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--------  がたがたという物音や、衣擦れの音はしばらく前から聞こえていた気がする。眠っているような起きているような、曖昧な意識が一気に覚醒したのは、耳を貫くような『ピンポーン』という甲高い音が聞こえてきたせいだった。  がたり、と物音が止む。じんわりと瞼を開くと、視界の隅で佇んでいる男の背中が見えた。 (……あれは、芹沢か)  芹沢、と言う名前をぼんやり思い浮かべたところで、心臓が一度大きく脈打った。ここがどこかを思い出し、起き抜けの体の中で心臓がどくどくと暴走し始める。  脈に合わせて全身がジンジンと痛む。中でも尻と腹がとりわけ痛い。だが、その痛みに身をよじらせるよりも早く、”芹沢に気取られてはいけない”という強い警戒が俺の体を押しとどめた。  開きかけた目を慌てて閉じて、薄目の状態で芹沢の姿を窺う。痛みと緊張と恐怖で、全身にねっとりと汗が滲んだ。  もう一度、『ピンポーン』という音が鳴り、ついでにどこからか、「すみませーん」と言う男のくぐもった声が聞こえた。 (……チャイムの音? 誰か来たのか。誰が? というかここは、もしかすると普通の民家なのか?)  視線の先で芹沢は、物音に警戒する動物のように、音のしたほうへ顔を向けたままピクリともしない。ひりつくような緊張感の中、静かに芹沢は動いた。 「……はーい」  そう答える声は長閑な響きだったが、明らかに警戒した足取りで部屋を出て行く。芹沢が後ろ手に、この部屋の引き戸をピッタリと閉めていくのが見えた。  くぐもった足音が十分に遠ざかったのを確認して、俺は素早く体を起こした。尻と腹に耐えがたい痛みを感じて、急に動いたことを後悔する。だが、そんな痛みすら気にならないほどの焦りと恐怖が体を突き動かしていた。 (逃げなきゃ)  奴の手、指、舌、そして尻を行ったり来たりしていた性器の感覚まで、まだそこにあるかのように体に刻み込まれている。  蹂躙される、押さえつけられて、支配されて、あの白い粒粒とした歯に食いちぎられる。喰われる―――殺される。生命としての危機が、俺の体に痛みを忘れさせた。  うめき声を奥歯で噛み殺して、素早く室内を見渡した。俺のスマホは、芹沢が最後にいじっていた時と同じ場所に放ってある。その横にくしゃくしゃにされているのは、俺がはいていた下着とズボンだ。俺の下半身は、芹沢が処理したのか綺麗さっぱり拭われているが、何も身に着けていない。  一度、芹沢の出て行った引き戸をちらりと確認する。かすかな話し声はどこからか聞こえるが、足音が戻ってくるような気配はない。  俺は頭上でくくられている手首を見上げた。太く、丈夫な縄だ。先ほど何度も暴れたにも関わらず、びくともしていない。手首は酷い擦り傷を負っているというのに。 (くそっ)  舌打ちをひとつして、俺は下半身から忍び寄る冷気にぶるり、と体を震わせた。そして首をのけぞらせて、手首にまとわりつく縄に噛みつく。前歯を鋸のようにして縄を切ろうと試みるが、強靭な繊維でできたその縄は毛羽立ちもしない。今にも芹沢が戻ってくるかもしれないという焦りから、次から次へと冷汗が噴き出てくる。下半身は素っ裸で、部屋もこんなに寒いのに、じっとりと嫌な汗だけは止まらない。  その時、はたと気が付いた。寒い。異様に寒いのだ。むき出しの尻から足先まで、びっしりと鳥肌が覆い、今にもかたかたと震えが始まりそうだ。部屋の隅にある窓を見るが、きっちり閉まっているし、外の冷気が入り込んだというわけでもない。芹沢の出て行った引き戸も、開いた形跡はない。  そこでまた俺は気が付いた。扉越しにかすかに聞こえていた、芹沢の会話する声が聞こえない。 「っ……!」  寒さからではない鳥肌が、今度は全身を覆った。おかしい、何かが変だ。  心臓がどっどっどっ、と胸を叩き、警戒しろと俺に告げている。異様な緊張状態に、否応なしに五感が鋭くなっていく。  そんな、鋭敏になった俺の耳が、かた、かた、かた、という断続的な音を拾い上げた。音を発していたのは、引き戸だった。引き戸がゆっくりとゆっくりと、横にスライドしている。  芹沢が戻ってきたにしては動きがおかしい。驚くほどゆっくりとした動作で、引き戸は何度もつっかえながら不器用に滑っていく。  固唾を飲んでそれを見つめていた俺の目が、人の頭が通るか通らないかぐらいの隙間が開いたそこから、“ぬるう”、と人の頭が入り込んで来るのを捉えた。  芹沢ではない。そして、頭の位置がおかしい。どう見ても成人男性のはずの頭が、引き戸の取っ手と同じ場所にある。四つん這いにでもならなければあの位置に頭は来ない。そして四つん這いになる理由が俺には思いつかない。  短く刈り上げた頭を隙間へねじ込むように上下左右に振る、その動きは確かに原理上可能だろう。でも、大の大人がそのように一心不乱に頭を振る姿を日常で見る機会がどれほどあるだろうか。  なんにせよあれは、異常だ。人、ではない。  逃げたくても、俺の両手はここに縫い留められていて、逃げることはできない。だがそんな拘束がなくても、凍り付いた体はピクリとも動かすことができなかった。  不気味なその頭がようやく狭い隙間を抜けると、それは首をひねり、俺と目を合わせた。 「……、う、」  ぬっ、と動いた眼は血走っていて、顔面は気味が悪いほど青白かった。  男は俺と目を合わせたまま、狭い隙間に今度は体をねじ込むように、くねくねと体をうごめかせる。蠢く虫か、跳ねる魚かのような奇妙な動きで、ずりずりと肩を押し込んで扉の隙間を広げていく。  ようよう両肩が扉を通り抜けたかと思うと、男はどさっと畳の上に倒れ、そのままぐねぐねと肩を使って這い寄った。目線を合わせたままの、俺へ向けて。  逃げようにも逃げられない。そんな状況で俺は徐々に近づいてくる男をじっと見つめるしかない。  肩、背中、腰と順番に引き戸の向こうから現れ、次は男の尻と脚が来るだろうという段階で、俺は、うっ、とうめき声を漏らした。 (脚が……)  男の腿や尻のあたりは、ところどころ凹んだり、欠けたりしていて、あるはずの肉を失った赤黒い断面を見せていた。そして両足首から先は、ない。男はちらちらと骨の覗く脚を蛙のように蠢かせ、膝と両手でこちらへ這いずってくる。 「……!」  男が、すぐそばまでやってきた。俺の足首を掴み、ずずずぅっと自らの体を引き寄せる。悲鳴は喉の奥に引っ掛かり、かすれた吐息しか洩れなかった。  足首に絡みついた手は、まるで冷蔵庫に閉まってあったソーセージのように冷たく、ぷっくりとしていて、これ以上があるのかと呆れるほど、また新たな鳥肌が立った。 (ひ、)  男が、両手を床に突いて、ぐぐう、と伸びあがる。後頭部を壁に押し付けて、恐怖に顔を引きつらせる俺の、その顔を覗き込むように、男は顔を近づけた。目をそらせない俺は、まじまじとその顔を見ることになる。  骨ばった顔に、短く刈った頭、耳にはシルバーピアスが鈴なりになっている。強面の格闘家のような容貌が、今や覇気のない死人の顔になり果てていた。  ふと、視界の隅で、何かが動く気配がした。見ればそれは目の前の死人の腕で、手に何かを握って後方へ振りかぶっていた。  だが、手の中にあるものを確認する前に腕は、ぶん、と勢いよく振りかぶられる。とっさに俺は目をつぶった。頭上で何か、がつん、という凄まじい音と衝撃が響く。肩がびくっと大きく震えた。  ぎゅっと瞼を閉じたまま、全身を強張らせ、耳をそばだてる。しかし、その衝撃音の後には、何の音もしなかった。  キーンと耳鳴りがしそうな静寂の数秒あと、俺はそろそろと眼を開ける。そこに、下半身の欠けた男はもういなかった。 (今のはなんだったんだ、……幽霊、なのか)  確かめるすべのない疑問を浮かべ、無意識に汗の浮いた額をぬぐおうとする。その時初めて、自分の手首が自由になっていることに気が付いた。両手首に巻き付けられた縄はそのままだが、その輪をひとまとめにしていた縄が切れてぷらりと手首から垂れている。その断面は刃物で切られたかのように鋭い。  俺は手首が引っ掛けられていた壁のフックを見上げた。そこには、サバイバルナイフとでも言うのだろうか、ごつごつした刃を持ったナイフが突き刺さっていた。 (……どこから、こんなものが)  しばらく呆然とそれを見上げていたが、ハッと我に返る。今はそんなことを考えている暇はない。俺は一瞬躊躇したものの、壁のナイフに手をかけて引き抜いた。  出自不明の怪しげなナイフでも今の俺にはありがたい。焦る手つきで足首の縄に刃をあてると、縄はあっけないほど簡単に切れた。  足が自由になるや否や、俺はまろぶように立ち上がり、部屋の隅に置かれているスマホへ急いだ。手に取ってボタンを押せば、あっけなく画面が点灯する。たったそれだけのことに驚くほどの安堵を覚えた。  早く連絡を、とも思ったが、今にも芹沢が戻ってくるかもしれないという恐怖が俺を追い立てていた。傍らに落ちていた下着とズボンに脚を突っ込んで、部屋の窓に歩み寄る。この部屋にある出入口は、芹沢の出て行った(そして不気味な男が入ってきた)引き戸と、この窓しかない。逃走経路として選ぶなら、窓以外ありえなかった。  今すぐこの窓からとびだしたい、そう焦る気持ちをなだめすかして、窓の外に耳をそばだてる。荒い呼吸を無理やり押さえてじっと聞き耳を立てるが、なんの物音もしない。  そっと鍵を外して窓を開いた。窓の向こう側には背の高い木製の塀があり、その奥にはさらに背の高い木々が揺れている。窓と塀の間は雑草が生い茂っているが、十分歩いて通れる幅だ。俺は耐え切れず、窓枠に足をかけた。  着地には気を使ったが、それでも、どさっという重苦しい音はあたりに響き渡った。急に不安な気持ちが膨れ上がり、俺は慌てて窓を閉め、身をかがめてきょろきょろと左右を見た。  自分のいる壁と塀の隙間は、歩けそうな隙間を保ったまま左右に伸びている。左よりも、右の方が木々の緑が濃く、身を潜めやすいような気がした。俺は身を低くして、草をかき分けて走り出した。  ぶわり、と鼻の先を強い草の香りが掠めていく。対して動いてもいないのに、息ははぁはぁと荒くなっていた。まだ首の後ろはチリチリと、危機が去っていないことを告げている。芹沢が部屋に戻ってくる前に、どこかに隠れるか、遠くへ逃げなければ。  ふと、しばらく進んだところで、左側に続いていた木製の塀が途切れているのを目にした。木々の向こう側に、ぼんやりとかすかな街灯に照らされた道路が見える。一車線の狭くて古い道で、道路を挟んで向かい側には、小屋のような建物があった。  トタンの屋根と壁で囲われているが、道路に面している側には壁がない。錆びたトラクターが留めてある。その横には青いビニールシートをかぶった何かが積まれていた。 (……あそこに、隠れられないか?)  その雑多に積まれた物たちを見てふと思いついた。  逃げるか隠れるかまだ方針は決まっていないが、一度身を隠せる場所で支援室に連絡を入れたい。俺はごくっ、と喉を上下させて、そろそろと道路へ向かった。かさかさ、と殺しきれない草を踏む音に肝を冷やしつつ、そっとあたりを窺う。道路には人の気配はなく、街灯がまばらなせいで、道の先は見渡せない。  俺は一つ震える深呼吸をすると、靴下履きの足で道路へ飛び出した。 (……痛っ)  小石を踏んだ足の裏がズキッと鋭く痛んだが、止まらず走って目の前の小屋に駆け込んだ。素早くビニールシートをめくりあげると、とたんに乾いた泥が舞い上がる。思わず咽そうになる鼻と口を手で覆って屈みこんだ。  ビニールシートの中には古いゴムタイヤや木の板が積んであった。その中にうまいこと隙間を見つけてもぐりこむ。斜めに立てかけられた板の裏に滑り込んで、前後左右、上も下も隙間なく隠れられたことを確認し、俺は小さく息をついた。

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