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06

 いつの間にか眠っていたようだ。  鼻先を掠める嗅ぎなれない香りと、わずかな肌寒さを感じて、ゆっくりと意識が覚醒していく。瞬きすると、暗い視界の中、ブラインドの隙間から差し込む青白い光で、白いシーツだけがわずかに浮き上がって見えた。  はだけた胸元を、ひんやりとした空気が撫でていく。無意識に布団をずり上げて、ようやくここがどこか気が付いた。  桂木と共に哲生の遺体を回収し、桂木を事務所まで送った後、桂木が俺に抱きついてきた。様子のおかしい桂木をそのままにしておけなくて、俺はそのまま桂木に抱かれて―――なんの含みもなく、本当に、ただ抱きしめられだけだ―――いつの間にか眠ってしまったのだ。  ベッドの上には俺一人で、桂木の姿は無い。 「……桂木さん?」  真っ暗な部屋に向けてそう声をかけたが、返事はなかった。差し込んでくる光は人工的な街の明かりで、その光量から今が夜だとわかる。  確か桂木をこの部屋まで連れてきた時は、午後のまだ暗くなる前だった。今は一体何時なんだろう。  とりあえず灯りをつけようと立ち上がると、ふわりと土の匂いが立ち上った。はた、と自分の体を見下ろすと、ボタンのとんだシャツやシーツが土で汚れているのが暗がりでもわかった。自分が悪いわけではないのだが、何となくばつの悪い思いで立ち上がる。  薄暗がりの中で光る緑色の点があった。ホテルなどで見る照明のスイッチと同じだ。かちりと押すと、室内が蛍光灯で明るく照らされた。そのおかげで、自分の荷物と畳まれた着替えが部屋の真ん中にぽつん、と置かれているのに気が付いた。  すぐそばに、メモのような紙切れが落ちていて、拾ってよく見てみると、直線的な文字が数行並んでいた。 『ご迷惑をおかけしてすみません。着替えを置いておきます。シャワーやタオルなど部屋にあるものは自由に使ってください。そして、勝手を言って申し訳ありませんが、俺のいないうちに、事務所を出てください。また連絡します。』  勝手な言い分だと怒ってもいい場面だと思うのだが、不思議と怒りはわかなかった。むしろ、何よりも先に、桂木が今この場にいないことに安堵を覚えた。  あんなことがあった後にまともに顔を合わせることがなくて良かった。そう思ってから改めて、あれは、いったい何だったんだろう、とぼんやり考えた。  桂木は俺にキスをしたし、いろんなところを触れたり舐めたりしたけれど、セックスはしなかった。かといってプラトニックなスキンシップだったかと言えば絶対に違う。まどろむような安心感と、ひりつくような緊張感が入り混じった濃密な空気。何かはわからないが必死に求められているというあの感覚は。 (ああ、やめろ思い出すな! 今ここで考えることじゃない)  かぁっと熱くなった頬に気が付き、俺は妙な方向に流れていきそうになる思考を無理やり断ち切った。  桂木は恋人の遺体を見て混乱していた。悲しくて人肌が恋しくなった。だから抱きしめた。OK、それで終わり。  余計なことを考えないために、とにかくここから帰るための準備をすることにした。  ひとまず、お言葉に甘えてシャワーを使わせてもらうことにする。肌についた土汚れをざっと落とすと、アクリルケースから新しいタオルを拝借して体を拭く。  桂木が置いていった着替えは、桂木のものなのか、少し大きめの黒い長袖Tシャツ。ほかにもズボンが置いてあったが、下はあまり汚れていなかったのでシャツだけ拝借した。俺が着るとネックラインが大きすぎて首がすーすーするが、そこは体格の差なので仕方ない。  ぼろぼろになった自分のシャツは、とりあえず丸めて持ち帰ることにする。スマホを付けると、時刻は夜の十時になろうと言うところだった。  下の事務所に降りてそのまま扉へ向かうと、ちょうど目の高さのあたりにメモが貼ってあった。 『鍵はテーブルの上に。施錠したら階下のポストへ入れておいてください』  慌てて書いたのだろう、ノートを破ったような紙に、斜めに走り書きされていた。俺は指示通り事務所を施錠し、鍵をポストに返した。  秋の夜の冷えた空気が鎖骨から胸元へ入り込む。俺は自分の上着の襟元を掻き合わせ、車に急いだ。  その間、再度スマホを起動して、着信履歴を見る。案の定、支援室と前原個人から数件連絡が来ていた。メッセージアプリにも、浦賀と前原からメッセージが届いている。  俺は二人にメッセージを送信した。桂木は無事に送り届けたこと、詳細は明日出勤したら報告すること。今はそれ以上、説明のしようがない。明日だって、今日あったすべてを説明することなんてできないだろうが。  その後、乗ってきた車は本部へ返却し、いつもの帰り道を歩く。一歩進むごとに腹が刺激され、空っぽの胃がきゅうと音を立てた。  この時間では、もうお気に入りの惣菜店は閉まっている。最近、遅くなる日には、その惣菜店が始めた例のデリバリーサービスを利用して、事前に部屋に惣菜を届けてもらうこともあった。夜遅くに帰宅すると、部屋のドアノブにレジ袋がかかっていて、料金は後日店舗で支払う仕組みである。これがなかなか便利だし、高くてまずいコンビニを使わなくて済むのはかなりありがたかった。  しかし、今日は遅くなる予定ではなかったため、デリバリーは頼んでいない。仕方なく、近くのコンビニで弁当と発泡酒を買った。  夜、帰宅する時、俺はじっと俯いて帰ることが多くなっていた。なぜならその方が、余計なものを見なくて済むし、それらを見なければ、関わらずに済むからだ。桂木もよく言っていることだが、有象無象の者どもは、こちらが反応しなければ無関心であることが多い。それでもこちらに関わってこようとする、厄介な存在もいるのが困りものだが。  俯いたままアパートの階段を登り、誰も何もいない廊下を歩く。自室の扉の鍵をあけ、扉の中に滑り込んだところで、はあっとため息をついた。胸いっぱいに、自宅の匂いを吸いこむ。  今日も無事、厄介ごとに目をつけられることなく帰宅できた。そうでなくても、今日は既にいろんなことがありすぎた。これ以上のイベントはもう起きなくていい。ただ安らかに自宅で休みたい。 (でも、さっきまで寝てたから眠くないんだよな……もうなんも考えたくないし、適当に映画レンタルして時間潰そう)  できるだけ火薬の量が多そうな映画を思い浮かべながら廊下を歩く。真っ暗な中でも、アパートの間取りは体が覚えているので、迷いなく歩を進めてスイッチのある場所へ手を伸ばした。  その手が、するりと誰かの手に絡めとられた。  飛びのく間もなかった。その誰かの手は、俺の指と指の間に自身の指を滑り込ませ、きゅっと握りこんだ。  がたっと音を立てて後退った瞬間、ぱちり、と音がして部屋の電気がついた。唐突に明るくなる室内で、俺の手を捉えている人物の容貌が浮かび上がった。ずっと下を向いていた首をそらして、その顔を仰ぎ見る。 「……え……?」 「お仕事、お疲れ様です」  にっこり笑っている人物は、俺のよく知る顔だった。人懐っこい笑顔と、愛想の良い声、見慣れたエプロン。  いつも惣菜店のレジの向こうで、さわやかに笑いながらお釣りをくれる、その顔が俺を見下ろしていた。 (なんで)  その手を振り払って逃げようとしたその時、ばちばちばちッと何かが破裂するような音が断続して聞こえた。同時に、頭のてっぺんから足の先までたとえようのない痛みが走る。何が起こったかわからないまま、受け身も取れず床に倒れた。  体の自由が効かない。床に体をつけているはずなのに、そんな感覚も感じられないほど全身が麻痺していて、それなのに痛い。びくびくと妙な痙攣をする俺の体の上に、青年が屈みこむ。そして、俺の足元に落ちたコンビニ袋を見た。 「すみません。今日はデリバリーじゃないんですよ」  そう言って、手に持った黒い箱状のものを俺の目の前にかざす。先端から鈍い銀色の棒が生えている、スタンガンだ。 「これ、頑張ったら気絶するかな。しなくてもいいけど、ごめんなさい、もう一回我慢してくださいね」  そう言ってスタンガンの電極を俺の顎の下に差し込む。がくがく勝手に跳ねる体では抵抗できず、俺はただ、愛想のいいその笑顔をじっと見ていた。  俺と目が合うと、惣菜屋の店員の青年は、俺にかぼちゃ煮つけをおまけにくれる時と同じ表情で笑った。  顎の下を凄まじい衝撃が通り抜けて、俺は目を剥いて意識を失った。

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