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   前のめりになって、頭から突っ込むように走る。なりふりにはかまっていられない。  捜査員たちの波に逆らい、ふらふらと歩く桂木に、各々の対応にてんてこまいな捜査員たちは気づかない。桂木の目はただ一方向、捜査員に連れられて歩き出す芹沢に向けられていた。その姿は傍から見たらおぼつかなく見えるかもしれない。だけど、わかる。桂木のその内側にある衝動を俺は知っている。  俺は桂木の腰にタックルをかますようにしがみついた。タックルと表現するのがおこがましいほど弱々しく、はたから見れば転んだ人間が倒れ込んだだけに見えるかもしれない。だけど俺は必死に桂木にしがみついた。 「桂木さん、駄目です!」  桂木は一瞬動きを止めたが、すぐに俺を振り払おうとする。それに負けないように、俺もしっかりと腰を抱えなおす。払い落すのを諦めた桂木が、俺を腰に括り付けたままずるずると引きずって歩き出そうとした。震える声がぼそっと俺の上に落ちてくる。 「…………芹沢、」 「桂木さん、駄目です、ここで止まってください」 「離してください、……離せ!」  低い怒声が腹を震わせた。同時に手を振りほどかれる。が、すぐに追いすがって再びしがみつく。俺は桂木の顔を見上げることはできなかったが、その身をよじる動作から、彼が忌々しいとでも言わんばかりに苛立っているのがわかった。拘束から抜け出そうとする桂木の手や肘が体にぶつかったが、既に動くだけで全身が痛い俺にとってはいまさら、些末なことだ。  そんな俺の耳に、こちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえる。 「何やってんですか桂木さん、吉野さん怪我人なんっスよ!?」 「邪魔、しないでください。芹沢が……」  頭上から聞こえてくる桂木の声は、歯ぎしりでも聞こえてきそうなほど、限界まで憎しみをため込んだ怨嗟の声だった。 「ああもう、だからこうなるって言ったのにっ……!」  続いて聞こえてきたぼやき声は浦賀のもので、彼がそのまま桂木を羽交い絞めにするのを気配で感じた。桂木は地を這うような唸り声を上げる。  俺はのろのろと首を上向けた。熱でも出ているのか、首を動かすだけでもひどく億劫だった。そうして見上げた先には、見たこともない男の顔があった。  もともと鼻も額もしっかりとした、日本人にしては彫りの深い整った顔だった。その顔がやんわりと動いて喜怒哀楽を見せる、桂木はもともと、そんなふうにいつも控えめな表情をしていた。それが今は。  車のヘッドライトに照らされた顔には、くっきりと陰影を刻んでいる。歯をむき出しにした口、吊り上がった眉、興奮のためかふつふつと湧いた汗が、ぬめって皮膚を光らせる。らんらんと見開かれた目は燃え立つほどで、ただ一点を見据えていた。獣か、いや、人の顔だからこその、この表情だ。憎悪と怒りが作った顔。暴れながら唸り、吠えるその顔はさながら鬼のようだった。  つかの間、俺は呆然とその顔に目を奪われた。怖いとも思ったが、それでも惹きつけられるような引力を感じた。火傷をするとわかっていながら火に触れたくなるその衝動によく似ていた。 「あいつに、あいつ……芹沢に……!」 「桂木さん、ちょっと、あんまり目立つとヤバッ……! てか、俺、あんま力強くないんスから、ちょっと」  引き留める浦賀の困り声の中に、異質な声が混ざった。 「……あれェ、あんた」  その声を聞いたとたん、全身にかいた汗が一気に冷えていった。顔を向ければそこには、捜査員に脇を固められた芹沢が、こちらを見て立ち止まっている。取り押さえられていた時に見せていた無表情はどこへ行ったのか、芹沢は桂木を目に留めたとたん、にぃ、と目と口を弓のようにしならせた。  まずい、と思った瞬間、桂木の腹に押し付けていた耳に、腹から直接びりびりと怒号が響いた。 「芹沢ァア!」  掴みかかろうとした桂木の腕は、渾身の力で止めた俺と浦賀に引き留められて空を切った。激しくもみ合う俺たちの前で、捜査員たちの焦りを帯びた声が飛び交っている。立ち止まるな、さっさと歩け、という捜査員の呼びかけに、芹沢は一切反応しない。ちらと見れば、引きずって行こうとする捜査員の腕を(手錠をかけられているというのに一体どうやったのか、)芹沢は強引に跳ねのけ、そこに留まっている。そしてこの状況を少しも顧みない間延びした声で、桂木に挨拶した。 「あぁ、こうして会うのは初めてだね、こんばんは」  ぐぅう、と頭上で奇妙な唸り声がする。桂木は普段の温厚な口調をかなぐり捨てて叫んだ。 「お前……なぜ殺した! どうして哲生を殺した!」 「あ、吉野さん」  桂木の、積年の恨みがこもった問いかけをあっさりと無視して、芹沢が自分の名を呼んだ。反射的にまた鳥肌が立つ。俺はその声を無視した。どうにか桂木をパトカーのある方向へ下がらせようと足を踏ん張った。 「吉野さんもそこに居たの。さっきは惜しかったねえ…………ああはいはい、あと少しだから、そんな引っ張んないで」 「芹沢、答えろ!」 「もう、あっちもこっちもうるさいなァ……」  芹沢は煩わしそうに、自身を急き立てる捜査員たちと、桂木とを交互に見た。  俺はどこか本能的に、この後に起きる嫌な展開を察知していたような気がする。桂木のシャツを鷲掴みにした手のひらも、ワイシャツが張り付く背中も、ぐっしょりと汗をかいていた。早く、桂木をつれてこの場を去らなければと思うのに、桂木の体は少しも後退してくれず、焦りだけが強くなっていく。  桂木は何度も、芹沢に向かって問いただしていた。その叫びに交じって、はっきりと芹沢の声が聞こえてくる。 「やっぱり、可哀想だね。吉野さん。あんなひどい目にあったのにね」  憐みがたっぷり滴った皮肉気な声だった。どきり、と心臓が大きく跳ねた。きつく歯を噛みしめてその声を振り払うように首を振る。 「なぜ、哲生を……哲生をどこへ隠した……!」 「吉野さんのいう通りだね、桂木一巳は哲生のことばかり」 「……うるさい」  首を振って呻く。  芹沢のぼやきなど無視するように、桂木は芹沢を問い詰める。その芹沢は桂木の問いなどどこ吹く風で、朗々と目の前にいる男に届くように声を響かせる。歯を噛みしめて耐えた。 「芹沢、答えろ!」 「吉野さんはあんな目にあったのに、邪魔者扱いされて」 「やめろ、黙れ!」  誰かこの声を止めてくれ。ふいにそう思って泣きたくなった。  耳をふさぎたくても、もがく桂木を離すことはできなかった。無防備な聴覚を、ねえ、と言う甘い芹沢の声がなぶる。 「可哀想に、この無神経男に教えてあげなきゃ、吉野さんがどんな酷い目にあったのか。ねえ、吉野さんは」 「黙れ!!」  誰かこの男を黙らせてくれ。それか、桂木の耳を塞いでくれ。  お願いだ、聞かないでくれ。 「吉野さんは俺に……―――」 「いや、ちょっと失礼」  そんな飄々とした一言の後、騒がしい舞台にひと際重く、鈍い音が響いた。肉と骨のぶつかる音。とたん、俺の願いは聞き入れられて、芹沢の喚く声どころか、桂木の叫びも、捜査員の声もすべてが静まった。腕に抱え込んでいた体もピタリと動きを止める。顔を上げ、背後を振り返ると、呆然と突っ立っている捜査員に挟まれて、芹沢が地面に膝をついていた。髪を振り乱し、顔を背けているが、その胸倉は正面に立つ前原の太い指に掴まれていた。  前原は沈黙した芹沢と、呆気に取られた捜査員にくるりと背中を向け、つかつかとこちらに歩み寄ってくる。制止する間もなく、前原は桂木の胸倉を引き寄せ、右頬を殴った。ヒェッ、と言う浦賀の悲鳴がかすかに響く。桂木はその場でふらりとよろめき、1,2歩と後退った。 「先生、ちょっと頭冷やしたほうがいい」  そう言った前原の言葉は、突き放すように冷たいようで、後にはじんわりと優しい余韻の残るような、不思議なものだった。 「あ、すみませんな、ご迷惑をおかけして。さて、さっさと連行してしまいましょう。あぁー、今見た事ですがね、あんたがたの主任はどこにいるんでしたっけ、ちょっとご挨拶をね。ささ、行きましょうか」  まごつく捜査員たちのもとに応援が駆け付け、6人がかりの人数で囲みながら芹沢を連行していく。前原はその一行の最後尾につきながら、振り返って浦賀に指示を出した。 「浦賀、先に先生と吉野連れていけ! くれぐれも頼んだぞ」 「は、はいっす!」  俺は呆然としながら、前原のとった一連の動きをのろのろと見送った。そしてゆっくりと、屈んでいた体を起こし、桂木を振り向く。殴られた頬を赤くした桂木がすぐそばに立っていた。その顔をこわごわのぞき込むと、黒光りするその目と、目があった。 「あ…………」 「…………」  魂の抜けたようなぼうっとした瞳が、俺を見てきゅっ、と痙攣する。と意味もなく開閉する唇から、しわがれた声が洩れるのをきいた。 「あ……吉野さん、俺は、」 「俺、ちゃんと言いましたからね」  しっかりとその目を見つめて言う。腹筋に力が入らなくて、声が震えそうだったのを何とかこらえた。 「桂木さんを止めますって、ちゃんと宣言してましたからね」  言葉と一緒に、にや、と笑えていただろうか。桂木はそんな顔をしなくていい。俺は俺のやりたいことをやったのだから、桂木が自分を責めるような顔をしなくていいのだ。だから気にしないでくれと笑ってやりたかった。  先ほどまでの憎悪をむき出しにした態度が嘘だったかのように、桂木は途方に暮れた表情でおずおずと俺を見た。それはとても人間らしい、自己嫌悪や後悔、戸惑い、そして恐れが混然となった表情だった。  とてもじゃないけどいい表情とは言えないのに、俺はその顔を見てほっとした。紛れもなく俺の知っている桂木だった。そして、この人が芹沢を殺さなくてよかった、と本当に思った。  緊張が解けたとたん、脚が萎えてぺしゃん、とその場にへたり込んだ。締め付けるような頭痛と同時に胃の奥が不吉に蠢いて、すべての平衡感覚を奪うような耳鳴りに包まれる。唐突に地面が傾いだように感じて、視界がぶれた。 「吉野さん!!」  浦賀の悲鳴がくぐもって聞こえる。それを最後に世界は無音になった。地面に寝そべった俺の視界の中で、桂木の脚がたどたどしく後退るのが見える。すぐにそれは、俺を支える浦賀の体にさえぎられて見えなくなった。  朦朧とする意識の中、浦賀に引きずられるようにして車へと連れて行かれる。自分の脚が動いているかすらわからない、ふわふわと雲を踏んでいるようだった。  そして、後部座席の柔らかなシートに体を投げ出される。この短時間で道路や土の上にばかり寝転んできた俺は、その柔らかさに、安堵のため息をもらした。  そして、ふと思った。  俺は十分、頑張ったと思う。少し休んでも罰は当たらないだろう。  そう力を抜いた途端、光も音も記憶も、すべてがあいまいに溶けていった。  FILE 05:ゆびきりげんまん  事件終了

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