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05

 コーヒーや目薬が効いたのか、それ以降あの妙な眩暈に襲われることはなかった。また寝不足気味だったのかもしれない。昨日も例の夢を見た。正確には一昨日も一昨々日も見たのだが、その時は特に寝不足を感じなかった。それなりに長距離の運転だったから疲れが出たのかもしれないが、まあ、コーヒーと目薬でどうにかなるのであれば問題ない。  隣から、かさ、と小さな音がした。桂木が資料に目を落としつつ、チョコレートをつまんで口に運んでいる。控えめに開いた唇に甘い欠片が飲み込まれ、もぐもぐと口元がかすかに蠢く。その動きが、大きな図体とちぐはぐに小動物めいていて、妙にかわいらしく見えた。そのせいだろう、いつもは資料を読む桂木を極力邪魔しないよう、黙って運転に徹する俺だったが、今日はなんだか無性に声をかけたい気分だった。 「そう言えば桂木さんは、和宿市に行ったことあります?」 「……和宿市は……いえ、通り過ぎた事しかないですね」 「あ、そうなんですね。ほら、ここって巳縄沼に近いじゃないですか、となりだし、来たことがあるのかなと……」 「丁度その、巳縄沼に行った時に通り過ぎましたね」  桂木は手元の資料をぺら、とめくる。その目線が資料に注がれたままであることに、焦れるような気持を覚えた。  何か、桂木の気を引くようなことを言いたい、という衝動にかられる。どうにかして、桂木にこちらを向かせたい。何故かわからないがその気持ちはこらえがたく、俺は必死に続く話題を探した。そして見つけた。 「巳縄沼、も、哲生さんと一緒に?」  そう考えたのは自然なことだった。桂木はもともと、怪異という存在を無視して生きてきた。そんな彼が観光地でもなんでもない、忘れ去られた古い神がいるという伝承があるだけの、さびれた場所に行くとしたら。そのきっかけは哲生以外に考えられない。哲生は桂木に怪異との接し方を教えていたというし、彼自身は怪異と積極的に関わっていた、と桂木自身が言っていた。  果たして、俺の願い通り桂木は、つ、と顔を上げこちらを見た。そして願いが叶ったその一瞬、華やいだ胸の内はあっという間に萎んで潰れた。 「……ええ。哲生が行きたいというので、ついていきました。……懐かしい、」  最後の言葉は、窓の外に広がる山々に向けて呟かれた。だから俺がひどく打ちのめされた顔をしていたのを、桂木は見ていない。  こちらに向けて顔を上げた時、桂木はとても柔らかい表情をしていた。付き合いの浅い人ならばその違いはわからないかもしれないが、俺にはちゃんとわかった。  大事なものを取り出してそっと愛でるときのまなざしだった。 「そう、でしたか」  一拍遅れた不自然な相槌にも気づかず、桂木は窓の外を見ていた。それをいいことに、俺は胸の内に吹き荒れる後悔の嵐にもみくちゃにされた。ステアリングの柔らかな合皮に爪を立てる。 (言わなきゃ良かった。どうしてよりにもよって哲生さんの話を。言わなきゃ、よかった。あんな、)  あんな表情を見たくなかった。あの顔を引き出しているのが哲生なのだと思うと、呼吸が苦しくなった。  桂木にとっての哲生の存在は唯一無二の存在で、それを覆すことはできない。哲生がいたから、今の桂木がある。哲生はもはや桂木の一部分と言っていい。そんな相手にどうやって勝てと言うのか。 (勝つ、って、なんだ)  そんな言葉が自分から出てきたことに驚いた。思えば、いつもは心の中ですら思うことを避けている言葉が、今日はぽんぽんと飛び出してしまう。そしてそんな言葉と共に、とめどなく感情が湧き出てくる。まるで壊れた蛇口のように、もはやそれを自分では制御することができず、呆然と見ていることしかできない。  俺は戸惑い、無意識のうちにシャツの首元を握った。今日は激しく動く予定だからスーツではない。だからいつもよりも呼吸が楽なはずなのに、どうしても喉が締めあげられるように苦しい。ネクタイの無い襟元をもがくようにぎゅっと握った。 (……変だ。おかしい。何が、何かが……駄目だ、考えがまとまらない。……苦しい)  濁流のような感情の渦に思考が飲み込まれ、頭がそれ一色に染まっていく。悲しいと悔しい苦しい、その混沌とした感情の海に溺れる寸前、俺の目は道沿いに設置されている道路標識を捉えた。『和宿の森散策コース』と書かれたその横に、左折の矢印が書かれている。その文字が、今は仕事中であることをかろうじて俺に思い出させてくれた。  仕事。今日の目的地。そこにたどり着かなければ。俺は藁にもすがる思いで、ひたすらその目的地のことを考えた。  減速してウィンカーを出す手さばきはもはや体に染みついたもので、車は滑らかに左折する。そして急な上り坂を、エンジン音を響かせながら登っていく。 「このまま道を登って行けば、立ち入り禁止の場所に突き当たるんでしたか、」 「っ、あ、ええ。そうです。着いたら、鎖を外して入ってください、と言われています」  仕事モードを思い出した俺は何とかそう答えることができた。平常心、平常心と心の中で唱え、荒れ狂う胸の内の嵐を抑えようとする。 (大丈夫だ、ちょっとすればすぐに戻る。いつも通り、そう、大丈夫……)  カラカラの喉を潤すようにコーヒーを飲み下す。冷めたコーヒーは苦く、食道と胃を冷やすだけで、心を落ち着かせる手助けにはならない。仕事、仕事、と念じ続ける思考の隙間に、またもじわじわと、暴力的な感情の波が浸水してくる。  それに耐えながら、機械的に車を進めていくうちに、ハイキング客用の駐車場が見えてきた。それを通り過ぎるように道は続いているが、その先は明らかに道が荒れている。 『この先行き止まり』の看板を横目に道を進んでいくと、どうやら道の舗装が無くなったらしく、土の道を踏みしめるじゃりじゃりというタイヤの音が耳につく。そこから1分もしないうちに、車は立ち入り禁止の鎖の前に到着した。  道の両脇に、腹ほどまでの高さの杭が打ち込んであり、その間を鎖が繋いでいる。鎖のたるんだ中央には、『立ち入り禁止』と書かれた板がぶら下がっていた。  車を止めると、桂木が車の外へ出る。俺は2,3秒ぼうっとして、慌ててその後を追って車を出た。油断すると、思考も行動も頭から飛んでしまいそうだ。今だって何を考えて行動したわけではない、桂木が外へ出たから自分もついていっただけだ。それほどまでに、俺の思考能力は低下していた。  後から考えれば、こうまで感情が乱れるのは異常だと判断し、桂木に相談すれば良かったのだと思う。だけど、その時の俺にそんな理性が残っていたとは思えない。何より、自分を支配するその感情が何かを考えれば、桂木に相談するなどもってのほかだったと思う。  桂木は、杭に引っ掛けられただけの鎖を外し、もう片方の杭の近くへと鎖を引きずって立つ。 「俺たちが調査している間に鎖を外しっぱなしにしておくのもまずいでしょうから、吉野さんは車を杭のこっち側へ進めてください。そうしたら俺が鎖をかけ直しますから」 「あ、……はい、わかりました、」  言われるままに運転席へと戻り、ゆっくりと車を進める。少し進んだ場所でそのまま待っていると、鎖をかけ直した桂木が助手席へと戻ってきた。俺は「じゃあ、出しますね」とか何とかぼんやり告げて、徐行運転で進んだ。  頭のどこかで、おかしい、と誰かが小さく叫んでいた。いくら時間を置いても、どんなに「落ち着け」と唱えても、もはや膨れ上がるこれを抑えきれない。頭の中が一杯だった。何で一杯なのか? それは……いやそれよりも。桂木は今も助手席から山を見ているだろうか、かつて哲生と自分が登った山を思い出しているだろうか。今から向かう場所にいるかもしれない哲生を思っているに違いない。隣にいる俺のことはどう思っているだろうか? 同僚? いやきっと、ただの同僚ではない。もっと信頼を寄せてくれているはずだ、少なくとも。なら、相棒? まだ足りない。欲しい。もっと俺を信用してほしい。何が足らないだろう、何をしたら振り向いてくれるだろう。あんなふうに笑いかけてもらうには、どうしたら? どうやって? 何が足りない、どうして) 「……あれですね。もう少し、車を進める事はできますか?」  ごちゃついた頭の中で、かろうじて桂木の声が聞こえた。そしてどうにかその声に従うことができた。  ごみの山が見える。(欲しい)その近くに車を止める。エンジンを切る。(俺を見て)桂木が車を出る、俺も車の外へ。(なぜ)仕事をしないと、桂木の役に立つために。(どうして)車から出て、目の前のその、錆びた鉄と色あせた塗料に彩られた山の前に立った。それが限界だった。  ぷつっ、と体の中から音が聞こえたように思う。俺の膝が突如、ぬるっと溶けたように感覚を失くした。その場で尻もちをつく。 (くるしい)  あえぐように開いた口から、空気を取り込むよりも先にうめき声が漏れ出た 「うあ、ぁ、ぁあああぁあぁぁぁああ」  高く低く揺らぐような奇妙な声だった。胸の空気をすべて絞り出すように体を前に折る。とたん、両目からぼたり、と涙の雫が落ちた。 「吉野さん……?」  どこかで桂木の声がする。それをさえぎるように、俺の口から阿呆のような間抜けなうめき声が漏れる。 「あ、あ、ぁぁう、あ。ど、して……」  荒々しい足音が近づいてきて、大きな手で両肩を掴まれた。かくん、と首の座らない赤子のように頭が傾ぐ。  歪む視界に桂木の姿が見えるが、何度瞬きをしても、涙がすぐ目に膜を張った。  口が不明瞭な何かを呟く間も、頭の中には洪水のように様々な思いが、気持ちが、考えが、ぐちゃぐちゃにあふれていた。 (わからない、苦しい、どうして)(桂木さん? どうしよう、こんな、嫌われたら、)(あなたのために、たくさん、なんだって、できるのに)(どうして)(何をしたら俺を見てくれる?)(どうして来てくれなかったの)(どうしたらいい)(どうして)(どうしたら)(どうして) 「ど、う、して……?」  目の前の桂木にふらふらと手を伸ばし、羽織っていたダウンを鷲掴みにして、その体に縋った。桂木が俺の背中を支えるように手を回す。 「これは……でもなんで、」  困惑した声が頭上から聞こえる。相変わらず俺の頭の中は取っ散らかっていて、唇は震えながら何かをブツブツ呟いていた。  ふと、ダウンを握りしめていた右手が、温かい何かに包まれる。手の甲から握りしめられたそれは、桂木の手だった。 「吉野さん、聞こえてますか? 立てますか?」  俺の返事を促すように、ぎゅう、と手を握られる。ただそれだけの行為のはずなのに、胸が万力で締め付けられるように痛んだ。  悲しい。今更になって、俺の中をいっぱいにしているこの感情が改めて“悲しみ”の感情なのだと思い知った。  とにかく、悲しい。それ以外を考えることなど許さないとでも言うように、それは暴力のように俺の頭を支配していく。  桂木への思いが届かない、桂木が俺を見てくれない、桂木が俺の思いを裏切る、桂木が、 「どう、し、てっ!」 「……!」  噴き上がる感情に操られるように桂木の胸に追い縋って、その顔を振り仰いだ。 「どうして、来てくれなかったの……? な、ぜ? わたしは、ずっと、まってたの、に」  大きく叫んだ唇が切れて血がにじむ。口を動かすたびにびりびりと痛むのに、傷跡に構いもせず口は勝手に動き続ける。  それはまるで、自分ではない何者かが口を勝手に動かしているような感覚だった。 「あなた、を……信じて。まってた、の。いつか来てくれるって、なぜ、どうして、どうして、どう……」  途中から言葉は嗚咽に代わり、俺は涙も鼻水も涎も垂れ流して俯いた。  感情の奔流に押し流されそうになる。自分が誰で、どんなことを思って、何をしていたのか、そのすべてが消えてしまいそうになる。そのことに、頭の隅っこにわずかに残っていた”俺”が恐怖を覚えた。 (こわい)  自分の中を勝手に流れていく、この暴力的な感情とは違う、正真正銘の、本当の俺の感情だった。怖い、誰かどうにか、ここから自分を救い出してほしい。俺は助けを請うように、触れていた桂木の指先をぎゅっと握った。 (桂木さん、)  声に出ていたかわからない。それでも必死に叫んだつもりだった。 「……吉野さん、いいですか、何もできなくても、話せなくても結構です。聞こえているなら聞いて」  頭上から、落ち着いた低い声が響いてきた。その声に、精いっぱい耳を傾ける。背中を、温かい手の平がゆっくり撫でていった。 「吉野さんの中に、何かがいます。俺には対処ができないので、それができる知り合いのところにあなたを連れて行きます。辛いでしょうが、しばらく耐えてください」 「あ、あぅ、あぁぁぁ……」 「少しの辛抱です。大丈夫……」  そう言うと、桂木は俺の腕を肩へと巻き付け、もう片方の手で腰を抱き、力の抜けた俺の体を立ち上がらせた。  体は俺の言うことを聞かないが、桂木に引きずられると、それに釣られたようにのろのろとした歩調で歩み始める。そうやって桂木は俺を連れて、車の後部座席の扉を開いた。  だが、俺を中に入れようとしたところで、自分の体が急に強張るのを感じた。桂木の腕と車のドアフレームを掴み、必死に体をのけぞらせ、頑なに後部座席に入ることを拒む。 「……あ、や、やだ! ここ嫌、や、いやぁ……!」 「わ、わかった。わかりましたから、こっちに乗りましょう」 「う、ぅ、」  背中をなだめるようにさすられ、俺は鼻をぐずぐずと鳴らしながら、促されるままに助手席に収まる。不思議と、ここに座ることには抵抗がなかった。だけど、バタン、と扉を閉められた瞬間、びくっと体がすくんで言いようのない不安に襲われた。きょろきょろと見回す視界に、運転席の扉を開けて入ってくる桂木の姿が映るや否や、その腕に手を伸ばしてぎゅっとしがみつく。その様子に一瞬驚いた桂木だったが、すぐにまたなだめるように背中をさすってくれた。 「大丈夫、すぐに元に戻りますから」  俺と自分の二人分のシートベルトをつけ、桂木はエンジンをかける。その場でUターンし、先ほど登ってきた道を今度は下り始めた。

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