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 唐突に、無邪気さすら感じる、くすくすという笑い声がした。「ずっと五人でなんて、ありえないよ」、とまるちが言う。  ここ数日でよく聞いた言葉だ。夕実も、麗奈も、美津も、「ずっと五人で」とそんな言葉を口にしていた。 「刑事さんだってそうでしょ? 恋愛とかさ、趣味が変わったりさ、そうやってどんどん人の中身は変わっていって、昨日までずっと仲良かった人とも、どんどんずれていくんだ。みんな、同じことを幼稚園とか小学校の頃からずーっと繰り返してるはずなのに、なんでわかんないかな? 何年同じこと繰り返せばわかるわけ?」  今まで聞いたことのあるまるちの声は、抑揚にとんだ、喜怒哀楽のはっきりした声だった。でも今は、感情の起伏をすべてそぎ落とし、最初から最後まで平坦なまま。ただ時折混じる皮肉気な笑いだけが、そっけない言葉に侮蔑の色を添えている。 「だからさ、夕実がサツキのこと好きって言った時から、ああ、この五人の時間ももう少しで終わるんだな、って思ってた。まー、夕実がずっと秘密にしてたから、案外長く続いたけど。でも、まさか麗奈も美津のこと好きになってたとなんてね。夕実がどうこうしなくても、結局私たちは長続きしない運命だったんだなぁ。夕実はもう叶わない恋確定だけど、あの二人どうなるのかな」  よくよく回る口だけは以前と変わらない。語られる内容にはかなりの落差があるが。まるちはまるで、映画やドラマの口コミのような、他人行儀な感想を羅列していく。親友だと言っていた、彼女たちの“評価”を。 「美津って鈍感だし、麗奈とは感受性がちょっと違うから、なぁんか上手くいかなさそうだな~。麗奈は振られても、未練がましく美津と友達を続けられるかも。夕実はね、多分無理。一緒にいるのすら苦痛で仕方ないんじゃないかな。美津は、麗奈と友達を続けようとするかもしれないけど、結局振った罪悪感で、以前と同じようには戻れない。麗奈は麗奈で、友達の美津に満足できなくて耐えられない。結局バラバラになっちゃうんじゃないかな。ね? ほら、変わっちゃったらもう、二度と戻れないんだよ」  ちらり、と。上目でバックミラーを覗き見た。まるちの顔は、暗い車内ではっきりと伺い知れない。だが、差し込む街頭の光が切り取るように照らし出したその口元は、やんわりとした弧を描いていた。  ぞっとした。  吞まれてはいけないと思った。桂木の声を聞いて、いくらか冷静な思考力は戻ってきていた。俺は乾いた口内を唾液で潤し、上ずってしまいそうな声を必死に抑える。 「でも、そうは言うけど。誰かに恋した瞬間、友達としての愛情が壊れるわけじゃない、でしょう」 「へえ、そう思う?」  笑い交じりのまるちの声が、耳朶から鼓膜へ入り込んで、虫の羽音のように耳の中をくすぐる。そんな妄想を、力強くステアリングを握りこんで振り払った。 「友達か恋人かなんて、きれいに1か0になんてできない。人なんだから、簡単に割り切ることなんてできないよ」 「そうだね」  猫なで声で、まるちが同意を示す。まるでそう思っていないことはありありと伝わってきた。  俺は何かに突き動かされるようにまるちに話しかけ続けた。それが今の俺の義務だと思った。 「サツキさんが夕実さんを、本当に嫌いになるかなんて誰にもわからないだろ」 「そうだね、でも、友達だから、裏切られたらそれだけ恨むってこともあるよね」 「それは……」  悲しそうに言うまるちの言葉に、俺は続く言葉を失ってしまった。  反論できない。確かに、そうなってしまうこともある。より深い関係だからこそ、裏切られたときの傷が致命傷になるときもある。  でも、それと同じくらい、“そうじゃない可能性”だってある。  人の気持ちに絶対はない。それは、警察官になっていろんな人と接する中で感じたことだ。確かに、ある程度の傾向はある。こんな風に言えばこう思うだろう、と予測はつけられる。でも、その予測に絶対に収まると言い切れないのが、人の気持ちであり、心なのだ。 「恋人として好きになったから友達じゃないとか、そんな単純な話じゃないだろ。いろんな関係とか、いろんな思いが混ざり合った、その人たちだけの関係が……距離が、あるはずなんだ」  言葉を一つ一つ選んで、必死に、まるちに届くように語り掛ける。たった1メートルもない距離が遠くもどかしい。  彼女たちはみんな、いろんな思いはあれど、「五人一緒の時は楽しかった」と言っていた。今はサツキと言うかけがえのない友人を一人失ってしまったが、それでも、彼女たちが一緒にいることを、他の三人は望んでいるはずだ。 「そばに居ることすら辛いなら、君のいうように関係が壊れてしまうかもしれない。でも、そうじゃないなら、きっと互いに居心地のいい距離を見つけて、一緒に居られるはずだ」  そこで言葉を切って、まるちの返事を待つ。しかし、どんなに待っても後部座席から答えは返ってこない。俺は背後を窺いながら、言葉を続ける。 「これまで仲のよかったみんなが一緒にいたいと思うなら、一緒にいるちょうどいい距離が、見つかるといいなと俺は思う」  タイミングよく、目の前の信号が赤に変わった。周りを走る車は一台もない。交差点にたった一台、俺達の乗った車だけが停車する。  車が停止し、駆動音が低くなったその合間を縫うように、ふふ、とささやく様な笑い声が首筋をゆったりと撫でた。 「私は夕実が一緒ならいい」  信号は赤になったばかりだ。少しくらいなら目を離しても大丈夫。だというのに俺は振り向けない。そこに何がいるか確かめたくなかった。じりじりと背中があぶられるような焦燥感に、唐突に、もうやめてくれと叫びたくなった。 「夕実がいれば十分。だけど、夕実がいないと私はたぶんね、バラバラになる」  ばらばらに。その言葉がひとつひとつ、耳に突き刺さるようだった。 「けーじさんは、みんながちょうどいい距離を見つけられればいいって言ったけど、私は、夕実が私の隣にいることしか望まないよ。私は1しか望まない。1じゃないなら0になるだけ」  信号が青に変わる。しかし、俺は石のように固まって、アクセルを踏むことができない。走ったところで逃げられない。逃げようのない耳に、幼い声が流し込まれる。甘く粘度を持った泥のように、俺の耳を塞いでいく。 「ねえけーじさん、どう思う? みんな仲良く、いられるかな」  声から逃げるように、その甘い毒を振り切るように、俺はアクセルを踏みこんだ。  ----------------  たどり着いたまるちの家は大きなマンションで、入り口には煌々と明かりがついていた。が、そのエントランスに人影はなく、まるちを迎えに出ている人はいないようだった。  まるちを無事送り届けるため、車を来客用駐車場に止め、エントランスまで付き添う。無人の空間にあったインターホンで、まるちの部屋番号を呼び出した。その間、まるちはスマホをいじり続け、こちらを見なかった。  インターホンの呼び出しに答えたのは、まるちの父親だった。スピーカーのざらついた声で、エントランスまで迎えに行くと告げる。しかし、父親が下りてきたのは、その通話が切れて十分も経った後だった。  部屋を出てここへ降りてくるだけだというのに、一体何をしていたというのだろう。大変な目にあった娘を心配に思わないのかと内心腹立たしく思ったが、現れた父親にそんなことを言える訳もなかった。父親は、「仕事の切りのいいところまでやっていたもので、」と悪びれず答えた。俺は顔が険しくなるのをこらえきれなかった。  そんな父親に俺は、まるちが今日、大変な思いをしたこと、かなり疲れていることを伝え、ゆっくり休ませるようしつこく言い添えた。父親は困ったように笑って、はい、はい、と始終頷いていた。  まるちはその間、スマホをいじり続けていて、傍らに立つ父親を一度も見ることはなかった。  そして、父と娘の姿がエレベーターの向こうに消えるその瞬間まで、とうとうまるちは、父親のほうも俺のほうも、一度も見ることはなかった。  余りにいろいろなことが起きすぎたせいか、俺はしばらくぼーっとその場に突っ立っていた。一分ほどだろうか、はっと我に返り、足早に車に戻る。  お待たせしました、と言いながら運転席に座る。桂木がこちらを見ているのがわかったが、何も言わずに車を発進させた。向かう先は桂木の事務所だ。  再び、エンジンの音だけが車内に響きわたる、静かな時間が過ぎる。 「……気にしていますか?」 「え?」  唐突にかけられた言葉に、ちらりと助手席を窺う。桂木は頬杖を突き、窓の外側を眺めている。 「さっき、まるちさんが言っていた事を、気にしていますか?」  なぜ、そんな話をするのだろう、と思った。俺のことを心配して? だとしても一体なぜ急に? 戸惑いながら俺は答えた。 「……気にしてないと言ったら、嘘になります。まるちさんの言う通り、本当に、彼女たちはもとに戻らないんでしょうか。そんなの……悲しいじゃないですか。だって、まるちさん本人だって、五人でいたときは楽しかったと言っていたのに」  話すうちに、思い通りにならなくて駄々をこねる子供のような口調になっていることに気が付いた。  まるちの意見も、ある意味で正しいと思う。でも、それではあまりに報われないじゃないか。なんで、どうして。そんなやりきれない思いが自分の中で渦巻いているのを感じる。  そんな俺をなだめるように、桂木は凪いだ声で問いかけた。 「吉野さんだって、学生のときの友人と、昔の関係性のままというわけじゃないでしょう?」 「それはそうですけど……。でも、彼女たちは俺が学生の時とは違って、本当にお互いを思いあってた」  そう、彼女たちの関係は、俺の築いてきた友人関係とは違う。 「俺が高校の時は、あんなに友達のことを本気で心配できる奴なんて周りにいませんでした」  そう言ってから、いや、と首を振る。 「いや……そうじゃないですね。そういう俺が一番、そんなことができる人間じゃなかった。」  桂木は、正面を向く俺の頬のあたりを多分じっと見つめていた。視界の隅で、桂木が俺のほうに顔を向けているのがわかるからだ。  ……運転中、というのは便利だ。見たくないときは、相手の顔を見ずに済む。 「吉野さんは、どちらかというと他人を過剰に心配する人だと思っていました」 「あはは、違いますよ。そう見えるなら……多分、俺自身、そうならないようにしているから」  桂木は無言だ。無言で、俺の話の続きを促しているように感じた。窺うように桂木を見ると、目線が合う。やはり、話の続き期待するような目だった。  俺は仕方なく、「本当に大したことがない話ですよ、」と前置きをして話始めた。 「……自分でも、いつまでも気にするのはどうなんだと思いますけど。俺の高校時代ってかなり適当で、毎日友達と遊んで回って、その時楽しければいいやって感じで過ごしてたんですよね。その時、よく一緒に遊んでいた友達の一人が、実は家計が厳しくて、苦労してバイトで稼いでたんですよ。他の友達はそれを知っていたのに、俺はそのことをぜんっぜん知らなくて、いつも無駄に金のかかる遊びに誘っては、たまには奢れよ、とか無神経に言っちゃってたわけです。その友達が俺に何も話してくれなかったことも、俺自身、友達のことを知ろうともしていなかったってことも、両方に愕然としました。俺がアホみたいになんも考えず遊びに誘った時、そいつは俺のことどう思ってたんだろうと思うと、情けなくて、恥ずかしくて。……それ以来、自分の無神経さとか、相手を無意識に傷つけてしまうところとかが、ずっとコンプレックスなんです。今でも、俺は配慮が下手だし、それで周りの人をいつも不快にさせたり、傷つけるから。……桂木さんのこともそうだったし」 「……吉野さんは十分、優しいと思いますが、」  そう言ってくれる桂木の気遣いは嬉しいが、俺は苦笑いして首を振る。 「俺なんかじゃ到底無理でしたけど、多分、美津さんも麗奈さんも、……あの子たちみんなが、いい子だったから、あんなふうに大切な友達ができたんだと思う。そういう大切な関係なら、壊れてほしくなかった」  呟いた声は、自分で意識するよりも寂しく聞こえた。

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