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04

 あくる日は朝から快晴だった。冬の気配が感じられる澄んだ空気を、陽光がわずかに温めている。フロントガラスから入ってくる日差しで車内はほのかに暖かく、この季節にしては珍しく暖房もいらないほどだった。最近着ることが多かった薄手のコートも今日は必要ない。  深御市市街地の街路樹は、その葉を一様に赤や黄に染め上げていたが、目的地の万代神社周辺は既に紅葉のピークは過ぎ去り、葉の落ちた木々が寂しく並んでいるばかりだった。  車を降りて境内に入ると、全体的に枯れた色彩の風景の中に、妙に明るいトーンの一角があることに気が付いた。  木製の立札や石塔の並ぶその隣に、それはあった。工事の後だろう、掘り起こされたばかりのように見える土や、新しく敷かれた砂利、新品の木材で作られた祠が、古色蒼然とした境内の中で妙に浮いている。  ふと、俺の右耳をすり抜けるように、ふーっと誰かが吹いた息のような風が吹く。ふわりと香りが広がるように感じ俺を包んだのは、以前も感じたことのある桃羽様の気配だった。  桂木と俺は祠へと歩み寄る。近づいたところで、その祠のある台座を、ちょろりと横切るものがあった。反射的に足を止めてそれを目で追う。以前、壊れてしまった祠の近くで見かけたトカゲがいたが、それとよく似たトカゲがちょろちょろと祠の台座の側面を這っていた。  トカゲは台座の側面をぐるりと回り、祠の背面を伝って、するすると屋根の上に再度その姿を現した。 「桂木さん、このトカゲ…………っい!?」  以前も祠で見たことのあるトカゲだ、とそう説明しようとした俺の、祠の屋根の上を指さした指先に、トカゲは器用に跳ねてくっついた。ひた、という湿った冷たい感触を肌に感じて、そこから一気に鳥肌が全身に駆け巡る。  別に虫も爬虫類も苦手ではないが、トカゲだって子供の頃に素手で捕まえて遊んでいたが。でもそれは子供の時であって、大人になってからは動物を素手で触るなんて犬か猫くらいしか経験がないわけで。  瞬間的な嫌悪感から、とっさに振り払おうとした俺の腕を、何かを察知した桂木が掴んで止めた。  それとほぼ同時だろうか、聞き覚えのある声がかすかに聞こえた。 「吾の願い聞き届けてくれた事、感謝する」 「あ……え?」  柔らかく低い声は、あの不思議な空間で言葉を交わした桃羽様の声に間違いない。だがその姿は前後左右を見渡してみてもどこにも見当たらなかった。  もしやと思って指先を見ると、そこにしがみついたトカゲが真っ黒な目をこちらに向けていた。 「これは吾の使いのものでな、言伝を頼んでおる。やれ引っ越しだのなんだので弱った爺にはおまえさまに降りることすら堪える―――いや余計なことは言うまい」  トカゲが喋っている。いや、正確にはトカゲは口を動かしたりしていないから、発声しているわけでないと思う。摩訶不思議な仕組みで、トカゲから声が発せられている。 「この間の、男は来ておるな?」  トカゲがわずかに顔を傾けて、桂木のほうを見上げる。傍から見れば珍妙な光景だろうが、桂木は真剣な面差しで、俺の指先に掴まるトカゲを見下ろしていた。どこか愛らしいその体に似つかわしくない、どこか厳かにも思える声が告げた。 「よく聞くべし。ここからそう遠くはない、忽平の土地の森ヶ淵の社がある。そこの主から聞いた。どうもその主の近くで、“ざわざわと騒がしいものが”埋まっているそうだ」  桂木が息をのんだ気配がした。俺の腕を掴んだ手に力がこめられる。 「社の使いのものが、埋めている最中の様子を見ていたようでな。山沿いの、かつて人家だった場所に埋められているそうじゃ。森ヶ淵の主が気をきかせて、その土地に近づかんよう言い聞かせておるから、山のものには影響は出ておらぬ。人のあまり住まない土地故、人の子への害もそう出ておらぬそうじゃ。―――聞けば、後ろの男は”そうぞうしいもの”を集めて回っているそうではないか。例のそれもおぬしの探し求めているものではないか? そうであればさっさと持って帰ってくれと主は言うておる」 「……桂木さん、」  振り仰いだ桂木の顔は白く、昏くぎらついた瞳がちらちらと、かがり火のように前髪の隙間から覗いていた。  トカゲは一度、ちょろりと舌を出すと、くるりと回って俺の手から祠の屋根へと再び飛び移った。  そしてその場所から、再び俺達二人をじっと見上げる。 「―――どうだ、これはおまえさまへの礼になったかな? 何、気にするでない。そもそもこれが嘘か真か、確かめねばわからぬのだから……。骨折り損にならないことを、ねがっておるよ」  そう言い終えると、トカゲは急にこちらに興味を失ったように首をおろし、素早く祠の裏へ姿を消した。桃羽様の気配も、ふっと途切れる。そのとたん、桂木はその場でくるりと踵を返した。足早に神社の外へと歩き出す。  俺も慌てて追い縋り、ずんずんと進んでいく背中に声をかけた。 「これからそこへ行くつもりなんですね?」  答えはない。俺は小走りに桂木を追い抜いて、行く先を誘導するように腕を引いた。 「車、乗ってください。支援室に連絡入れたらすぐ車出しますから」  ついてくるな、とか一人で行く、などと言われても、意地でもついていくつもりだった。遺体を見つけた桂木がどうなるか、俺は知っている。一人にするのは危険だ。  腕を引く俺を、桂木はようやく振り返った。その目が、何かを言いたげに揺れている。だが桂木はただ、言葉少なに、 「……お願いします」  とだけ言った。その答えだけで、満足だ。  俺は助手席に桂木を乗せて、告げられた場所へ車を走らせた。  ------------------  ざ、ざ、と探るように、慎重に土を掘り返す音が聞こえる。俺はシャベルを腕に抱えたまま、慎重に土の中を探る桂木の背中を見ている。  告げられた情報は曖昧なものだったが、地図を頼りに山沿いへ進むと、すぐにそれとわかった。  その場所は山から流れる川沿いの、辺鄙な場所だった。川の両岸は何もなく、背の低い枯草に覆われているため、とにかくだだっ広い。  そんな見晴らしのいい風景の中には、人家がぽつぽつと間隔を開けて建てられているが、その多くは既に住む人を無くし、荒廃していた。  奥へと進むにつれて人の痕跡が残る家が減っていく中、その家はあった。ガラスが土埃で汚れ、ツタの這い回った壁。石造りの塀がくるりと家を囲み、門柱にかかっていた表札は剥がれ、四角い灰色の後だけを表面に残している。  家の全体像が視界に入った瞬間、嫌な気配を感じた。まるで薄い膜がぶわりと全身にまといつくかのように、その気配にのまれる。むき出しの首や頬に鳥肌が立つのがわかった。  俺だけでなく、きっと桂木も確信していた。桂木は迷いのない足取りで、その家の敷地に入っていった。  ぐるりと囲われた塀の中に入ると、明らかに空気が異質なものに変わった。目の前には家屋の玄関、右側には荒れ放題の中庭があり、俺と桂木は、引き寄せられるように庭へと向かった。  木々がまばらに生え、雑草が伸び放題のその中において、一本だけ枯れている木があった。その木の根元だけは雑草が生えず、土は黒々と濡れた色をしている。  ここだ、と確信を持った。  桂木はそっとかがみこみ、地面に触れる。その表面は固く、掘り返された後もないが、それでも異様な雰囲気を隠すことはできない。  当然のように桂木は、そこにシャベルの切っ先を突き立てた。ひたすら掘り進める桂木を見て、俺もそれを補助するように、力強く土をえぐる。車内にいたときからひたすら無言を貫く桂木に、何かを喋りかける気も起きなくて、ただ上がっていく吐息の音と、シャベルが土を掻き出す音だけが響いた。  五十センチほど掘り進めたところで、桂木が荒い息の合間に言った。あとは、俺が。  有無を言わさない声に立ち尽くした俺は、桂木の手でそっと押しのけられた。俺はおとなしく、桂木の邪魔にならないところまで下がった。  そこからはぼうっと、汗に濡れたシャツが張り付く背中が、シャベルを繰って繊細に動く様を後ろから見ていた。  俺はシャベルを握り締めて、汗に濡れた体が冷えゆくままに、桂木の背を見つめて突っ立っている。  酷く、ぼうっとする。すべてが薄いカーテン越しの光景であるかのように紗がかかっていて、非現実的に感じられた。  何がそうさせたのかわからない。機械的に響く音、ひんやりした空気、むせ返る土の匂い。  自分はどうしてここに居るんだっけ、目の前の男はなぜ地面を掘り返しているんだっけ。鈍い頭がゆっくりと思考を辿っていく。そうだ、俺は、俺達は、遺体を掘り起こしに……来たんだ。  目の前で蠢いていた背中がぴたりと動きを止めた。  桂木はその場に屈みこむ。ざざ、ざざ、ざざざ、と手のひらで土を撫でるように避けていく。  俺の心臓がどくどくと鼓動を刻み始め、背中が急激に冷えていく。しばらくして桂木の動きが緩やかに止まり、さー、さー、と何かをなぞるような繊細な動きと音に変わった。  そして、桂木は穴の中に屈みこむ。土にまみれた何かを、腕の中に抱え込む。  俺に背を向けたまま、桂木はそれを抱きかかえ、静かに身を起こした。 (……ああ)  桂木がそっと、腕の中に顔をうずめる。辺りにはかびの匂いに似た、湿った土の香りが充満していて、ミミズののたうつ土くれや、塊になった石が転がっている。  そんなじっとりとした空気の中、桂木が土まみれでそこにうずくまっている。  唐突に思った。この酷い非現実感は、桂木と俺の間に隔たりがあるからだ。今、彼の邪魔をしてはいけない。桂木に声をかけたり、彼の領分を犯してはいけない。これは多分、桂木にとって神聖な時間なのだ。  俺は唇を噛みしめ、睨みつけるようにその背中を見る。じっと、ただ、そこに立って、桂木を見守る。  桂木の腕の中にいる彼にはできない、俺にしかできない大切な仕事だった。今ここに居る桂木を見つめ、守ること。それが俺にできること。  何十分も時間が経った。  俺は静かに、傍らに脱ぎ捨てられていた桂木のジャケットを、彼の背中にかけた。汗でシャツが張り付いた背中は冷え切っている。俺が来ていた上着も脱ぐと、今度は桂木の腕の中をそっと隠すように、体の前側を包んだ。  それが済むと、スマホを取り出し、支援室に連絡する。久々に出した声はかすれきっていて、何度も唾液を飲み込みながら、哲生の遺体を見つけたことを告げた。  すぐに支援室に戻る、と告げると、本部ではなくとある大学病院へ行くようにと指示された。 『前原さんからの指示っす。病院の裏口に直接車で乗り付けて、着いたら車の外に出ないで、前原さんに連絡して待機してくださいっす。この後、病院の地図送るんで。……あの、大丈夫っすか?』 「……ああ、うん。ちょっと疲れただけだ、大丈夫。それじゃ」  浦賀の気遣いにもろくに答えることができず、俺は通話を切った。直後、スマホに大学病院の位置情報が送られてくる。  大学病院へ向かわせるのは、きっと検視が必要だからだろう、と思った。明らかに常軌を逸した、腐らない死体だとしても。  そこに何らかの情報操作があることは既に察していた。地中深く埋められて数年が経ってもなお、今しがたまで生きていたかのように生き生きとした異常な死体。それが公にならないのは、きっとそういう事だ。  前回、哲生の遺体が発見されたときは、前原が桂木ごと遺体をどこかへ運んで行った。きっと今回向かう大学病院も、その時と同じ場所なのだろう。  俺は項垂れ、かがみこんでいる桂木の肩に手を置いた。 「桂木さん、行きましょう」  そう言って立ち上がるよう促した。桂木は抵抗することなく、素直に立ち上がった。  その時、腕の中にあるものを見た。土をかぶり、汚れているものの、それはたった今まで生きていた者のそれのように、張のある肌つやをしていた。  ぞっとするほど美しい、なまめかしい白い腕。それが、桂木の腕の中でしんなりと関節を曲げ、しなだれかかるように収まっている。その白さにハレーションを起こしたように、視界がぐんにゃりと収縮した。  引力のような異常な魅力を持つそれから、慌てて目を逸らす。桂木の顔を仰ぎ見ると、ただ一心に腕の中のものを見つめていた。  今の桂木にはそれしか見えていない。ただ彼と、彼の大事な哲生だけの、甘美な逢瀬の時間を過ごしている。……そんな目をしている。  俺はその、一見穏やかだが痛々しい光景を見ていられず、すべてを視界から追い出した。見ない。何も見ない。そう言い聞かせながら、桂木の体に手を回し、前だけを見て彼を誘導した。  桂木を車の後部座席に収め、ずれかけた俺の上着をしっかりとその体に巻き付ける。桂木は少しだけその上着の位置を調整すると、腕の中にあるそれを確認して、ほっと溜息をついた。幸せそうに、その腕の中に視線を注ぐ行為を再開する。俺はバックミラー越しに見えるその表情を見まいと、荒々しくアクセルを踏んだ。  周囲をぐるっと高い塀に囲まれた大学病院の裏口へ到着すると、言われた通り前原に連絡を入れた。しばらくすると、通話に出る代わりに目の前の裏口から前原が現れる。  ドアを開けて外に出ると、駆け寄ってきた前原が張り詰めた表情で俺を見た。どこか辛そうな、悲しそうな表情だった。 「お疲れ様です。桂木さん、後部座席にいます」 「……ああ。わかった。すまんが、俺が先生を連れて行く間、車で待っててくれ」 「お、俺も行きます」 「だめだ。お前にはまだ、許可が出てない」  後部座席のドアを開ける前原にそう頼んだが、にべもなく断られる。どうして、という不満が隠し切れず、沈黙する俺を尻目に、前原は後部座席の桂木を誘導するよう腕を引く。  桂木は前原に促されるまま車を降りた。その顔はひたすらに腕の中に向けられ、前原のほうを見ようともしなかった。  そんな二人を、物欲しそうな子供のような目で見送った俺は、何となく車に入ることができず、その場で立ち尽くしていた。じっと、二人の消えていった扉を見つめていると、俺の予想に反して10分と立たないうちに、二人は外へ出てきた。  桂木は前原の腕に支えられ、ふらふらと足取りがおぼつかない。俯いたその顔が大きく揺れた時、呆然とした表情を浮かべた桂木の顔が垣間見えた。俺はとっさに、ふらつく桂木に駆け寄る。前原が支えている方とは逆の肩を支え、戸惑いつつも車へ誘導した。 (桂木さんの、こんな表情、みたことない)  感情が大きくえぐり取られたような、虚ろな表情だった。桂木の大きな体を後部座席に収めると、前原はふう、と一息ついて俺を振り返る。 「吉野、先生を送っていってやってくれ」 「…………了解です。ちゃんと送り届けます」  いつもエネルギッシュな前原に似合わず、十歳も老け込んだような顔でそう言う。俺は心得た、と力強く頷いた。  中で何があったのかは知らないが、桂木は、あんなにいとおしそうに抱いていた遺体を、手放さなければならなかったのだ。かなりのショックを受けているに違いない。  そして、前原の憔悴もよく分かった。普段あんなに頼りがいのある桂木を知っていれば、この幽鬼のような状態の彼に心を痛ませないはずもない。  前原に見送られて、俺は桂木の事務所へ向かうべく、ゆっくりと車を発進させた。車内での桂木は、眠っているかのように微動だにしなかった。

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