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05

 駐車場に車を止める。振り返って後部座席を窺うが、案の定桂木はピクリとも動かない。俺はドアをあけ、後部座席へと回った。 「……桂木さん、」  声をかけて腕を引けば、のろのろと顔を上げる。その顔にはよく見れば、汗に溶けて流れ、乾いた泥がこびりついていた。  車外に出て立ち上がれば、体中を覆う汚れの酷さがよく分かった。俺も土を掘ったのでそれなりに泥汚れはあったが、特に、土まみれの腕を抱えていた桂木の汚れはかなりのものだ。事務所が人気の少ない道に建っていてよかったと思う。  事務所の扉にたどり着くと、俺は勝手に桂木のジャケットを漁って鍵を取り出し、扉をあけた。ブラインドが下ろされたままの少し薄暗い室内を進む。  いつものソファへと桂木を座らせようとして、はたと動きを止めた。来客用の小ぎれいなソファに、この土まみれの体を預けるには気が引ける。  俺は一瞬ためらったが、はあ、と大きくため息をつくと、ソファを横切って事務所の奥へ向かった。事務所の奥には給湯室があるのだが、その突き当りには扉があり、その裏には階段が伸びている。それを登って上の階に行くと、桂木の私室があると俺は知っていた。桂木はそこで日々、寝起きしているのである。  俺は桂木を支えながら、狭い階段を上る。登り切って扉を開けると、下の階と同じようにまず給湯スペースに出た。ここに足を踏み入れるのは初めてだ。 「……勝手に入ってすみません。お邪魔します、ね」  傍らの桂木に声をかけつつ、給湯室を抜ける。その先に広がっていたのは、だだっ広いワンフロアだった。下のフロアの間取りとほぼ同じで、間仕切りはない。部屋の右隅にベッドと棚、反対側の角にはテーブルとダイニングチェアが置かれている。  人の住居にしては殺風景すぎる光景に戸惑いながらも、とりあえず、木製のダイニングチェアに桂木を座らせる。それすら桂木は無反応だった。俺は腰をかがめて桂木の顔を覗き込む。 「桂木さん、大丈夫ですか?」 「……」  反応はやはり返ってこない。 (家主から返事がないんだから、まあ、仕方ないな)  はあ、と短くため息をついて曲げていた腰を伸ばす。住居スペースなのだから、シャワーブースなりなんなりがあるはず、と思って見渡せば、案の定それらしき扉を見つけた。  部屋の左側の壁には扉が二つあった。下のフロアも、同じ壁壁面にトイレの扉があったし、この二つの扉の片方はおそらくトイレだ。 (だったら多分……)  予想しつつ、下のフロアにはなかった方の扉を開くと、やはりそこはバスルームだった。狭い脱衣スペースにはタオルの詰まったアクリルケースがあり、その奥にシャワーブースが設置されている。  俺は扉に手をかけたまま、桂木を振り返った。 「桂木さん、とにかくその状態じゃ部屋が汚れますから、シャワー浴びてください。……桂木さん、」  やっぱり、声をかけても反応がない。俺は桂木のそばまで歩み寄って、再度声をかけた。 「桂木さん、シャワー浴びれますか?」  無言だ。俺はしばらく考えたのち、バスルームに取って返して、脱衣所のアクリルケースを開けた。押し込まれたタオルのうち一枚を手に取ると、お湯を出して濡らす。  固く絞ったそれを手に桂木のもとに戻った。これでひとまず、顔や頭を拭いてしまおうと思ったのだ。  まずは顔をどうにかしよう、と思い、俺は項垂れている桂木の顔に手を伸ばす。  タオルを持つ手と逆の手を、そっと耳と顎の下に差し入れて、持ち上げる。前髪がさらさらと横に流れ、目元が露わになった。その目を正面から見つめて、息をのんだ。  目の前に俺がいるのに、桂木はどこも、何も、見ていなかった。ぼんやりした目は焦点が合わず、いつも鋭い光を帯びていた半眼はかすんでいる。真正面から目を合わせてみて、その異常さを改めて認識した。  思わず、手が震えてしまった。  こんな桂木を見ているのは辛かった。なぜ? どうしてだろう。打ちひしがれている桂木がかわいそうだから? 信頼し、尊敬もしている相手が腑抜けになってしまったから? わからない。どれもこれも当っているようで少し違う気がする。ただただ、胸が苦しい。これ以上見ていられない、なのにその生気を失った瞳から目を逸らせない。  手の震えをこらえ、とにかく、当初の目的を果たそうと、顔にタオルを近づけた時だった。  ふいに視界の隅で動くものを感じ取る。次の瞬間、俺は強い力に巻き込まれて、桂木の肩口に顔を突っ伏していた。慌てて体を引こうとしたが、頭の後ろと背中に何かが回されて、俺の体を捕えている。少しして、それが桂木の両腕だと気が付いた。  桂木が俺を抱きしめている。俺は手からタオルを取り落とした。そして焦ったように桂木の胸や腹を押し返した。 「か、桂木さん、どうしたんですか、ちょっと、いったん離して―――」  桂木は何も言わない。ただ無言で、俺の腕と背中をぎっちりと捉え、顎を肩に押し付けている。どんなに俺が体を押し返しても、その腕はびくともしなかった。  一体何が起きた? 桂木は何のつもりでこんなことを? 混乱しながら、それでも中腰の不安定な姿勢で抗っていると、唐突に桂木が立ち上がった。上背のある桂木が、上から押しつぶすかのように、さらに強い力で俺を抱く。  俺はさらなる恐慌に陥ったが、その腕がまるで縋り付くように俺にしがみついてくることに気が付き、はっとして動きを止めた。  桂木が俺の着ているシャツを力任せに握りしめる。ぎりり、と歯が軋る音が耳元で響いた。桂木の吐息が直接耳に吹き込まれる。ぶわり、と熱く湿った息が、断続的に俺の耳を包む。その感触にぞくり、と何かが背中を駆け下りた。  桂木がかすれた声で呟いた。 「行く、な」  引き絞るようにして漏れ出た声が、頭の芯を痺れさせるようだった。  桂木は言った、行くな、と。  ついさっきまで腕の中にあった恋人。ようやく再会できた恋人。そして何度も彼の腕から去っていく恋人。桂木にはもう、どう頑張っても哲生を捕まえてはおけない。なぜなら、哲生はもうこの世にいないからだ。  心臓を鷲掴みにされたような息苦しさが襲う。 (そんなの反則だろ。そんなこと言われて、放っておけるわけないだろ)  俺はおずおず、桂木を押し返す腕を下した。そしてなだめるように、慰めるように、しがみついてくる桂木の肩を何度もさする。桂木は子供のような必死さで、俺の体を離さなかった。  その腕のこわばりが徐々に収まってきたのを感じ取り、桂木が落ち着いてきたことを知って、もう一度声をかけてみる。 「桂木さん、いったん、この土汚れを落としましょう、シャワーを……」  そう言って体を離しかけた俺の腕を桂木が乱暴に引っ張った。 「うわちょっと、桂木さ……」  そのまま、バスルームとは逆の方向に引きずられる。と思ったら、おもいきり体重をかけられて抱きしめられ、たまらず背中から俺は倒れた。一瞬、頭をぶつけるかと思ってひやっとした背中を、固いベッドのスプリングが受け止める。成人男性二人が倒れ込む衝撃を受けて、ベッドの上の布団も大きく跳ね上がった。 (な、なんだ? 何が起こってる?)  俺を抱きしめたままベッドに乗った桂木は、俺の体を下に敷いたまま、上半身を起こした。  泥まみれの桂木に抱きすくめられた俺のシャツも、どろどろに汚れてしまっている。そんな状態の俺のシャツを、桂木はあろうことかべろりとまくり上げた。 (まて、まてまてまてちょっと、)  伸縮性のない綿のシャツが強引にめくられて、どこかでびりっという嫌な音がする。ボタンが数個吹っ飛んでいった。 「なっ、何してるんですかちょっと、桂木さん!?」  乱暴な所作にギョッとしている俺を尻目に、桂木は上半身がさらされた俺の体を見下ろすと、両手であばら骨のあたりに触れた。その驚くほどの冷たさにも驚きつつ、俺は桂木の行動の意図がつかめず、振り払うこともできず、ただじっとしていた。 (……何、してるんだ、これ……?)  胴体の両側から包み込まれるように掴んで、桂木は俺のみぞおちあたりを見下ろす。ただただ、じっと見ている。見ているだけで動かない桂木の下で、俺はぐるぐる、この状況の意味を考えていた。 (桂木さん、俺相手に、そのまさか、ヤるつもりか? いやなぜ俺なんだ、一体どうして……なんでこのタイミングで? この前は俺のことを無視し続けたのに)  いくら考えても回答なんて出やしない。やめろ、と桂木を押しのけなかったのは、縋り付いてきた桂木を無下に扱うことができなかったからだ、と思う。だから俺は、ただそうして、息をひそめて桂木の挙動を見つめていた。  しばらく俺の腹を見つめた後、桂木はおもむろに右手を俺の胸の真ん中に押し当てた。俺は一度びくっと体をすくませるが、桂木はそれ以上何もしてこない。  桂木の手は、俺の体温を移してほのかに温まっている。  俺の心臓は一つ脈を打つたびに、わずかに肋骨を持ち上げて、上に乗っている桂木の手の平もわずかに持ち上げる。何度も、何度も。そのたびに、俺の胸も桂木の手のひらに押し付けられる。  そのかすかな動きを、どこか不思議な気持ちで見つめていた。どくどくどく、と桂木の手のひらに鼓動が伝わっていく。  心臓の動きを確かめていた手がそっと外され、シーツの上を滑る。桂木が静かに、その頬と胸を俺の心臓の上に触れさせた。  さわり、と桂木の髪の毛が肌をくすぐり、こりっとしたものが密着する。体温の低い、シリコンのような感触の不思議な物体。桂木の耳だった。 (……これ、心臓の音、聞いてるのかな)  心音に耳を傾けながら、桂木は、はあ、と安堵を感じさせる息を吐く。肋骨と脇腹あたりを湿った熱い空気が掠っていく。俺は桂木の、真っ黒な癖っ毛の中にあるつむじや、上から見る高い鼻梁から目を離せない。心臓がどくどくと逸っていく。  桂木がゆっくり姿勢を起こし、男のずっしりした重みから体が解放される。これで終わりか、とほっとしたのもつかの間のことだった。 「桂木さん、いったんあの、ベッド汚れるんで服とか……うひ!?」  桂木がそっと俺の腹に顔を寄せて、唇をくっつけた。ふにっという感触に思わず声がひっくり返る。  桂木は、硬直した俺の腹筋から一度唇を離すと、今度はその唇をぱかりと開いた。  まさかと思っていたら、桂木の口が俺の肋骨に嚙みついた。ひゃひっ、と蹴り飛ばされた犬のような声が出た。骨の上を薄い筋肉と皮膚が覆う、そんな場所を噛まれたせいだ。肉が口の中でたわんで、粘膜に包まれているのがわかる。ざわり、と全身が総毛立った。 (何。なに何なに、なにが起きてる。なんで噛んでんの桂木さん、なんで)  腹、へそ、腰、胸、そして心臓の上。順番に舐めて、噛まれて、吸われる。じゅるっという湿った音が俺の鼓膜に届いた途端、腰から背中が貫かれるように戦慄いた。いつの間にか桂木の大きな手が、俺の全身を撫でさすっている。 「……ふっ、う……、……」 「…………」  行為だけ見れば前戯のようだ、でも違う。縋り付き求めるような必死さがそこにあった。まるで、置いていかないでほしいと泣きつく子供のように。  だから俺は、好き勝手に動き回る桂木の下で、シーツを握りこんでただ耐えるしかない。  逃げたくない。この桂木を置いて、俺だけ逃げたくなかった。  桂木はところどころを舐め食んでは、徐々に上へと移動してくる。あ、と気が付いた時には桂木の顔は頭上にあった。ゆらゆら揺れる髪の毛の奥から、鈍く光る目がこちらを見ていた。そこに、先ほどまでの呆然としたがらんどうの目は無かった。代わりにあるのは、眉間に深く皺を寄せて苦悩し、何かを渇望するような熱に浮かされたまなざし。 「……あ、」  まずい、と思った瞬間、ふ、とそれが翳ったかと思うと、高い鼻梁が降りてきた。とっさに顔を背けたが、口の端に触れた粘膜が、逃げた唇を追ってくる。それはやすやすと捕まって桂木の唇に丸ごと塞がれた。 「……っ!」  舌が抉るように唇を割開こうとする。抵抗すると、あろうことか桂木は両手を俺の頬に添え、親指を使って口をこじ開けた。太くて少ししょっぱくて、ざらざらした粒子は洗いそこねた土汚れだろう。 「あがっ……あ、ぅんっ、ふ」  親指が頬の内側を容赦なくこじ開け、桂木の舌が一気に奥までずるりと入り込んできた。息苦しさにウンウン唸りながら首を振る。両手で頭をホールドされているから、あまり意味はなかった。  これはキスじゃない、と思った。だったら何なのか? 頭に自然と浮かんできたのは「桂木は確認しているのだ」という一つの考えだった。  桂木は、体温や心臓の動きや、呼吸を感じて確かめている。生きている証拠を集めて、確認している。俺にはそう感じた。  桂木が唇を離し、ハァッと息をつく。再び両腕で抱きしめられたその時、いかないでくれ、と吐息交じりの声が聞こえた。  いかないで。置いていくな。そう全身で叫ぶように、体が軋みそうな強さで抱きしめてくる。じんじんと触れ合った肌が熱い。先ほどまで冷たかった桂木の手は、俺の体温を思うさま奪って、今や俺の体よりも熱かった。  俺も桂木も、生きている。  俺はしわくちゃになったシーツを離し、自由になった手で桂木の背中を抱いた。桂木がそうしたように、熱と鼓動を確かめるように手の平で肌をさする。 「……置いていきませんよ」  大丈夫、大丈夫、と念じながら、背中を撫で、桂木の肩に額をつける。土と、汗の匂いがしたが、不思議とそれは心地よく感じた。まるで、桂木の体温がそのまま香りに形を変えたような、そんな匂いで胸をいっぱいにして、俺はただ桂木に身を預けた。 ------------------------

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