂木はただ黙ってそこに立っていた。
こちらを見ていたはずの真っ黒な瞳は、今は前髪の影に隠れて見えない。それが余計に俺を不安にさせる。
……と思うと、桂木がわずかに顎を下げ、その瞳を覗かせた。とたん、腹の底がざわつく感覚に襲われる。桂木は静かな低い声で言った。
「彼女たちに肩入れしているわけでないというなら、なぜ聞き込みを後回しにしようと思ったんです? 聞き込みが一日遅れれば事件解決も同じだけ遅れる。そんなことでは、事件を解決するために調査をするはずの警察官にとって、本末転倒でしょう」
「……それは、」
「何度も言いますが、俺は礼節を守り、聞くべきことを聞いているだけです。それ以上の思いやりを持った結果、事件の終息が遅れては元も子もない。俺たちが一番しなければいけないのは、早期に事件を解決して関係者を安心させることです」
俺は何も反論できなかった。
後から考えれば、いくらでも反論できる点はあったと思う。でもそれより、桂木の言った“本末転倒”という言葉に、まさしくぐうの音も出なかった。
俺は何も言えないことが悔しくて、そんな顔を見られたくなくて、うつむく。頭の中では、桂木の言った言葉がぐるぐると渦巻いていた。
(……夕実さんを放っておいて、事件の解決を優先すべきなのか? 俺の心配は行き過ぎたものなのか? 俺は今、警察官として本来しなければいけないことを、二の次にしているのか……?)
先ほどまで確固たる意志で夕実を追いかけたいと思っていたのに、今はそれが正しかったのかわからない。
何が良くて何が悪いのかわからない。頭を抱えそうになる俺の耳に、がたん、という物音が聞こえてきた。
はっと顔を上げると、開けっ放しになっていた面談室の扉から、おずおずと美津がこちらを窺っていた。
「あの……夕実が走っていくのが見えて。その、聞き込み、どうしましょうか」
美津が戸惑っているのがわかる。だが俺はその瞬間、彼女にかけるべき声が出てこなかった。
何を言えばいいのか、何が正解なのか、すっかり自信を無くしてしまっていた。
そんな俺に変わって、桂木が美津に答える。
「夕実さんはすこし、興奮されているようです。俺たちが追いかけても逆効果ですし、追わなかったのですが……彼女は、美津さんとも顔を合わせず行ってしまったのですか?」
「えっと、……」
「みっつんは追いかけようとしたんだけど、うちが止めたの」
不安そうに頷きかけた美津の後ろから、唐突にまるちが現れた。そして臆することなく美津の前に出て、俺達と視線を合わせる。
「ゆんちゃん最近イライラしてたから、少し一人にしたほうが落ち着くかなと思って。聞き込み、次うちですよね? 終わったらゆんちゃん探しに行くんで」
「そうですか。では、こちらに。美津さんはすみませんが、麗奈さんともう少し待っていていただけますか」
「わ、わかりました」
まともに頭の働かない俺に変わり、桂木がまるちを面談室へ招き入れる。美津は面談室の扉を閉め、隣の教室に戻っていった。
俺も、このまま突っ立っているわけにはいかず、桂木に促されるようにソファへ歩み寄る。未だに脳内はとっちらかっていたが、とにかく。こうなってしまった以上、まずはまるちへの聞き込みを無事に終わらせるしかない。
まだうまく呑み込めない感情を無理やり飲み込み、俺は表情を取り繕った。
面談室の奥のソファにちょこんと座るまるちは、向かい側に腰かける桂木の姿を物珍しそうに眺めている。こんなに、堂々とした態度の子だったろうか?
以前喫茶店で話した時は、時折不安そうに夕実の影に隠れていたものの、四人で言葉を交わすとなれば弾むように元気に話していた。すこし語尾を引っ張る癖があり、どこか甘えた雰囲気があった。どうも、今目の前にいる子との印象がずれているような気がする。
(美津さん達を心配させないように、無理をして動じないよう振舞っている? それとも、初対面の時は人見知りしていて、もともとはこういうタイプだとか……?)
そんなことを考えながらソファに腰を下ろすと、途端に、聞かれてもいないのにまるちは勝手に喋り始めた。
「ゆんちゃん、あっ、夕実のことなんですけど、めっちゃ言葉遣い悪くなかったですか? 男の子みたいにガサツで乱暴なんだけど、あんな感じで、ちょっと怖いことがあるとパニクっちゃうです、すみません~」
あっ、言葉遣い悪いのは私もかぁ、とまるちが笑う。そのまま、半ば呆然としている俺に向かってにっこりと、「で、何がききたいんですか?」と言った。
その勢いと笑顔に若干気圧されたが、分かる。まるちはにこやかに笑っているが、その笑顔は警戒心の塊だ。先ほどの夕実と一緒で、こちらへ少しも気を許していない。
桂木がこちらへ視線を寄越している。口を開く様子がないということは、俺に聞き込みをやれと、つまりそういう事だろう。俺はそこまで打たれ弱くないし、少々言い争いをしたくらいで職務を投げ出したりはしない。何よりここで桂木に代わってもらったら、自分で自分が情けない。
俺は睨むくらいの強さで桂木を一瞥すると、気持ちを引き締めてまるちに向き直った。
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