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09 ※
ここへきて何度目かの、視界に薄い膜がかっていくような感覚が襲う。自分の呼吸音が遠くなり、少しずつ微睡に似た暗闇が降りてくる。それを破ったのは、柔らかな内腿にたてられた鈍い歯の感触だ。
「……いっ」
「吉野さーん、起きてる?」
痛みで飛び起きた意識と五感に、耐えがたい音と匂いが襲い掛かる。ぐちゃぐちゃと絶えず響いている水音と、鉄さびの匂い。そして自分の荒い呼吸音と、芹沢の声。
俺の足の間に陣取り、芹沢は俺の内ももから顔を上げる。そのふざけた顔を、がくがくとする首をもたげてかろうじて睨みつけた。
「良かった、まだ元気だ。どう? お尻痛い?」
死ね、と内心吐き捨てて顔をそらした。とたん、尻に埋められた指がぐぱ、と広げられて、その悍ましい感覚に呻いた。
「う、ううぅっ……!」
「だいぶほぐれてはきてるんだよね。3本入るようになったし」
3本。嘘だろ。自分の体がどうなっているのかわからない。考えたくもない。
芹沢がローションと指で尻をほぐし始めてからどのくらい経ったかわからないが、既に俺のそこは痛みを感じていない。ただ動かされるたびに違和感と吐き気を覚える程度だ。
指を差し入れられて最初は暴れもしたが、何発か頬を殴られて朦朧とした数分の後に、芹沢が笑って「2本はいったよ」と教えてくれた。それから先はあまり痛みを感じていない。
尻の痛みが気にならないのは、体のところどころにつけられた切り傷のせいもあった。芹沢がもう片方の手に持っているナイフで、気まぐれに俺の体に切り込みを入れる。その傷の上を芹沢が「味見」と称して舌でなぶる。そうやってつけられた傷は、ジンジンとかゆみを伴って、うずくような痛みを全身にまき散らしていた。
「もう少しローション足すね」
「はぁっ、は、やめ、うぐ……!」
ぬち、と引き抜かれた指にローションを絞り出し、それを掬い入れるようにして指が再度尻に入ってくる。先ほどから芹沢はこれでもかというほどローションを使うため、尻の下に敷かれた大判のタオルは既にべちゃべちゃになっていた。最終的には殺して喰うくせに、俺の体を気遣っているのだとしたら笑える。が、こちらにダメージが少ないならそれに越したことはない。
(くそっ、気持ち悪いし体中痛い。耐えろ、何とか……何とか、耐えないと)
震える顎を食いしばる。俺はまだ諦める気はない。
芹沢が行為に夢中になっている間に、もしくは行為が終わった時に、油断して隙ができるかもしれない。その可能性だけを信じて、ひたすらこの屈辱を耐える。
先ほどから何回も気が遠くなり、このまま思考を放棄したいという誘惑に駆られていたが、それでもなお、その甘い囁きを振り切って俺は意識を保っていた。先ほどは危なかった。正直、芹沢に意識を引き戻されなければ、そのまますこん、と気を失っていたかもしれない。感謝する気持ちは微塵も起きないが。
「ウッ、ひっ……」
「んん……この辺、前立腺があるんだけど、やっぱり吉野さんのちんこ反応してくれないね」
ぐりぐりと指の腹で押される場所から、むずむずとした排尿感に似た何かを感じる。そこは男が感じる場所だと芹沢は言うのだが、俺の性器はぐったりと項垂れたままだ。
何度かローションまみれの手でしごかれもしたが、一向に反応しないことに俺は少し安心していた。この男の手で興奮したら、自分のプライドは粉々になると思う。
「彼女がいないから溜まってると思ったんだけど……あんまりオナニーしてる雰囲気はなかったし。吉野さん性欲薄い?」
「…………ふッ、う……っ」
俺が問いかけを無視すると、芹沢は伸びあがって俺の乳首に噛みついた。その横にはナイフでなぞってつけた傷がある。傷跡ごと乳首を吸い、芹沢は恍惚のため息を吐いた。
「んは、はぁ……おいひ……」
ぢゅっぢゅっ、と立て続けに吸われて、固くなった乳頭と傷に上下の歯を引っ掛けるように噛まれる。傷に歯がめり込んで悲鳴を上げた。
「……い゛っ、……あっ……!」
「あ、いい声……」
呟いた芹沢は、悲鳴の発生元を求めて顔を近づけてきた。ぬちっ、と音がして尻から指が引き抜かれ、太ももを押さえつけた芹沢が俺の上体にのしかかる。
あわよくば噛みついてやろう、という意思は、これまで反抗的だった俺の態度から容易に察せられたのだろう。芹沢は俺の目の前にナイフを突き出した。その切っ先に鼻先が触れそうになり、俺はとっさに息を飲む。芹沢は刃越しにこちらをまっすぐ見つめていた。
ナイフを持った芹沢の表情は、俺にふざけた問いかけをする時とは別人のように冷たく鋭い。きらめくナイフとは対照的に、艶消しされた金属のような、能率的で冷えた目をしている。
「口を開けて」
「っう、……」
目の前にあるナイフに本能的な恐怖を感じて、反射的に薄く唇を開く。その隙間に、水平にされたナイフが、内部の粘膜を傷つけない正確な角度で差し込まれた。むき出しの刃物が柔い粘膜のはざまに滑り込む。その感覚に本能的な恐怖を感じ、うなじが泡立った。
「う……!」
「もっと」
短い命令と共にナイフが口をこじ開けるように回転する。そこまで幅広のナイフではなかったが、刃が歯に対して垂直になるにつれ、俺は口を大きく開かざるを得なかった。
「いいこだね」
言うと芹沢はナイフの横から自身の舌を俺の口内に滑り込ませてきた。
「あぅが……! ん、んぐっ」
「…………」
振り払いたくても、ナイフが怖くて首を動かせない。刃をよけ、口内の奥で縮こまっている舌を、芹沢の舌が好き放題に撫でまわす。頬の粘膜を容赦なくえぐり、唾液をこそぎ取っていく。
前歯の歯間に挟まっている刃が恐ろしくて、動き回る舌が気持ち悪くて、呼吸が苦しくて。混乱と恐怖で明滅する頭の中で、ふっと、記憶が蘇った。
唇をくるん、と覆った粘膜の感触。土の匂いのする指の味。呼吸を……生きている証を確かめて、それごとすすり取ろうとする必死な舌。
その瞬間、頭の中が真っ赤になるような強烈な怒りを覚えた。俺は緩みかけていた芹沢の腕から太ももを逃れさせ、思い切り膝蹴りを繰り出した。つもりだった。
「……っ!」
実際は足首同士が縄でつながれているため、大した勢いもつかなかった。だが体勢を崩した芹沢に、ナイフを口から引き抜かせる事には成功した。一歩間違えれば口裂け女ならぬ口裂け男になっていたところだったが、この時は訳のわからない怒りで頭がいっぱいで、そんなことを心配する余裕はなかった。
「好き、勝手、やりやがって、この……!」
「おっと」
足で挟んで転がしてやろうかと思ったが、芹沢は獣のように俊敏に飛び退り、俺から距離を取っていた。蹴りでも届かない距離まであっという間に下がってしまった芹沢は、呆れたように俺を見下ろす。
「あっぶな。口にもう一つ穴あくところだったよ?」
そう呆れ気味に言った芹沢がふと黙り込む。奇妙な沈黙のあと、目の前の男は唐突にいやらしく笑った。
「……そんなに、キス嫌だった?」
「はっ、嫌に決まって………」
ぶん、とナイフを持った腕をふって芹沢が歩み寄ってくる。見上げた顔は、天井にぶら下がるすすけた照明を背に、暗く影を落としている。
その口元だけが裂けたように真っ赤に吊り上がっていて、先ほど激しい怒りが追いやったはずの恐怖が再び胸の内に湧き上がる。一度すくんだ体は動きが鈍く、やすやすと芹沢の接近を許してしまった。
芹沢が再び俺の脚を押さえ、その間に座る。項垂れた自分の性器の隣にナイフを添えられて、俺は息をつめて暴れるのをやめた。それを見て満足そうに芹沢が笑う。
「ねえ、吉野さん。一つ質問させてよ」
「……っ」
芹沢が上目遣いに俺の目をとらえる。
「桂木一巳ともキスしたの?」
「なっ……!」
一瞬のうちに顔面が熱くなるのを感じた。芹沢が心底楽しそうに、あはは、と笑う。
「うわ、顔真ーっ赤! 吉野さん嘘つけないタイプなの? それとも、桂木一巳の話だからかな?」
「なんの、話……」
「そんな顔じゃ何言っても意味ないよ」
肩を震わせてひとしきり笑うと、芹沢はするり、と俺の脇腹に残る噛み痕を撫でた。
「これも桂木。キスも桂木。あいつとどこまでしたの? ばらばらになった元恋人を探してる最中、あいつは新しい恋人に、かわいそォ、よしよし、って慰められてたわけ?」
「違うっ! 黙れ!」
下世話な言葉に逆上して叫ぶと、芹沢は黙るどころか、さらに興奮したように愉悦の笑みを浮かべた。
「違うの? 吉野さんは、桂木一巳の恋人なんじゃないの?」
「違うっつってんだろクソ野郎! くだらねえ妄想は今すぐやめろ!」
「だって男が恋人だったんだからさァ、桂木一巳はそういう下心があって吉野さんと一緒にいるんじゃないの?」
「違う!」
俺は激しく首を振った。違う。違う。桂木はそんなふうに思わない。なぜなら、哲生を殺した芹沢を、今でも殺してやりたいほど憎んでいるからだ。哲生の遺体を見つけるために、何年もたった一人で、諦めずに捜査を続けてきたからだ。哲生の遺体を腕に抱き、あんなに幸せそうに笑うからだ。
「……桂木さんはそんなんじゃ……!」
「そんなんじゃないなら何なの?」
穏やかとも言える笑みで芹沢は俺の腹を撫でる。その言葉の続きを促すように。
「桂木さんは……」
桂木はあの時も、俺を求めているわけではなかった。俺を通して俺ではない何かを見て、俺の体からかつて生きていた誰かのぬくもりを得て、ただそれだけだ。彼がただ一つ、激しく求めているもの、それは常に哲生の存在だけだ。
「桂木さんはずっと、今でも必死に、哲生さんを愛してる! 下種な想像はやめろ、桂木さんは俺なんか求めちゃいない!」
血を吐くような叫びが部屋中に響き、その余韻にびりびりと痺れる俺の耳もとに、芹沢の両手が差し入れられた。頭を固定され、強引に上を向かされると、目の前にぎらぎらと光る芹沢の目があった。
「……っひ」
その異様な色をたたえた目に睨まれ、目が逸らせなくなる。芹沢は、がぱ、と開いた口から、興奮しきった吐息を漏らし、しきりに俺の頬を撫でた。
「その顔、うあ、あぁ可哀想、おいしそう、可哀そうだね、あぁ……」
「っな、何。なんの……」
「吉野さんはかわいそうだね」
芹沢の大きく開いた口の中には白く鋭い粒が並び、獰猛に、俺を食い散らかそうと潜んでいる。その合間から垂れ落ちる唾液のように、粘度のある声が俺の耳を犯した。
「吉野さんは、桂木一巳が好きなんだね」
「……あっ……?」
とつ、とその声が鼓膜を突いた。
次の瞬間、じわじわとそれが耳から浸潤し、言葉の意味が脳みそに染み渡っていく。
桂木を好き。桂木のことが好き。俺は。俺が?
どくどくと自分の鼓動が耳の中に反響している。理性やプライドを置いてけぼりにして、その言葉を脳と心が柔らかく吸収していく。
胸の中のその動きを見透かすように、芹沢の手がするりと心臓の上を撫でた。その動きに、またしても桂木の手の感触が蘇る。だが、その記憶の中の桂木は、どこか以前とは異なって見えるようだった。何が異なっているかは、明確にはわからない。強いて言うならば、変わったのは桂木を見る俺の目だ。
(俺が、桂木さんを……好き?)
何か取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。
芹沢の言葉を理解してしまった。形容される感情の名前を知ってしまった。それはもう後戻りできないほど脳にしみ込み、俺の中身を変えてしまった。
桂木のために役に立ちたかった。捜査に協力したかった。大切な恋人の遺体を見つけてあげたかった。桂木を止めたかった。殺人なんかで手を汚させたくなかった。彼を理解したかった。認められたかった。頼られたかった。
桂木の熱い手の平の温度。俺を救い出してくれた時の生 の熱。あれに報いたかった、それだけだったのに。
(……本当に?)
芹沢の顔にすべてを見られているのも忘れて、俺はぼうっと、どこを見つめるでもなく、呆けた顔を晒していた。
その表情を満足行くまで眺めた芹沢は、そっと頬から手を離す。支えを失い、がくん、と頭を上下させた俺は、はっと顔を上げた。
芹沢が片手で器用にフロントボタンを外し、ファスナーを下ろしているところだった。それを見て、これから行われる行為に思い当たり、胃の底が急激に冷たくなった。暴れようとして、うまく脚が動かないことに気が付く。がくがくと力が入らないのは上半身も同じで、俺はその震えが恐怖によるものだと遅れて気が付いた。
怖いのに、芹沢の手元から目が離せない。芹沢の性器は勃起しきっていて、俺がうまく動けないのをいいことに、手早く両手でコンドームをつけた。そして再度、俺の尻にローションを垂らして、指でほぐす。その間もずっと、俺はそこから目が離せず、芹沢はそんな俺の顔を見ていた。
「あは、はァ……。吉野さん、すごい、おいしそう」
芹沢が俺の両足を抱える。芹沢の性器の切っ先がひた、と穴にあてがわれた。息をのんでこれから来る衝撃に耐えようと身を固くするが、いつまでたってもそれはやってこない。
「吉野さん、」
呼びかけられて思わず顔を上げてしまった。芹沢と目が合う。それを確かめ、にこ、と笑った芹沢が一気に腰を押し進めた。
「はっ、はあ゛っ……!」
「あ、吉野さん、あぁ、あ、おいしそう、吉野さん……!」
内臓がめりめりと押し広げられていく。限界まで伸びきった尻穴のふちがびちっと裂ける音が聞こえた気がした。芹沢が、苦痛に歪んだ俺の顔をじっと眺めながら、上ずった声で俺の名前を呼んでいた。異物を押し出そうとする肉をかき分け、熱い塊がめり込んでいく。内臓を直接殴られるような強烈な鈍痛に涙がにじんだ。
ある程度押し込んだところで、芹沢が動きを止める。そして押し入れた性器をゆっくり引き抜く。
「ヒィイッ……!」
腹の中身を全部引きずり出されるような感覚に、喉をのけぞらせて叫ぶ。カリ首が入り口付近まで引き抜かれて、異物感が和らいだことに息を突く間もなく、再度ローションをまとった性器が尻に押し入ってきた。
「がぁ、あっ、いっ、……!」
さっきよりも深い場所まで切っ先が入り込み、ひたり、と臀部に芹沢の腹がくっついて止まった。振動で目じりにたまった涙がぼろっとこぼれた。
それを、体を密着させた芹沢の舌が追いかけ、掬い取る。目の前でちゅくちゅくと味わうように口を蠢かせ、ごくり、と喉が嚥下した。
「……はは、あぁ、この味を知っているのは、きっと俺だけだね。俺が初めてだ」
目の前一杯に映ったとろけるような笑顔はそう言うと、俺の目じりを舌でなぞった。
俺はぼんやりと、この男にすべてを犯し尽くされたような、腐った生ごみのような最低の気持ちを味わった。
「はぁ、はぁ…………あ゛っ! ……い゛っ……!」
芹沢が腰を前後に蠢かせ始める。にちゃ、にちゃ、と俺の尻と芹沢の腹の間で糸を引くローションが音を立てる。その反吐が出るような音の合間に、徐々に腰を打ち付ける破裂音が混じっていく。
「吉野さん、あ、はぁ、気持ちいい、」
「ぅあっ、ひっ、……がっ、……い゛ぅっ……」
腹を押しつぶされては濁った声を放ち、引き抜かれては喉をひきつらせて胸に空気を吸い込む。どちらにしても喉が壊れそうな酷い、聞くに絶えない声だった。それでも芹沢は、極上の音楽でも聞くかのように、俺があえぐたびに顔をほころばせる。
「あ、あぁ、吉野さん、おいしそう、あ、は」
体のあちこちに噛みつかれる。だがその痛みも感じないほど、芹沢の性器に擦られる尻が痛かった。穴のふちは熱を持って痛み、内臓の奥は耐えがたい吐き気と鈍い痛みをもたらす。
揺さぶられてぶれる視界の中で、芹沢と目が合った。どろり、と濁った心が沸騰するような憎悪を感じた。
(痛い、苦しい。殺してやりたい。くそ、痛い、嫌だ、なんで……ぶっ殺す、殺してやる、)
泣くまいと思ったのに涙がこぼれた。憎しみ以外の感情を締め出した心の中で、何度も何度も、殺す、と唱えているうちに、ただただ悔しさが溢れてきた。
桂木に芹沢を殺すなと、そう言った自分がこのありさまだ。この男に体の中も外もいいように扱われている自分が悔しかった。芹沢は嬉々としてその涙を嘗めとった。
内臓を押し上げる力が強くなっていく中、俺は徐々に息がうまく吸えなくなっていることに気が付いた。
(あ……、あれ。息。息が……どうして)
はーっ、はーっ、という自分の荒い呼吸が聞こえる。頭がくらくらした。体表の温度がどんどん下がり、それに反して大量の汗が噴き出てくるのを感じる。気持ち悪い。
「あれ? あ、ちょっとショック受けちゃったかな……っ! はぁ、大丈夫、この程度なら、死なないから、」
腰の動きを止めないまま、芹沢が俺の顔を覗き込む。ナイフを持ったままの手で顔を撫で、下瞼を引き下げたりしているようだったが、俺にはもう何を言われているかすらわからない。ぼやけた視界で天井を仰ぎ見たのを最後に、スイッチを落としたかのように意識が闇にのまれた。
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