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02
その日は、年始の忙しさもひと段落し、世間がいつもの日常に戻り始めた頃だった。
午前中から別の部署に応援を頼まれた俺は、夕方になってようやく解放された。支援室に戻ってくると、扉のすぐそばのデスクから「あ、お疲れっす」と声がかかる。浦賀が、装着していたヘッドフォンを外してこちらを振り仰いだ。
「おう、お疲れ」
言いながら、浦賀の後ろを通り過ぎて自分のデスクへ向かう。そこでふと足を止めた。浦賀のPC画面には、芹沢の顔写真がいっぱいに映ったドキュメンタリー番組のワンシーンが一時停止状態で映っている。どうやら、これから放送予定の番組のCMらしい。芹沢の事件は、当初よりは勢いが衰えたものの、時折こうして特集番組が組まれる程度には、未だに世間の注目を集めている。
画面下部にはセンセーショナルに『殺人鬼の正体に迫る!!』とテロップが表示されている。巷ではこのように、芹沢の事を”連続殺人鬼”と形容するのが主流になっていた。連続殺人なんて現実ではそうそう起こらない。まるでドラマのCMでも見ているかのような現実感の無さだった。
浦賀が俺の視線に気が付いたようで、自身もPCの画面に視線を戻す。そしてぼそっと呟いた。
「……殺人”犯”、じゃなく、殺人“鬼”なんスよね、世間から見た芹沢は。まあ実際、実物を見ちゃったら、普通の犯罪者を超えているのがよくわかるというか……そう言いたくなる気持ちもわかるっすね」
「俺も、そう思う」
自然と言葉が口をついて出ていた。「あれは人じゃないって、俺もそう思うよ」
その言葉に、浦賀はくるりと椅子を回転させて俺の方に向き直る。そのまん丸な目はこちらを観察するように、くりくりと見開かれていた。
「人じゃなく、鬼スか」
「鬼……かもなぁ」
言いながら、自分の椅子を引き寄せて座る。そんな俺の動作をじっと浦賀が見つめているのが分かった。おそらく、芹沢の話題だから気を使ってくれているのだろう。いや、逆に気を使わないようにしているのかもしれない。下手に腫れ物に触るようにされるよりも、淡々と話を続けてくれるほうが、実際俺にとってはありがたい。
「鬼って、いろいろあるんですよ」
浦賀は、俺に気を使わない事に決めたようだ。に、と笑って俺にいたずらっ子のような目線を向けている。
「いろいろ?」
軽く首を傾げた俺に、浦賀は少し誇らしげに胸をそらした。
「俺だって、だてにこの部署に長くいないっすよ。オカルト系に詳しくないわけないじゃないっスか。ネットだけじゃなくちゃんと……民俗学? 人類学? の講義も受けたことがあるんスよ。友達の大学に忍び込んで」
「へぇ」
てっきり浦賀は、ネットとシステムにしか興味がないのだと思っていた。民俗学、なんていう単語が出てくるとは意外なところで文系だな、と関係ないことを思いつつ、ふんふん、と相槌を打つ。
ほんの少し、安堵していた。こんな風に、芹沢に関連するような話題をあえて、何でもないことのように話すことで、ちょっとずつ日常が戻ってくるような気がする。浦賀も同じような気持ちなんじゃないだろうか、いつもよりもことさら無邪気そうに笑って見せる浦賀を見ていると、そう思えた。
「そもそも鬼って概念は中国から輸入されたものなんですけど、日本に来てから意味が変化したり広がったりしたせいで、結構曖昧で。日本では金棒持って節分に追っ払われる鬼がメジャーですけど、他にも死んだ人の霊だとか、天変地異だとかも鬼って言うことがあるんスよね」
「天変地異もか?」
俺の疑問に浦賀が頷く。
「はい、っす。分かりやすいところだと風神雷神とかいるでしょ、角はやしてる」
「えっ、風神雷神って角生えてるんだっけ」
「そこからっすか……」
浦賀が目に見えて残念そうな顔をする。そんな顔をされても、俺は芸術とか日本文化とかそういうのに詳しくないのだから仕方ない。うすぼんやりと脳内に、風神雷神が対になった図は思い出せるが、角があったかなんて細かいところまではわからない。浦賀は短くため息をついて俺に向き直った。
「ともかくですね、死人も天変地異も鬼になるわけですが、人が鬼になるというパターンもよくあるものなんです。たとえば」
「般若の面で有名な葵上 の話や、黒塚 などでしょうか」
「うわっ!」
背後から唐突に低い声が会話に参加してきた。完全に油断していた俺はびくっと肩を跳ね上げる。振り返ればそこには、いつからいたのか桂木が立っていた。視界の隅で、浦賀がさりげなくPCの画面を消したのがわかる。流石だ、仕事ができる。
「ど、どうしてここに?」
俺は半ばひっくり返った声で問いかけた。すると桂木は困ったように、
「今日は資料を取りに支援室に行きますと連絡したと思いますが」
と奥のパーテーションを指さした。
「吉野さんは急遽外出されているとのことだったので、待たせてもらっていました」
ああ、と俺は目を閉じる。そう言えばそうだった、と今朝の出来事を思い返して、すっかり忘れていた自分にあきれた。その連絡をもらったすぐ後に、助っ人に駆り出されたから、完全に頭から抜け落ちていた。
そしておそらく、桂木が来ていたことを知っていた筈の浦賀を振り返って睨む。浦賀はすーっと視線をそらした。どうせ、浦賀もヘッドフォンをつけて作業に没頭している間に忘れてしまったんだろう。
俺の視線から逃げるように、浦賀はわざとらしげに桂木に話をふった。
「ああ~そうそう、そうです、葵上。そのへんのことを言いたかったんス。桂木さん詳しいっすね、やっぱり」
話をそらすため懸命にお追従する浦賀に、桂木はどこか気まずそうに視線を伏せた。
「……いえ、俺は、人から教わった程度ですから。きちんと学んではいません」
「俺もそうですよ、おおよそネットでの知識っす」
そう謙遜しあう二人に、何となくのけ者にされたような気持ちになった。二人の間で交わされる単語は俺にはさっぱりだ。そのせいか、「あの……」と問いかけた声は無意識に不満そうな響きをしていて、俺は慌てて咳払いした。
「葵上とか黒塚って、何ですか?」
そう、改めて桂木に問いかける。浦賀に聞かなかったのは、また残念そうな顔で「知らないんですか?」と言われそうだったからだ。桂木は表情一つ変えずに答える。
「葵上は源氏物語の話の中の一つです。黒塚は鬼婆伝説の話ですよ」
源氏物語は知っているが、読んだことはない。多分、古文の授業で一部分を読んだくらいだ。黒塚の方に至ってはまったく知らない。どんな話ですか? と恥を忍んで頼む前に、ありがたくも桂木はあらましを話してくれた。
「黒塚は能の演目の一つです。昔、鬼が棲むと噂の安達ケ原 で、旅の山伏一行が年をとった女の家に一晩泊めてもらうのですが、女はけして寝室を見るなという。一行の一人がその言いつけを無視して寝室を覗くと、そこには人骨が山のように積んであって、女こそが安達ケ原に住む鬼だと気がつく。秘密を知られて怒り狂った女は正体を明かして鬼婆となり、山伏達を追いかける。山伏達は命からがら逃れまるが、鬼婆は暴かれた己の姿を恥じながら消えていく、という話です」
桂木は、前髪に埋もれてどこを向いているかわからない瞳をおそらく俺に向けて、淡々と語る。そっけない口調ではあったが、だからこそ余計に言い知れぬ迫力があった。
「……葵上? のほうも、そんなふうに鬼婆が出てくるんですか?」
そう問うと、桂木はわずかに首を振る。
「葵上の話に鬼婆は出てきません。光源氏 の正妻である葵上に嫉妬した、六条御息所 という女性が、嫉妬のあまりに生霊となり、葵上を取り殺す話です」
鬼婆は出てこないが出てくる単語は物騒だ。
光源氏や源氏物語の概要はさすがに知っているが、一話一話の詳しい内容まではわからない。そんな、ピンときていない様子の俺に、桂木は問いかけるように顔を傾けた。ちらり、と揺れた前髪の隙間から真っ黒な瞳が垣間見える。
「吉野さん、般若の面は知っているでしょう?」
「あ、ええ。わかります。あの怖い顔のお面ですよね」
「ええ。あれは能で用いる、鬼女……鬼になった女性のお面です。葵上も能の演目になっていますが、この生霊となった六条御息所は、般若の面をかぶります。彼女の嫉妬心が鬼になったと、般若の面をかぶることで表現しているわけです」
「な、るほど。だから、彼女も鬼なのですか」
頭の中に般若の面を思い浮かべてみる。恨みがましい目をして、歯を剥き出しにした、恐ろしい女の顔。あれがそもそも女性の顔だというのも今初めてきちんと知った気がする。六条のうんたらという女性は、その葵上という女性にそれほど嫉妬していたのだろうか。自身が鬼になるほど。
「……その六条の、えーと」
「御息所」
「あ、そう、その人は、恋敵が憎くて、取り殺そうとして鬼になったんですか」
どことなく、恐る恐る問いかけるような口調になっていた。自分でもどうしてそうなったのかわからない。そんな俺の気配に何を思うのか、桂木が思案気な表情でこちらを見ていた。
「……いいえ。六条御息所は、葵上を殺そうとしたわけではありません。生霊となったのは無意識のことでした。それに、六条御息所が大っぴらに葵上を激しく憎んだとは作中にも描かれていません。むしろ、高貴な身分でありながら、年甲斐もなく光源氏に恋したり、嫉妬心を持ってしまうことを恥じて苦しんでいます。自分でも制御できない嫉妬心や恋慕がつのって、その感情が限界を超え、鬼になって露われ出る……と、能の舞台でもそういった演出がされています」
「そうなんですね」
「有名だから俺もその話だけは読んだんスけど、切ない話ですよね~」
横から、浦賀が感慨深げに呟いた。切ない。その言葉に顔を上げるのと、浦賀のPCからメールの着信音が響いたのは同時だった。おっと、と浦賀が背もたれから身を起こし、くるりと椅子を回転させてPCの前に向き直る。
話が終わったという雰囲気の中で、それでもぼーっと同じ方向を見続けている俺に、桂木が声をかけた。
「吉野さん、どうしました?」
「……ああ、いえ。なんでもないです」
声をかけられてはっと我に返る。こちらを覗き込むようにわずかにかがんでいる桂木から後退るように、俺は身を引いて立ち上がった。
「すみません、資料でしたよね。今持ってきますから」
ほんの少しだというのに、いつもより近い距離に心臓が敏感に反応した。ばれる筈は無いのに、俺は逃げるように資料室へと向かう。無意識のうちに胸元のシャツを握り締めていた。
(ああくそ、静まれ。仕事中だぞ)
背を向けていた俺には気づきようもなかったことだが、俺のその後姿を、訝しげに桂木がじっと見ていた。
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