87 / 120

12

 自分が今どこに向かっているかもわからず足をひたすらに動かす。酷い耳鳴りと荒れた呼吸音の中に、背後から追いかけてくる足音を拾う。遠くから、この緊迫した状況に似つかわしくない、間延びした声が聞こえた。 「吉野さんねえ待ってよぉ。俺、追いかけっこは……はぁ、足遅いんだよね」  うるさい、知った事か、と頭の中でがなり散らして、俺は地面を蹴った。  どこへ向かおうなんて考えは微塵もなかった。後から冷静に考えれば、芹沢から逃れるためのもっといい方法がいくらでもあったと思う。だが、この時俺の頭の中には、何かを考えられるスペースは少しもなかった。頭の隅から隅までみっちりと、自分を殺そうとする男への恐怖でいっぱいになっていた。 (……怖い。殺される、殺される、追いつかれたら死ぬ……!)  背後にいる芹沢がライトを持っているのか、まぶしい光が時折俺の周囲を照らし出す。そのたびに見える足元が、いつの間にか未舗装の道になっていることにも気が付かなかった。  前へ、とにかく、芹沢から遠く離れるために前へ。ただそれだけを考えていた俺は、唐突に起きたそれにろくに反応することができなかった。勢いよく振っていた俺の左腕が、唐突に何者かに掴まれたのだ。 「っえ、うわ!?」  その力は尋常ではなく、前へと向かっていた体は肩が引っこ抜けそうなほど強く左側へ、ぐんっ、と引っ張られた。取り返しがつかないほど大きく、体が道の左側へ放り出される。そして、上下の感覚が消え失せた。次の瞬間には、暗転した視界の中で体中のあちこちを衝撃と痛みが襲った。五感をシェイクされるような感覚に、脳がパニックの極地へ達する。ほんの一瞬意識を飛ばしている間に、俺の体は湿った地面にうつ伏せの状態になって、静止していた。 「う、……?」  寝ているはずなのに、くらん、くらん、とかすかに揺れる視界の隅で、青白い肢体を見た気がした。草葉の影に、そういう樹木のように白い両足が生えている。  こんな場所に、裸足で? そんな疑問がぼんやりと浮かんだ頭の上から、あの声が聞こえてきた。 「……あれ、吉野さーん? 追いかけっこじゃなくてかくれんぼー?」 「……っ」  声をひそめ、体をすくませる。頭上をざっざっ、と歩き回る音がしばらく聞こえる。それが徐々に遠ざかって行ったのを確認して、俺はそろそろと体を反転させ、上を見上げた。暗くてよく見えないが、薄暗い夜空を切り取る真っ黒な草木のシルエットが見て取れる。何とか呼吸と思考を整理して、今ここにいる場所が、道路横に広がる急斜面の藪の中だと認識した。  ひとまず、芹沢を撒けたことに震えるほどの安堵を覚える。と同時に、あの時俺を引っ張ったのは何だったのだろう、と疑問を覚えた。視線は自然に、先ほど裸足の足を見た場所へ移動していた。そして息を飲む。藪の中に一人、女が立っている。  体のほとんどが草木に隠れているが、スカートから伸びた足と裸の上半身が、暗がりの中で白く浮かび上がっている。いや、よく見れば鎖骨の下からみぞおちのあたりにかけては、周囲の暗がりに溶け込むように黒々していた。それがなんであるか気づいた時、喉の奥を嫌な酸味が駆け上ってきた。女の両乳房のあった部分は無残に削がれ、むき出しになった肉が黒褐色に変化していた。  吐き気をこらえるためか、視線をそらすためか、地面に突っ伏した俺は片手で口元を押さえる。鼻から荒い吐息を零しながら、頭の中では一つの考えがまとまりつつあった。 (一件目の被害者は、趣味でナイフを集めていた男。二件目の被害者は確か、女性だったはずだ)  目の前にいるのは、芹沢の被害者なのではないか? だとすれば、俺をこの藪へ引っ張りこんでくれたのはもしや。 (……俺を、助けてくれた……?)  首をもたげ、女を見つめる。彼女は何も言わず、溶けるように背後の藪の中へ消えた。待て、と声をかける暇も無かった。湿った土の上に俺一人、取り残される。そんな俺の耳に、再度頭上を歩き回る足音が響いてきた。 「……!」  その足音は先ほどよりも乱暴で荒々しく、不規則に動き回っている。時折ぼそりと、 「どこ……どこ行った、吉野さん……どこ、どこ……」  と芹沢の低い声が聞こえる。部屋で話をしていた時の、高揚した甲高い声とうって変わって、地を這うように低い声だ。俺は勝手に震え始める肩を両手で戒め、芹沢が過ぎ去るのをじっと待った。  -------  藪に潜んでしばらく時間が立った。  一度、芹沢の足音が遠ざかったのを確認して、俺はポケットを探ったが、そこでスマホを落としてしまったことに気が付いた。頼みの綱だったナイフも一緒にどこかへ消え失せている。そのうえ、靴下しか履いていない状態で走ったせいか、足の裏がじくじくとひどく痛んだ。暗闇でよく見えなかったが、おそらく細かい怪我がたくさんできているだろう。これでは芹沢と対峙するどころか、走って逃げることもままならない。  俺は悩んだ末、この藪の中でじっと身を隠すことを選んだ。 (近くにスマホ落ちてないかな。交番の警官がやられたことも伝えないといけないのに)  藪の中にうずくまりながら、慎重に周辺を手で探る。先ほどからかなり長い間こうして手探りで探しているが、手の先にぶつかるのは土と石と草ばかりだ。 (……くそっ、またかよ!)  再び聞こえてきた芹沢の足音に、頭の中で悪態をつく。先ほどから何度も、芹沢の足音がこのあたりを往復している。芹沢がこの付近から離れないせいで、藪の中で動くこともできない。草木が自分の体を覆い隠してくれるのはありがたいが、下手に動けばその振動が藪全体に伝わってしまう。葉擦れの音や、草木の揺れで、居場所がばれてしまうかもしれない。 「くそ……どこだ、どこ、絶対、この辺に……」  頭上に降ってくる声からは異常なほどの執念を感じる。既に警察がここへ来たことは知っているはずなのに、どうして逃げもせず、俺を探し続けているのかがわからない。  何の前触れもなく、がつん、という凄まじい音が聞こえた。芹沢がその辺の木か、ガードレールを蹴ったのかもしれない。予期していなかった大きな音に、俺は思わず体をびくっと震わせた。がさ、と藪が揺れる。 (……! やばっ……)  頭が真っ白になった俺の耳に、ざくざくと藪に踏み込む足音が無情に響いた。立ち上がって、逃げ出そうとする俺の足を、強靭な手が掴んで引いた。 「ひっ……!」  顎と胸を地面に打ち付け、俺は地面に這いつくばる。右足だけが空中で、鉤爪のような手にホールドされている。 「みっ、みっ、見つけたァ……!」  上ずった声で背後の芹沢は、俺の足を引いて道の上へと引きずっていく。両手と片足で地面を掻いても、柔らかな土はえぐれるだけで、俺の体はずるずると後ろへ引っ張られていった。 「あ……あっ、やめろ、やめろ!!」  土が口の中にはいるのもいとわず、叫んでもがいた。だというのに、芹沢の俺の足を捉える手は少しも弱まらない。藪の中から道の上へと、俺の体がずるずると引きずり出されたところで、芹沢は俺の右腕をとり、そのまま背中に全体重を乗せてきた。 「うぐっ……!」  ひねり上げられた腕の痛みにのけぞる俺の耳元に、獣じみた吐息を感じる。上ずった呼吸の合間に、ひどく楽しそうな笑い声が混じった。 「はぁー、はぁー、は、ははは、は、見つけた。捕まえたよ、吉野さん」 「く、ぁ、くそっ、どけよ!」  押しつぶされた肺にはろくに空気が入ってこず、叫んだ声はかすれてしまっていた。そんな俺の虚勢を笑い飛ばして、芹沢は耳元に顔を寄せて囁く。 「こんなところに逃げ込んでいるなんて、悪い子だね、吉野さん。なんで見つからなかったのかな、吉野さんの匂いがしたのに……まぁいいや、」 「!」  背中に回された俺の手に、冷たく鋭利な感触が押し付けられる。体がぎくり、とこわばった。 「悪いんだけど、急ぎなんだ。ほんとに残念だけど、……残念だけど、持っていけるところだけ、持っていくね」 「あっ、や、やめっ」  冷たい切っ先が、手のひらから肩先、そして首元へ移動する。 「……頭もいけるかな。おっきいやつ持ってきたし、うん。いける。そうしよう」  背後に回された手もろとも背中を膝で押さえつけられる。その状態から頭髪を掴まれて、抗えず無防備な喉を晒す。戦慄くそこに刃が食い込むのを感じ、苦痛に耐えるよう閉じていた目を見開いた。  最後になんでもいい、何か言葉を吐き捨ててやりたかったが、伸びきった喉は呻き声すら上げられない。何もできなかった、その悔しさに、目じりから涙が一粒零れ落ちた。 「じゃあ、一緒にいこうねえ、吉野さん」  ねっとりした囁きを聞き、訪れる最後の瞬間に息を詰めた。その時、涙が膜を張った俺の目に強烈な光がさした。 「……!」 「ぅ……っ!」  顔をしかめた俺の上で、同じように芹沢もその強烈な光にひるんだのがわかった。ぱっ、と頭髪を掴んでいた手が離れる。まぶしさに耐えて薄目を開けた視界に、ナイフを握る手が映った。その瞬間、俺は獣のように叫んで、ためらうことなく、目の前のそれに力の限り噛みついた。 「……がっ!」  芹沢が苦痛の声を上げ、暴れた拍子にナイフの切っ先が、びっ、と目のすぐ下を掠っていく。頬の上をどくどくと血が流れる気配がしたが、歯でとらえた手首は意地でも離さなかった。 「確保ーーー!!!」  野太い雄たけびと、土埃を上げる力強い足音、そして肉のぶつかる音と共に、俺の背中がふいに軽くなるのを感じた。 「ぶあっ……! はあっ、はあっ、はアッ」 「吉野巡査長です、無事です!」  唾液まみれの手首を離し、圧迫の無くなった肺に夢中で空気を送り込む俺の頭上で、様々な音が行き交う。その中で自分の名前を聞いた気がして顔を上げると、俺の前にズザザッという音を立てて何かが勢いよく滑り込んできた。 「吉野さん! 吉野さんだいじょぶっスか!?」  俺の顔を覗き込もうと地面に這いつくばる、その人物の声は確かに、浦賀のものだ。俺は俯かせていた顔を上げた。視界いっぱいに半泣きになった浦賀の情けない顔が映った。 「う、浦賀」 「とっ、途中から応答無くなるし、交番の人からは連絡途切れるし、もう、もう吉野さん、死んじゃったかと……!」 「勝手に殺すな浦賀ァ! それよりさっさと吉野に手ェ貸せ!」  横から怒号が飛んできて、振り返れば髪を振り乱して走ってくる前原が見える。半べそをかいた浦賀が俺を起こそうと手を伸ばすが、それよりも俺には確かめなければならないことがあった。 「浦賀! 桂木さんは!?」 「えっ、桂木さん? 桂木さんなら、車に……」  聞くや否や、腕と脚に渾身の力を込めて立ち上がった。後ろを振り返れば、俯いた芹沢が手錠をかけられた状態で連れられて行くところだった。先ほどまでの気味の悪さは鳴りを潜め、不気味なほどおとなしい。  そしてその向こう側、乱雑に止められた警察車両のヘッドライトに照らされて、幽鬼のように佇む人影がある。その脚が一歩、芹沢に向けて踏み出されるのを見て、俺は駆け出していた。

ともだちにシェアしよう!