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 安心感を得られたのはほんの一瞬だけだった。早くしなければ、芹沢に見つかってしまうかもしれない。みるみるうちにその恐怖は全身に広がった。  酷く震える手でスマホを操作する。早く、早くと焦れば焦るほど指がおぼつかなくなり、息が荒くなった。押し殺した呼吸音が、ふっ、ふっ、と狭い空間に充満する。ままならない体に泣き出しそうになりながらも、どうにかこうにかメッセージアプリを起動した。  ずらっと表示された履歴の一番上を震える手でタップする。相手は浦賀だった。連絡のない俺を心配して連絡し続けていたようだ。  だがそれらのメッセージを細かく確認している暇はこっちにはない。とにかく思いついた端から言葉にしていった。 『芹沢に拉致された。場所わからない』  メッセージが送信されて、タイムラグなく既読のマークがついたことに、これほど喜びを感じたことはない。泣き笑いのような表情を浮かべそうになって、はっと気が付きメッセージを追加で送った。 『電話できない。隠れてるから』  送った瞬間、入れ違いで浦賀からメッセージが返ってきた。 『地図アプリ起動して、場所共有してください』  言われた通り地図を起動するが、なぜか現在地が表示されない。いつもはすぐに地図が表示されるはずなのに、画面に現れたのは “位置情報を取得できませんでした”というポップアップだった。 (なんでだよ、クソっ)  つのる焦りが怒りへと変わっていく。 『現在地出てこない』  浦賀に助けを求めるようにメッセージを送った。すぐに返ってきた返事には、 『GPSきられてる? 手順送る』  そして、立て続け画像が送られてくる。すべて、スマホの画面を映したスクリーンショットだった。  いつもなら簡単にできるような操作なのに、なかなか手順が頭に入ってこない。俺は半泣きになりながらも、浦賀の送ってきた画像の通りに設定をONにして、地図を再度開いた。 (出た!)  今度こそ自分の今いる場所が表示された。すぐにその情報をコピーして浦賀に送る。 (早く、早く早く早く……!)  先ほどから背後が気になって仕方がない。今にも、芹沢がビニールシートをめくってこちらを覗き込んでくるのではと、気が気でない。恐怖と緊張で、かちかちと歯が鳴るその音すら、奴に聞こえてしまわないか恐ろしい。  頭には様々な思いが浮かんでは過ぎていった。もう少し先の方まで逃げればよかったかも。窓の鍵が開いたままだから足取りを追われるはずだ。民家を探して通報してもらった方がよかったか?  怖い。ただただ、恐ろしい。じっとしていると頭が恐怖だけに支配されていく。  そんな思考を断ち切ってくれたのは、少しの時間を置いて届いた浦賀からのメッセージだった。短文が連続で送られてくる。俺は食い入るようにその文字を読んだ。 『すぐ向かいます。近場の交番の人間を向かわせました、まずはその人たちが十五分くらいでそちらに着きます』 『俺達も行きます。一時間くらいで着きます』 『交番の人が着いたら、呼びかけます。保護してもらってください』  警察が来る。その事実に俺は心から安堵のため息をついた。が、すぐに、十五分と言う時間に新たな不安が芽生える。  目が覚めて、芹沢が出て行き、俺が部屋を脱出するまで、体感では五分程度だ。ここにたどり着いてさらに五分ほど経っただろうか? そろそろ、芹沢が俺の脱走に気づいてもいい頃だ。それまで、ここがばれないだろうか?  そう考えたタイミングで、かすかな物音を俺の耳が捉えた。  ざ、ざ、ざ、という地面を擦るような足音。瞬時に全身がこわばる。呼吸音が漏れないよう、口を手で覆った。  芹沢だろうか? よくよく耳を澄ましていれば、その音が一定でないのに気が付く。ざっざっ、と数歩歩いては止まり、しばらくしてまた、ざっざっ、と歩く音、それが不規則に繰り返されている。次の瞬間、脳が凍りつくような恐怖に襲われた。 (さがしてる)  頭の中に、塀の向こうや、道路わきの茂みを覗き込みながら、道の上をゆっくり進んでいく芹沢の姿が浮かび上がる。一瞬で全身に鳥肌が立った。  立ち向かう、という発想はもう俺の頭の中にはなかった。怪我をしているからとか、体がふらつくからとか、そういう問題だけじゃない。あの、一見優しそうな笑顔の中にあるぎらついた目、耳に忍び込んでくるねばついた声。それを思い出すだけで吐き気がこみ上げ、膝が震えるのだ。体と心が、芹沢と対峙することを拒否している。  かたかたと小刻みに震える体をきつく抱きしめ、聴覚に集中する。やがてそのざ、ざ、という歩みはどこかへ遠のいていった。 (……行ったの、か?)  ふっと体の力を抜くと、途端に心臓がうるさく鼓膜に反響する。恐ろしいほどの速度だった。何とかやり過ごせたようだが、次またどうなるかはわからない。早く、助けが来ることを祈るしかない。  呼吸を整えながらスマホを再度見ると、浦賀からのメッセージが何件も寄せられている。  動けるか、走れるか、負傷はあるか、今どこに身を隠しているのか、武器や身を守る物はあるか、スマホの充電は残り何%か……まだまだ続いているメッセージをスクロールしていくと、とある一文に心臓が不整脈を起こしそうなほど大きく波打った。 『前原さんと、桂木さんも一緒に行きます』。そこにはそう表示されていた。 (桂木さんが、くる)  頭が処理落ちしそうなほど、一気に色んな思考が流れていった。  芹沢が現れたのだ、桂木がこちらへ来ようとするのは当たり前だろう。だがそれを前原が許可するとは、予想外だった。桂木は芹沢に復讐しようとしている、それを知っていてなぜ前原は、桂木を連れて来るのだろうか。  いや、そんなことよりも。 (……今、桂木さんに会ったら俺は、どうなるんだ)  芹沢の言った言葉が頭を離れない。 『吉野さんは、桂木一巳が好きなんだね』  認めたくないし、否定したかった。でも、理性が拒むよりも早く、その言葉を自然に受け止めてしまっている自分がいる。  いつもそうだ、俺は言葉にしないと自分の気持ちに気付けない。鈍感で、救いようのない馬鹿だ。  しかも今回は、くそったれな殺人鬼の言葉で自分の気持ちに気付かされた。その事実がひどく悍ましい。心を汚された気分だった。  俺が考え込んでいたその間も、浦賀からのメッセージは途切れていなかった。俺が返事をしなくなったからか、途中から、大丈夫か、生きているか、というような生存確認のメッセージになっている。  俺はそれに、大丈夫だと返した。続けて、今いる場所の詳細な外見も文章にして送る。負傷の具合は、レイプの事実だけ隠して報告した。言えるわけがない。  俺は時刻を何度もちらちらと確認しながら、浦賀からの問いかけに機械的に答えていった。じりじりと、ゆっくりと時間が過ぎていく。そうこうしているうちに、到着の目安だった十五分が経過しようとしていた。  敏感になっていた俺の耳が、外からの物音を拾う。ざ、ざ、という地面をこすりつけるような音、足音だ。  一瞬、また芹沢がやってきたのかと思ったが、違う。足跡は複数重なり合っていて、そのうえ人の声まで聞こえてくる。  芹沢ではない、そう思った俺の耳に、はっきりとした呼びかけが届いた。 「……吉野さん、吉野さんいらっしゃいますか。田子(たご)派出所の者です」  警察官だ。そう確信すると同時に、ぱっと周囲が明るい水色に染まる。ブルーシート越しにライトをあてられたのだと気付いた。時折ガガガ、と入る雑音と電子的な人の声は無線機の音だ。間違いない。 「……こ、ここです。ここに、」  発した声は自分でも驚くほど震えていた。板の隙間から這い出ようとすると、長時間縮こまっていた体は思うように動いてくれなかった。  やっとの思いで隙間から抜け出したかと思うと、まぶしいライトに視界を潰される。とっさに顔の前に手をかざした俺に、鋭い声がかけられた。 「吉野巡査部長ですか、ご無事ですか?」 「は、はい。大丈夫です」  真っ白な視界に目を瞬かせながら歩き出すと、力強い腕に手を引かれる。ライトをぶら下げた人影が、俺の肩を大きな手で支えていた。俺よりも若く、体格の良い警察官だった。  交番勤務なのだろう、制服に身を包んでいる。見回せば、小屋へ至る道の半ばで、中年の男性警察官が無線機を片手に会話していた。さらに奥まった場所では、パトカーのヘッドライトが目を光らせている。  助かった、何よりもその気持ちが強くて、力を抜いた瞬間思わずふらついてしまった。 「大丈夫ですか、負ぶっていきましょうか?」 「いや大丈夫です、それよりも、犯人がまだ」  警察に保護されたという安心感からか、先ほどまでの芹沢に対する恐怖が薄れていく。変わりに頭をもたげたのは、使命感や焦燥感がないまぜになった感情だ。そう、今までずっと雲隠れしていた犯人がようやく姿を現したのだ。このチャンスを逃したらまた、いつ現れるかわからない。今、このタイミングで捕まえなければ。 「ええ、そう聞いています。だからとりあえず、あなたは車に」  そう促され、俺は少しためらったものの、おとなしく車へ誘導された。怪我をした俺がいては、かえって現場の足手まといになる。芹沢の逮捕は、これから来る応援に任せよう。  無線へと注意を向けていた中年警官も後ろから続く。 「これから応援が来ますから、それまでの辛抱です。俺たちは先に、あなたを保護するよう言われているので」  そう言って若い警官がパトカーの後部座席のドアを開ける。促されるまま入ろうとしたその時、重い布袋を地面に落とした時のような、鈍い音がした。背後からだ。俺と若い警官は、鏡合わせのように二人そろって振り返った。  そこにはただ、まばらな街灯が照らしだす、道と暗闇が広がっている。だが、その道の上には先ほどまでいた中年の警官の姿はない。俺はどこからか流れてくる生ぬるい空気に、無意識のうちに肌を粟立てていた。 「あれ、東さん……?」  若い警官が、そこにいたはずの中年の警察官の名前を呼ぶ。右へ、左へと若い警官の持つライトが彼の上司の姿を探して揺れた。  その定まらないライトの先が、道よこの茂みを丸く照らし出した。その中に一瞬、地面に並んで転がる黒い靴の先が見える。  あっ、と声を上げたその瞬間だった。若い警官が突如、横に吹っ飛ぶようにして勢いよくパトカーの側面に叩きつけられた。ドン、という音と共に車体が揺れる。 「あ……あれ?」  何が起こったのか、とっさのことに固まる俺の目の前で、車のルーフにぐったりと頭を預けた警官が呻く。  のろのろと頭を持ち上げ、そっと、確かめるように、自身のわき腹から生えた棒状のものを見た。  そのままゆっくり視線を上げ、俺を見る。彼の口がばくばくと動いて何かを告げようとしたその時、わき腹のそれが引き抜かれた。ナイフか何かだろう、ぎらり、と一瞬の光の反射を残して、どぶ、と血がほとばしる。その瞬間、若い警官がどのような表情をしていたのか、もうわからない。  俺はその場でくるりと体を反転させ、がむしゃらに走り出していた。

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