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06

 ごとごとと揺れる車内で、俺は涙と鼻水を垂らしながら、ぶつぶつと何かを呟いている。唇が何度も繰り返し、どうして、なぜ、という言葉を形作る。右手は桂木のダウンの裾を握りしめたままで(どうしても離そうとしなかった)、でもそうしていると少しだけ、感情の波が治まる気がしていた。  道中、どのくらい時間がかかったかは定かではない。途中、何度か桂木が、べちゃべちゃになった俺の顔面をティッシュで拭いたり、車を止めてどこかに電話をしていたりするのは見ていたが、それ以外のことはほとんど覚えていない。  泣き続けたせいか、頭がぼうっとしていて、半分寝ているような状態だったせいもある。相変わらず頭の中は感情が渦巻いているのだが、体がそれに反応することができない。  うすらぼんやりした意識がゆっくりと浮上する。気が付けば、いつの間に車が止まっていたのか、助手席の扉を開けて伸びてきた桂木の腕に肩を揺さぶられていた。 「吉野さん、手を、」 「…………」  喋り疲れたのか、唇はしばらく前から動かない。勝手に意図しない言葉を呟くことは無くなったが、自分から何かを喋ることもできない。ただのろのろと手を伸ばし、桂木に支えられるがまま、車の外へと連れ出された。  体が揺さぶられるたびに、酷い頭痛がする。泣きはらした目や、頬がチリチリと熱い。そんな自分の体を持て余し、ただぐったりと桂木の肩にもたれるしかできない俺は、どこか遠くで聞き覚えのない声が聞こえることに気が付いた。 「ああ、来よったか。その人が例の?」 「はい、お願いできますか」 「ん、ここじゃ落ち着かれへんやろ、中入り」  関西訛りの、柔らかな男の声だった。桂木に連れられて俺は再び歩を進める。  しばらく歩くと、ふっと一瞬視界が暗くなるのがわかった。同時に、冷たい外気に苛まれていた肌が、ふんわりとあたたかな空気に包まれる。背後で扉が閉められるような音がしたとたん、渦を巻いた空気に運ばれて、線香の香りが鼻を覆った。 「靴脱がせられるか? 奥の座布団に座らしたげて」 「吉野さん、靴脱がしますよ」  朦朧とする間に、桂木ともう一人の手によって靴を脱がされ、板張りの床に敷かれた座布団にすとん、と座らせられる。背もたれも何もない状態でふらふらと揺れる俺の肩を、桂木ではない誰かの手が支えた。 「うん、ちょっと失礼」  かくん、と揺れた頭も支えるように、もう一方の手が俺の頬に添えられて、優しく上向かされる。とうに涙は枯れていたので、視界は明瞭だった。  そこには、精悍な顔つきの男がいた。俺の瞳をまじまじ覗き込むように、その場でしゃがみこんでいる。一目見た瞬間、お坊さんだ、と思った。黒く長い着物と、袈裟と呼ばれるのだったか、その上に重ねた衣は、お坊さんと言えば誰もが連想するような恰好だった。 「うん、おいなるわな。さて、ちょっとお話、聞かせてもらおうな」 「……俺は、ここに居ても問題ありませんか、」 「ええよ、なんかあったらこの人んこと助けたって」 「はい」  視界の隅で、動く影があった。多分桂木だろう。首も、目線すら動かせない俺には確認しようがないけれど、そこに確かに桂木の気配を感じる。  目の前の男が裾を払い、正座をした。大きな手で両肩をがっしりと掴まれる。 「聞こえとるかなぁ。お姉さん、このお兄さんの中に()るね。なんや、悲しいことあったんやろね。お話聞くさけ、俺に話してみ」 「……う」 「だーいじょうぶやて。お話するだけや、こわないよ」  ゆっくり肩を撫でさすられると、不思議と心中が凪いでいく。それにつられるように小さく唇が開いた。 「……うして、」 「んー?」 「どうして、……くれなかった、の」 「んー……」  男が瞼を閉じて、俺の唇に耳を寄せる。同時に、ぽん、ぽん、と寝かしつけるような緩やかな速度で背中を優しく叩かれた。  ぽん、ぽん。まどろむような速度で体を揺らされるたび、ぎゅうぎゅうに締め付けられていた喉元が緩んでいくようだった。 「あ……」 「……ああ、そうかぁ」  思い出したように、目から涙が一粒だけ転がった。落ちていった涙の後を追うように板張りの床に視線を落とす。そんな俺の頭上に、悲しげな声が降ってきた。 「お姉さん、約束してたのに、来んかったんやね」 「あ、」 「ずぅーっと、待っとったんやねぇ」  ぽん、と再び背中を叩かれる。すると、ふいに自分の中から、ころり、と何かが転がり出た気がした。 (え?)  驚きに瞬きをした次の瞬間、俺はどこか薄暗い場所で、ぽつんと立っていた。  場所、というより空間、と言った方が正しいのかもしれない。床も壁も天井も境目がなく、ただぼんやりと自分の周りだけがほのかに明るい。  さー、とホワイトノイズに似た音がすると思ったら、頭上から静かな雨が降り注いでいた。  そんな暗く冷たい空間に、俺の他にもう一人、誰かがいる。突っ立っている俺の足元に蹲るように、一人の女性がそこにいた。  雨に濡れた髪の毛が俯いた顔にへばりつき、身に着けた黒いワンピースもぐっしょりと体に張り付いている。そのくしゃくしゃの裾から、真っ白な足がのぞいていた。女性の背中はかすかに震えており、下を向いた顔からか細い嗚咽が響いてくる。すぐに、泣いているのだとわかった。  不思議なことに、自分がいきなりこんな場所に立っていることについて、疑問は抱かなかった。恐怖も感じなかった。ただ、目の前の女性の、震える肩が寒そうで、可哀想だと思った。 「あの、」  声をかけてから初めて、自分が自由に声を出せることに気が付いた。ゆっくりと近づいて、手を伸ばす。じっとりと濡れそぼつ、黒い生地に包まれた華奢な肩にそっと手を置く。とたん、再び周囲の景色は刷毛でなぞるように色を変えた。ざああ、と勢いよく逆巻いて俺の周りの空気が塗り替わっていく。  その不思議な現象が収まった時、俺は夜の繁華街の、薄暗い路地裏に立っていた。頭上からは冷たい雨が降り、水たまりがネオンの光を受けて反射している。  目の前には、表通りの人波から隠れるように、ひっそりと白いワゴン車が駐車されている。その後部座席を開けて、傘を差した男が車内を指し示した。  ぼうっとその光景を見つめていると自分の視界が勝手に動いた。まるで、他人の視界を覗き見ているかのようだった。自分の意思とは関係なく、視界に入る景色が変わっていく。不思議なことに、俺が視界を覗き見しているこの人物が、痛いほど不安を抱えていることもよくわかった。不安と恐怖に押しつぶされそうな心を、どうにか保っているのは、この人物が誰かを信頼しているからだ。それは、頼りなく伸びる一筋の細い糸のような、縋るには脆すぎるものだと本人もわかっている。それでも彼……いや、おそらく彼女は、その一筋の糸を握りしめて、誘われるままに車へと進む。  強張る手で自身の差していた赤い傘を畳むと、肩や頭をしっとりと雨が濡らす。体を半分ほど車内に入れたところで彼女は不安を感じて振り返った。とたん、視界がガタガタとぶれて暗転、明転を繰り返す。下卑た男の笑い声がわんわんと響くなか、衝撃と混乱が彼女の頭をかき乱す。その中に小さな、あきらめのような悲しい感情がじんわりと広がったのを感じた。  耳を覆う笑い声がひずんで耳鳴りへと変わり、耐えがたいその音に俺はぎゅっと目を瞑る。次に目を開けた時、俺はもはや見慣れた光景の只中にいた。  ぬぅと眼前に手が伸びてくる。そう、ここ最近毎日のように見る悪夢の始まりと同じだった。  髪を掴まれて、体の上にのしかかられて、誰かの……彼女の叫び声が聞こえてくる。夢と違うのは、周囲の景色が、一部を除いておおよそはっきりしていることだった。灯りの灯らない車の天井は灰色で、運転席の背面に備え付けられたポケットには雑誌が乱雑につっこまれている。  目の前の男の黒い髪や、はだけた衣服も見えるのに、唯一現実味が無いのが、男の顔だった。男の顔は、見ることを拒絶するかのように、真っ黒に塗りつぶされていた。  それはひたすらに不気味だったけれど、俺にはそれより、覚えのある悲しみの感情に、ああ、と胸が締め付けられる気持ちになった。  涙と一緒にだくだくとあふれ出し、渦を巻いて流れる”悲しい”という気持ち。それは、ただ一つ信じていたものに裏切られた彼女の嘆きだ。彼女の縋っていた細い糸は、ふっつりと切れてしまった。  なぜ、どうして、と、意味がないとわかっていても何度も問いかけてしまう。そうせざるを得ない気持ちを、俺は知っている。それは彼女が”俺の中にいた”時も、彼女の目を通して記憶を見ている今この瞬間も、絶えず繰り返されてきた、答えのない問いかけだった。  あなたを信じていたのに。迎えに来ると言ったじゃない。どうして来てくれなかったの。なぜ私はこんなに辛い目にあっているの。どうして、どうして、どうして。  大きな手が重なって、彼女の首を包んで押しつぶす。喉の奥で痛みがはじける。頭が燃え上がりそうなほど熱い。破裂しそうだ。苦しい、痛い、悲しい。  既に暗くなりつつある彼女の視界で、目の前の男の口元だけが、クローズアップされたように最後、見えた。  ―――……男を信じてこんなところに来るなんて、馬鹿な女だ。  彼女の耳には残酷な言葉がはっきりと聞こえた。それきり、彼女は動かなかった。  気が付けば、俺はじっとり濡れた女性の肩からパッと手を離していた。耳障りな男の笑い声や、きしむスプリングの音はもう聞こえない。さー、という穏やかな雨の音だけが俺を包み込んでいる。  俺は冷汗をかいて、呆然とその場に立ち尽くしていた。一瞬、ほんの一瞬のうちに、俺は彼女の、最後の瞬間を共有した。まるで自分が彼女そのものになったかのような、恐ろしくリアルな感覚だった。夢で見た時とはわけが違う。喉に食い込んだ男の指の感触が、未だに離れない。そっと喉に触れて、そこに穴が開いていないことに安堵したほどだ。  俺が、今まさに体験した残酷な情景に打ちのめされていると、すぐそばで蹲っていた女性が身じろぎをした。彼女はぴくり、と身を震わせ、緩慢な動作で顔を上げる。 「あ……」  彼女はその細い首をもたげて、ゆっくりと頭上を仰ぎ見た。初めて見るその顔は青白く儚げだったが、その瞳は揺らぐことなく一点を見つめている。  その女性の目線を追うように俺も頭上を見上げると、ほのかにあたたかな日の光のようなものを頬に感じた。  さー、という雨の音がいつの間にか聞こえなくなり、頬を打つ雨粒のとつとつという感触が消える。  雨が止んだのだ。 「……わかってたの」  ぽつん、と呟かれた声に振り向く。 「あの人が私のことを愛してないって。本当は、わかっていたの」 「…………」  頭上を見上げた彼女の顔は、まるで憑き物が落ちたかのようで、一切の表情が抜けきっている。だけど、それは虚ろなものではなく、どこか清々しい解放感さえ感じる表情だった。  彼女はゆっくりと、その場に手をついて立ち上がろうとする。とっさに手を伸ばし、彼女のふらつく体を支えた。 「……ありがとう」  彼女はそう言って少しだけ笑った。そして俺の手から静かに離れる。彼女は、記憶の中で差していたのと同じ、褪せたような色合いの赤い傘をその手に持っていた。襞が広がったままのそれをくるりと巻いてバンドで留める。彼女のその仕草はまるで、雨宿りを終えて軒先から歩き出そうとする、そんなごく自然で日常的なものに見えた。  声をかけようにも、どう話しかけていいかわからず、突っ立ったままの俺に向けて、目の前の女性はまっすぐに向き合う。彼女は畳んだ傘を胸に抱き、すっと頭を下げた。 「あ……」  それきり、彼女は俺のほうを見ることはなかった。その場でくるりと振り向いて、まっすぐに歩き出す。  何か言葉をかけなければ、そう思って口を開いたが、彼女が歩を進めるたびに周囲が暗く翳っていくのに気が付いた。  彼女の黒い髪とワンピースはあっという間に闇に溶けて見えなくなる。最後にはただ、湿気を含んだ雨上がりのすがすがしい匂いだけが残った。  --------------------------

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