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「……やっぱり、吉野さんは優しい人だ」  暗闇の中で通り過ぎていく街頭を眺めながら、静かな声で桂木は言う。 「俺はあいにく、友情とかそういうものには疎いので。彼女たちの友情は、確かに素晴らしいものかもしれませんが、俺にはよくわからない。守ろうなんてしないだろうと思う」  ちらりと盗み見た桂木は、窓にもたれかかって夜の風景を見つめていた。悲しそうな顔はしていなかった、だというのに、その佇まいや遠くを見る視線が物悲しい。 (そうか、……似ているんだ。桂木さんと、まるちさんは)  まるちは、自分は夕実しか望まないと言った。彼女が手に入らないのなら、自分は破滅するしかないのだと。彼女は、自分をいじめから救ってくれた夕実だけをひたすら欲していた。  そんな彼女と、桂木は……似ていると思う。桂木は高校時代、友達がいなかったという。そして、彼もまた、哲生という唯一無二の存在がいて、今でも彼を……もう戻らない彼を一心に欲している。  桂木も、まるちも、その欲求に“ちょうどいいところ”はない。1か、0か。共にいるか、破滅か。その二択しか望めないし、望んでいない。自分の存在と引き換えにするほどに相手を欲している。そんな強烈な欲求を抱える二人は、似ている。  まるちの考えを否定することは……桂木を否定することなのだ、と俺は気づいた。同時に、途方にくれてしまう。  まるちの考え方が、俺にはあの時、どうしても理解できないものとして聞こえてきたからだ。とりもなおさずそれは、俺が桂木の考えを理解できないことを意味する。 (俺には、桂木さんを理解することは、できないのか?)  その可能性に気が付いた途端、ぎゅうと胸の奥がねじ切れるように痛んだ。それはひどく苦しいのにいっそもどかしく、爪を立てて胸の皮膚を破り去ってしまった方が、よほどせいせいするだろうという痛みだった。  荒れ狂う胸の内を必死に鎮めようともがいていると、ふと、遠くを見ていた桂木が俯いて、あろうことか俺の胸をさらにずたずたにするような言葉を呟いた。桂木にしては珍しく、あからさまに自嘲的な口調だった。 「もし、友達がいなくて俺のようになるのなら……確かに、友情はあったほうがいいかもしれませんね」  桂木が短く笑った。  俺は唐突に叫びたくなった。そうじゃない、違う。そんな風に笑うことは無い。桂木は何も……何もおかしくない。  ねじれて痛んでいた胸の中をさらうように、感情が激しく吹き荒れる。その渦に押し出されるように、 「ちがいます」  そう口に出していた。あとからあとから、口から言葉が零れ落ちた。 「桂木さんが、高校時代のクラスメイトの顔を一人も覚えてないからって、何ですか。桂木さんがちゃんといい人だってことは俺が知ってます。桂木さんは何もおかしくはないです、」  そう、俺はちゃんと知っていた。  桂木がどんな人生を歩んできたのであろうと、俺の中の彼の価値は少しも揺るがない。  桂木が何を思い、どんな人生を歩んできたのか、俺には理解が難しいかもしれない。でも、そうやって今の桂木が形成された。だから俺はどうしても、その考え方も、歩み方も、否定したくなかった。 「まるちさんも、……あんなふうに夕実さんに黙っていたことは咎められるべきですが、彼女が夕実さんだけを望んで、他を重要じゃないと、そう思うこと自体はなにもおかしくない」  そう口に出してから、納得した。多分まるちも桂木も、どうしようもなく求めずにいられなかったから、そうなったのだ。それは誰にも責められない。  それと同時に気が付いた。なぜ俺はあの時、まるちの言葉にああも反論したのか。たとえ恋愛と友愛ですれ違いがあっても、互いに思いあうなら友情が壊れることはないと、どうしてあの時強くまるちに訴えかけたのか。  自分がこんなにも、彼女たちの関係にこだわるその理由はなんなのか。 「……俺、多分、彼女たちの友情を壊したくなかったんです。俺には絶対に持てなかった、理想の友人関係、みたいなものを見た気がして……勝手に、守ろうとしていたんです」  暗い道路、まばらな街頭、対向車線のヘッドライトと、青い信号。夜を構成する数々の物体が、ただ目の前を通り過ぎていく。 「桂木さんの言うとおりでした。自分は、彼女たちの友人関係が壊れるのを見たくなくて、不必要に彼女たちに肩入れしていました」  そうやって俺は、自分の身勝手を押し付けた挙句、本来の果たすべき職務をおろそかにした。静かに、だけど恐ろしく重い後悔の念が押し寄せる。  俺は、桂木があまりに彼女たちに厳しすぎると思っていたが、そうじゃなかった。桂木の言う通り、俺が彼女たちに気をかけ過ぎていたのだ。 (う……っわ、情けないな、俺)  先ほどまで嵐のごとく様々な思いが逆巻いていた胸の内が、今は死んだように重く沈んでいる。運転中でなかったら、今すぐ頭を抱えてしまいたかった。  目の前の信号が赤に変わったのを見て、体に染みついた動作でゆっくりと車を停車させる。慣性で体だけが前に引っ張られる。その時、弱った俺の心から、ため込んでいた本音がぽろっとこぼれた。まるで水の入ったコップから、たぷん、と中身がこぼれるように。 「本当に、情けないです。通常の仕事ですらこのざまで。桂木さんの捜査に協力する、なんてあの時啖呵を切ったくせに、これじゃ、桂木さんから信用されないのも当然ですね」 「……吉野さん? なんのことを言ってるんです」  怪訝そうな桂木の声は、しかし耳に入らなかった。  信号が青になった。まるでそういう機械であるかのように、アクセルを踏んで車を走らせる。  常識的な判断はできるし、平静な状態で運転ができる。だというのに、まるでどこかの部品がばかになってしまったかのように、今まで少しずつ腹の中に貯蔵してきた思いが、唇からあふれて止まらない。……俺今、どんな顔して喋ってるんだろう。 「書類集めるのもきっと俺より浦賀のほうが何倍も早いし正確だし、俺なんの役に立ってるんだろう……。というかそもそも、桂木さんが俺にまだいろいろ任せてくれないのは、俺が頼りないからだってわかってるんですよ。もっと役に立てれば……そうすれば、もっと相棒として信用されると思うのに、役に立つどころか足を引っ張ってばっかで……申し訳ないです」  桂木は沈黙している。そりゃそうだろう、大の男がいきなりグダグダと愚痴りはじめたのだから、困りもする。やはりどこか冷静な頭で俺はそう思った。  多分、今は運転という他にしなければいけないことがあるから、心をわざと麻痺させてダメージを感じないようにしているのだと思う。それはそれでありがたい。事件捜査も満足にできない俺だが、せめて桂木を無事に送るぐらいの仕事はまっとうしよう。  そう決めたら、割と楽だった。悔しくて、情けなくて、悲しいはずなのに、それらは毛布越しに触れているかのように輪郭がぼんやりとしていて、運転に集中すれば無視することは簡単だった。  今は、今は何も考えたくない。桂木の前でこれ以上無様な姿をさらしたくない。  そうしてしばらく、車内には走行音だけが響いていた。ほどなくして、ずっと呆れて黙っているものだとばかり思っていた桂木が、静かに口を開いた。 「吉野さんを信用していないわけじゃないんです。ただ……」  桂木はそう言って口を閉ざす。  唐突に話始めて、また唐突に黙ってしまった桂木に、俺は締め出した感情がまたじわじわと胸を浸食してくるのを感じた。  ただ? ただ、なんだろう。ただ、ちょっと頼りないとか? ちょっと周りが見えなくなるとか? 今の状況ではネガティブなことしか思いつけない。  だが桂木が口にしたのは、そのどの予想とも反する言葉だった。 「ただ……俺はためらっているんです」  ためらい? どうして?  一瞬、桂木の座る助手席を振り返った。桂木はまっすぐに前を見つめていて、その表情は一瞬見ただけでは窺い知れれない。だが、どことなく何かを憂いているような、そんな雰囲気だった。  桂木は、訥々と言葉を紡いでいく。 「俺は、吉野さんをこちら側に巻き込んだ。本当なら吉野さんは、こんな異常なものに関わらず、普通の人生を過ごしていたはずです。それを俺のせいで、捻じ曲げてしまった」 「そ……れは、桂木さんのせいではないし、俺は気にしない。何度も言ったじゃないですか」  俺は慌ててそれを否定した。だが、桂木は緩く首を振るばかりだ。 「俺の高校時代の話をしたでしょう。吉野さんや美津さん達のように、普通に過ごせなかった。変なものが見えるから、というだけで他人と関わるのがひどく……いろいろあって、億劫になっていて。気が付いたら誰とも関わらず過ごすのが一番楽だった。高校時代、友達と一緒に帰ったこともない。放課後にどこかへ遊びに行ったこともない。ただ勉強と部活だけをする毎日でした。皮肉なことに唯一覚えているクラスメイトの顔は、つぶれて血塗れの、元の顔なんてわからない、幽霊の顔だ。―――こんな人生を、俺のせいで、誰かに背負わせることになるんです」  桂木の言葉は、実感に満ちているからこそ迫力があった。  だが俺は、桂木のその言葉に、反論せずにはいられなかった。そうせずにはいられない衝動が、桂木によって再び乱された胸の内側で、激しく渦巻いていた。 「でも俺はあんたが守…………相談に乗ってくれるおかげで、助かってます。酷い人生を送らなくて済んでいると思う」 「だからです」  俺の、桂木に比べて何倍もつたない言葉にかぶせるように、桂木は強くそう言った。 「吉野さんに危害が及ばないようするのが俺の責任だと思っていました。でも、俺は哲生の件になると箍が外れる。あいつしか見えなくなる。吉野さんが近くにいれば、ためらわず危険にさらすでしょう。俺が不幸にした人間を、今度は本当に殺すかもしれない。それが恐ろしかった。だから、あなたを本格的に、哲生の調査に加えることを躊躇っていた」 「そんな、俺は……!」  そう叫ぼうとして、後ろから鳴らされたクラクションでハッとした。  目の前の信号が青に変わっている。俺は慌ててアクセルを踏んで車を発進させた。  こんなんじゃ、ゆっくり話もできない。俺はすぐ近くにあった、閉店したドラッグストアの駐車場に入り込み、有無を言わさず車を止めた。  そして大きく深呼吸すると、体ごと桂木に向き直って言う。 「俺は俺で、もう覚悟を決めています。俺が危険を承知で桂木さんに協力したいのは、桂木さんを信用しているからです」  狭い車内で、俺は運転席から身を乗り出すように、まっすぐに桂木に向き合う。 「桂木さんは俺の人生を捻じ曲げたと言うけど、それはあんただけのせいじゃない。俺とあんたを出合わせた前原さんにも、逃げなかった俺にも責任がある。俺はそういう、誰の責任だ云々を抜きにして、あの時、俺を助けてくれた桂木さんのことを、信用できるいい人だと思っているんです。だから協力するんです。危険な目に遭うということもわかっていて、了承しているんです。だから、俺の心配をして、事件の詳細を俺に黙っているんだったら、心配は無用です」  そこまで一息に言い切ると、俺はふん、と挑むように桂木を見据えた。  桂木はその勢いに気圧されているようだった。目元は見えないが、珍しく半端に開いたままの唇が、その驚きを物語っている。やがて桂木は、逡巡するようにゆっくりと俺から目を逸らした。 「……それでも、俺は悩みます。あなたが実際に不幸をかぶることになるかもしれない以上、どうしても」  桂木は、つい数時間前まで調査をしていた時の様子が別人のように、表情を歪ませていた。  その表情には、どこか見覚えがある。自分が初めての事件で怪異に取り込まれかけ、倒れた後、目を覚ました俺に狼狽した様子で声をかけてきた時と同じ表情だ。心配と、後悔がないまぜになった顔。  俺はだんだん、桂木に腹が立ってきた。あの時、俺を危険にさらすかもしれないと、それでもいいかと聞いてきたのは桂木だ。そしてそれを、俺は了承した。桂木が俺の心配をしてくれるのはありがたいが、一度互いに承諾したのだ。いまさら何を心配する必要がある?  その苛立ちが俺に、まるで子供の屁理屈のような無茶苦茶な言葉を言わせた。 「じゃあこうしましょう。俺が不幸にならなきゃいいんでしょう? 俺、絶対に死にませんし、絶対に不幸にはなりませ……いや、ちょっとくらいは不幸になるかもですけど、とにかくやばいレベルで不幸には絶対なりません。これでどうですか?」  最後、少しだけ日和ってしまったが、俺はそう言い切った。自分でもどうかと思う内容だったが、開き直って、ふん、と鼻息荒く桂木を見つめる。  その子供じみた言い様に毒気を抜かれたのか、桂木のぎゅっと皺の寄っていた眉間が、するりとほどけた。しばらくして、諦めたように大きなため息をつき、大きな手を額にあてる。 「……そこまで、言うなら。では、これも聞いておかなければなりません。俺と哲生とのことに、抵抗はありませんか?」 「そんなもんあるわけない! ……です!」  これには考えるより先に口が動いていて、若干食い気味に答えていた。それこそ、何をいまさら、だ。抵抗があったらこんなに桂木に協力しようなんて思えるはずもない。  すると、ふふ、という声がどこからか聞こえた。低くて、柔らかくて、どこか聞き覚えのある……それが桂木の、笑った声だということに遅れて気が付いた。 (あ、今、桂木さん笑った……?)  目の前には、顔をそむけた桂木の横顔がある。その表情は髪に隠れて見えないが、明らかに、その声は桂木のものだった。  ぽかんとしている俺の目の前で、桂木は振り返る。そして、俺にまっすぐに向き直った。  その顔はもう笑ってはいない。いないのに、先ほどの声が耳の奥から離れてくれない。そのせいだろうか、桂木の表情がいつもより柔らかく見えた。  桂木は先ほどにくらべ、いくらか落ち着いた声音で、「ありがとうございます」と言った。 「わかりました、今回の件がひと段落したら、改めて哲生の事件のことを、お話ししましょう」 「えっ……!」  それは、哲生のこと……桂木の過去の出来事に、関わってもいいということなのだろうか。踏み込むことを、許されているのだろうか。 「そのうえで、正式に、あなたに調査を頼みたいと思います。協力してくれますか」  体の中で何かがはじけた。それは、俺がずっと欲していた言葉だった。  俺ばかりが頼るのではなく、桂木に頼ってもらいたい。そうして、きちんと彼の役に立ちたい。それが叶うなら、俺はいくらでも、どんな辛いことでも頑張れる。  俺は体の底からあふれてくるその衝動に、思わず笑みをこぼしながら、はい、と大きく桂木に返事をした。  -----------------------

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