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07

 最初に気が付いたのは頬に刺さる畳のささくれの感触だった。ぼんやり目を開けると、レトロなオレンジ色の灯りが周囲を照らしているのがわかる。  無意識に体を動かそうとして、全身に走る筋肉痛のような痛みに呻いた。その思わず身を丸めると、両手足の自由がきかないことに気が付く。  壁際で横たわっている俺の両手は頭上でひとまとめにされ、壁に打たれたフックのようなものに引っ掛けられている。だらん、と力の抜けた足は両足首でひとまとめになるよう縛られていた。 「あ、起きた」  この状況に似つかわしくない朗らかな声が聞こえてきて、ざわざわと不穏な気配に揺れていた意識が一気に覚醒した。俺は痛みがひどい体を転がし、その声がする方へ体を向ける。  そこには、俺を気絶させたあの、惣菜店の店員が立っていた。手にスマホを握ってこちらを見ている。あれは、俺のスマホだ。  青年は俺の視線に気が付くと、ああ、と言ってスマホを掲げてみせた。なぜか少し照れたような表情で笑う。 「寝ている間にいろいろ暇つぶしにね。指紋認証で助かったよ」  人を縛り上げて、勝手にスマホの中身まで見ておいて、悪びれもなく笑う青年を、俺は何も言わず、きつく睨みつける。しかしそんなことを居にも介さず、青年は俺に微笑み返した。  見慣れたいつもの笑顔だが、俺のこの状況を思うと、今はその笑いが邪悪なものにしか見えない。  かつて青年と話すときに使っていた敬語も、柔らかな声音も捨てて、俺は低い声で尋ねた。 「あんた、なにが目的だ」 「目的? 目的か。目的はね……」  青年はスマホを放り、俺の顔の近くまでやってきてしゃがみこむ。初めて間近で見た青年の顔は整っていて、長めの髪に縁どられた顔の中に、アーモンド形の瞳がくりっと輝いている。まるで子供のような無邪気なその目は、相対する人の警戒心を自然と解いていくようだった。  そう、それはいつも惣菜屋で見る、彼の人好きのする微笑みそのものだった。  青年は俺の顔を覗き込む。その近さに顔をそらすと、ふふ、と笑って顔を引っ込めた。そして、頭上でくくられている俺の手に顔を近づけ、―――その指に噛みついた。 「……!」 「……目的はね。吉野さんのこの指を、俺が、おいしく食べるため」  噛みつかれた指をじゅっ、と吸われ、背筋を悪寒が走った。とっさに激しくもがいて手を青年の唇から解放する。青年は笑って、不器用な俺の蹴りを避けるようにその場から離れた。  俺は胃のあたりがひんやりと冷えていくような、嫌な予感を覚えていた。  この青年は、俺の指を”食べる”と言った。そう、はっきりと。人を、食べる。食人。殺人。 「お前……芹沢、か?」  まさか、と問いかけると、青年は目をさらに細めて―――心の底から嬉しそうに笑った。 「その名前、久しぶりに呼ばれるなァ。うん、そうだよ初めまして、吉野忠幸巡査部長。俺が深御市……なんだっけ、深御市多重殺人事件の犯人の、芹沢。芹沢(ごう)だよ」  おどけるような口調でそう言う青年……芹沢を、俺は黙って睨みつけた。必死に表情を取り繕ってはいたが、内心は衝撃と混乱でもう一度気を失ってしまいそうだった。こいつが、長年の捜査でも浮かび上がって来なかった多重殺人事件の犯人。まさかこんなに近くにいるなんて、思いもしなかった。しかも、ほぼ毎日のように顔を合わせていたなんて。  この男が、桂木さんがずっと探し求めていた、芹沢という男。桂木さんの恋人を殺して、ばらばらにした、男。  桂木とその大事な人の人生をめちゃくちゃにした男だ。 「……お前、お前が……!」  かっ、と腹の底が火のついたように熱くなって、俺はそう叫んでいた。勢いよく身を起こすが、両手が頭上でくくられているため、反動で床にもんどりうつ。くそっ、と悪態をついて力任せに両手を引っ張るが、手首に回された縄はびくともしない。  芹沢はそんな俺の足首と手首をやすやす捕まえて、 「しぃー、し、しー。暴れないでね、吉野さん」  まるで子供に言い聞かせるように俺に囁いた。その笑顔にも口調にも、嫌悪しか湧かない。よほど近づいてきた顔に唾でも吐きかけてやろうと思ったが、俺は何とかその衝動をこらえた。怒りに沸騰しそうな頭をどうにか落ち着かせて、考える。 (とにかく、とにかく今は、この縄をどうにかしないと、やばい)  この縄さえどうにかできれば、逃げるにしても立ち向かうにしても、腕に覚えはある。ただしこのまま拘束され続けていれば、俺はろくに抵抗できず本当に殺されるだろう。縄をほどく方法は、今のところ思いつかない。何とかして時間を稼いで、脱出する方法を考えなければ。  そこでちらり、と芹沢の持っていたスマホを見る。脱出が無理でも、どうにかスマホを操作することができれば、支援室に連絡できる。連絡さえできれば万が一、俺が脱出できなくても、そのうち救援が来るはずだ。  冷静になれ、冷静になれ、と俺は心の中で唱えながら、頭上で笑う殺人鬼を見る。俺が何を考えているかなどお見通しという顔で奴は笑っていた。 「俺が起きるまで殺さないで待っていたってことは、俺と話がしたかったんだろ」 「さすが。警察官だね、すごく冷静だ」  そうだよ、と芹沢は言った。そして俺の横にまたしゃがみこむ。 「大丈夫。すぐに食べたりしないから、安心してよ」  そう言いながら俺の頬を撫でる。ぞわぞわと鳥肌が立ったが、あえて抗わずただ睨みつけた。芹沢はそんな俺と真正面から目を合わせて、とろけるような笑みを浮かべる。  俺は弱気を悟られないよう、無理やり口角を持ち上げた。 「それで? こっちから質問したほうがいいのか?」 「それも嬉しいけど、俺から言わせて。あのね……」  芹沢ははにかむように俯いて、頬を赤くする。俺を上目遣いに見る目のふちが潤んでいる。 「……俺さァ……吉野さんの”これ”に、一目ぼれしたんだ」  芹沢のうっとりとした視線が、俺の肩からなぞるように移動して、その先の指にたどり着く。指先に触れられたわけでもないのに、ねっとりとそこに不快な何かがまといついたような気がした。 「あの日、きっと吉野さんは仕事帰りだったんだね。吉野さんがお店に入ってきた瞬間……本当にわずかだけど、血の匂いがした。久しぶりの香りで、アァ、いい匂いだなァ、って思ったのを覚えてる。吉野さんは焼き鮭弁当を買ったんだよね。吉野さんは普段、肉派だけど、その日は食べる気も起きないような仕事だったのかな?」  他人の口からつらつらと、自分の挙動を語られるのは妙な気分だった。芹沢の口調はだんだんと熱を帯びていく。 「吉野さんがレジに近づいてきたとき、俺こっそり深呼吸したよ。いい匂いで……血のつーんとした匂いと、吉野さんのふわってした汗の匂い。もうすんごくいい気持ち。で、吉野さんがお金を差し出すのを見たんだ。その時、気づいたんだよ」  芹沢はおもむろに頭上に手を伸ばし、俺の手を掴む。とっさに反応できなかった俺のこぶしを力任せにほどくと、右手の中指をきゅっと持ち上げた。 「中指のここ……ここに小さな、ほくろがある。ずっとずっと”この指”を探してた。唯一の……俺の、唯一の指だ」  言われても俺は自分の指にあるほくろなど、意識したことがなかった。それでも、芹沢が執拗に撫でるそこに、ほくろがあるのだろうと察する。中指の付け根近くの、薬指側の側面だ。皮膚の薄いくぼみを何度も擦り上げる芹沢の指に、言いようのない不快な感覚が背筋を走っていった。  芹沢は、はぁっと熱い吐息をまき散らし、俺の中指を愛撫し続ける。 「俺は中でも指が一番好きなんだけど、そもそも人を食べること自体が好きなんだ。そんな趣味だとどうしても、人を殺さないといけないだろ? 前に何度か、殺さないで食べたこともあるけど、生きたまま食べられたい人間って少なくて。それに、俺が食べたいって思う人は、普通の人ばっかりだからさァ。……吉野さんもほら、普通の人、ね? それに……」  悍ましいことを言いながら笑いかける芹沢は、俺の指をもてあそんでいた手を胴体へ移動させる。桂木に借りてきた大きめのシャツ、その微妙に開いた襟ぐりから手のひらを突っ込む。おい、という俺の抗議の声を無視して、芹沢は手のひらでざらり、と胸を撫でた。 「きっと吉野さんはさ、全部おいしいと思うんだよ」  俺の目を見ながら、芹沢は照れたように笑った。そこではじめて、今まで、混乱と怒りばかりが支配してきた心に、純粋な恐怖が芽生えた。 (あ、駄目だ。こいつ、まともじゃない)  数年とはいえ警察官をやってきて、いろんな人間を見てきた俺の直感がそう言っていた。こいつは、外見は人の形をしていても、中身はそうじゃない。人の常識と社会性を持たない、人のふりをした“なにか”だ。  薬物で頭の中身が溶けてしまった、心が耐え切れず気が狂ってしまった、そんな、人を辞めてしまった者たちと同じだ。 「俺ほら、何年か前に犯行が警察にばれちゃったから、身を隠してたんだよ。だからずっと我慢してたんだけど、こんな……こんな素敵な”ひと”と出会えることなんて二度とない。吉野さんがデリバリー使ってくれて、マジでよかった! 部屋を調べて、合鍵作って……。アァ、スタンガンはほんとごめんね。暴れられると面倒だし、できれば失神してほしくて、改造スタンガンで何とかなってよかった」 「ふ、ざけんな……」  いまだにずきずき痛む腹を意識してしまい、俺はつい悪態をつく。だがそんな言葉にも芹沢はほくほくと、満足げに笑うばかりだ。 「……それで、俺をここに運んできたのか。ここはどこだ?」  話の途切れそうな気配を感じて、そう言葉をつないだ。会話に応じてくるか不安だったが、芹沢はかろうじて気の無い返事を返してくれる。 「知っても仕方ないよ。吉野さんが知らない場所だし」 「知らない場所だろうと、すぐにばれる。俺が警察官なの知ってんだろ? もうきっと捜査が始まってる」 「……まあ、見つかるだろうね。それがいつかはわからないけどさ」  あわよくば今の場所や、襲撃からどのくらい時間が経過したのかの手掛かりを喋ってくれないかと思ったが、返ってきたのは不穏な返事だけだった。そんなふうに濁したということは、場所も時間も素直に聞いたところで教えてはくれないだろう。

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